* あい繋ぐ星に【第7話】 *


 誰もいなくなったフロアの照明を消した明史は、お腹を擦りながら職場のあるビルをあとにした。ここ最近、会議や資料の作成、イタリア語訳の手伝いなどが増えて残業が続いている。最後まで職場に残っていたのは久しぶりで、上司の美保から労いのお菓子をもらったが足りていない。
 ……駅に着いたら、近くのコンビニで夕食を調達するか。
 明日も会議があって定時に帰れないのはわかっているから、なおさら早く寝たいと思う。
 地下鉄駅まで続く歩道。植えられた木々の葉はすっかり秋の色だ。昼ご飯のために外へ出たときより格段に寒い。
 ……雄哉の結婚式も、ちょっと冷えたよなあ。すごく楽しめて良かったけど。
 先月末のガーデンウェディングはあいにくの曇り空で肌寒い気温だったが、懐かしい顔ぶれとの再会は良い熱になった。二次会から三次会は結婚のお祝いというより同窓会と化して、大学の友人たちと朝方まで飲んでいた。その反動で、翌日は一日ぐったりしてしまい、友人からの連絡だけでなく櫂人の返信も放置していたほど。
 そんな櫂人のほうはすっかり普段の忙しさが戻ってきたらしく、週に一度なんとか時間をあわせて勉強会をしている状況だ。会う日時を決めても直前に流れることが多く、そのたびに彼から謝りの文面が届く。俳優という超流動的な職業なのだからこればかりは受け入れるしかない。
 明史も来年の夏と冬に出す新製品の件が動き出して、十二月半ばまでこの調子だ。早めにやることをしておかないと、イタリアの提携先がクリスマスモードで仕事をしなくなるからだ。日本企業同士なら調整できることも、国が違うとある程度あちらの文化にあわせなければならない。
 爽やかな香りが風に乗っている。秋というよりは夏の草花。新製品予定のボディケアスプレーやクリームをいくつも試したせいだ。夏に出すものは欧州版を改良して販売する。最後のぶんは洗い流さなかったから、ゼラニウムとレモングラスのすっきりした香りが明史を包んでいる。
 ……明日の社内もなんとなく匂いが残ってるんだろうな。
 人気が極端に少なくなった二〇時半。駅までの残り半分のところで、荷物が点在して置かれているのが目に入った。四角いバッグといくつもの長いコード。左側のビルとビルの狭間が明るい。
 こちらに向かってくる通行人が、同じ方向へチラと視線を流す。その様子を見て、明史も撮影をしているのだと気づいた。この近辺は時々ドラマや映画の撮影に使われる。歩調を緩めて注視すると、ビルの隙間から黒いコードを持ったスタッフらしき人が出てきた。車道にはハイエースが二台横付けされている。
 いつもならば気に留めず家路を急ぐけれど、今日の明史は立ち止まった。
 もしかしたら、という想いがあった。一昨日、五日前と二度に渡ってドタキャンされ、櫂人とは一〇日も会っていない。
 ……別に、会いたくてたまらないとかはないけど。元気にしてるかは気にかかるし。
 居たらラッキー程度の軽い気持ちで、近くへ寄ってみることにした。ミーハー気取りの恥ずかしい行動だけれど、親しい人が俳優なら言い訳ができる。
 距離を取りつつ、邪魔にならないように覗く。すぐ背の高い後姿が見えた。
 ……あ、いる。たぶん櫂人だな。
 ひょんな偶然に目を輝かせる。普段見たことがないスーツらしきものを着ているが、背格好から鑑みて九〇%くらいは彼だろう。ドラマの撮影でロケが増えたと話していたから、可能性は高い。キャストは出番を待っているようだ。スタッフの動きのほうが忙しない。
 ……ドラマの撮影は待ち時間がなによりも長いって言ってたからなあ。でも、早く演技してくれないかな。
 覗いて見たものの、ずっと同じ体勢でいるわけにはいかない。どうしようか考えあぐねていると、不意に男が振り返った。暗いほうにいる明史に気づいたのか、「あっ」と驚いたように口を開ける。やはり櫂人だ。
 ……気づいた。こっちに来る。
 とてもよく知る男なのに、スーツ姿で向かって来るのがわかるとドキドキした。彼の仕事現場に乗り込んだような照れも出てくる。
「明史じゃないか。なんでこんなところにいるの?」
 彼の嬉しそうな顔が、いつもより凛々しい。家にいるまったりのびのびした櫂人ではなく、緊張感とクールさを兼ね備えた俳優・織茂櫂人のほうだ。つられるように背筋が伸びる。
「うちの会社、すぐそばなんだよ」
「職場このあたりなのか。今は仕事帰り?」
 目を合わせて尋ねてくる。明史はさりげなく視線を逸らし、大きく頷いた。はじめて見たスーツ姿。つい見惚れてしまった。
「いつも本当にごめん。最近のスケジュール、俺も読めなくて」
 耳元に、櫂人の声が聞こえて肩がビクッとふるえる。少し首を傾けて謝る彼。明史も気を取り直した。彼は度重なるドタキャンに罪悪感をもってしまっているのだろう。しかし、大学時代も似たようなものだった。
 ……むしろ、大学のときは講義の代行もしてたから、今のほうが楽だ。
「オレのほうがあわせやすいんだから、気にしないで。空いてる時間に連絡してよ」
「うん。宿題はちゃんとやってるんだ。早く採点してほしいな」
 声のトーンが高くなり、素の櫂人が出てくる。その変化にたまらずほころんだ。
「忙しいのに、優秀じゃん」
 彼が口元を上げて頷く。微笑み返して見詰め合うと、その横で声が響いた。
「織茂さん」
 若くはっきりした女の声。その主を辿り視線をずらして下を見る。ハイヒールに薄いダウンジャケットをまとった女の子が見上げている。明史は俳優に詳しくないが、若手の女優だとわかる。撮影中なのだ。
 突如として、妙な気分が胸に染みてきた。彼女の目はつぶらで綺麗にメイクが施されている。顔は小さく可憐な雰囲気。景色を麗しくするタイプだ。
「あの、メイクさんが」
 マネージャーでもなくスタッフでもなく、なぜ彼女がわざわざ櫂人を呼びに来たのだろう。牽制のように感じて顔をしかめそうになるが、彼のほうは気にしていないようだ。
「ごめん。ありがとう、すぐ行く」
 スッピンでも美人だとわかる女優へ、柔らな表情で親しげに答える。
 この場も潮時だと思った。元々、明史のほうが部外者なのだ。
「引き留めてごめん。仕事がんばれよ」
 身を引くように挨拶をすると、俳優の顔に戻った彼が無言で頷いて手を軽く挙げる。そして、若い女優のほうへ歩き出した。かかさず寄っていく可憐な彼女と和やかに話しはじめる。
 明史はそれらから目を引き剥がした。明るく強い照明の光から離れ、暗い夜道へ足を向ける。帰路はイガイガした気持ちを滅したくて、渋い顔をして黙々と歩いた。
 櫂人のいる華やかな場所。かわいくて美しい人々が集う世界。女優の名前は知らないが、どこかで一度は見たことがある。誰が見てもかわいいと思える子だった。
 生きている次元が違う。それ以上に、芸能界という響きが明史に嫌な感じを持たせる。劣等感からの嫌悪というよりは、櫂人と大きな隔たりを感じてしまって心許ないのだ。大学の頃、寂しくて苦しかったことも思い出させる。
 ……疎外感とか、気にするなよオレ。櫂人は単なる友達だ。この気持ち、早く忘れるんだ。
 呪文のように心で唱えながら帰宅して、我に返る。コンビニエンスストアで夕食を調達することすら忘れていた自分。余計虚しくなる。
 気持ちをなんとか切り替えて翌朝、仕事に集中しようと早めに家を出たが、つい撮影場所だったビルの隙間へ視線を動かしてしまった。当然のごとくもぬけの殻。夢の出来事だったんじゃないかと思えてくる。
 ……ある意味、全部夢だったら楽なのかもしれないけど。
 問題なく午前中の仕事を終え、昼食を済ませる。会議前の資料確認をはじめ、すっかり昨夜のことが薄れた頃、スマートフォンが振動した。
 午後三時過ぎという時間に連絡をくれるのは母親か櫂人くらいだ。すぐに文面を見た。
『いつもごめん。突然だけど、明日の夜会える? 予定が空いたんだ』
 読んだ勢いのまま二つ返事でOKしてすぐ、しまった、と思った。
 ……まるでオレ、櫂人に会いたくてたまらないみたいだ。
 居たたまれなくなったのもつかの間、櫂人から『マジ、よろしく! 絶対ドタキャンはないから!』と返ってくる。お互い様のようで気持ちが落ち着いた。残業続きだが、明日は金曜日。次の日の心配をしなくて済む。
 翌日、残業から開放されて帰宅し、待ち合わせの二十二時に櫂人の家へ向かった。笑顔で迎えてくれた彼は、一昨日見た彼とはやはり少し違う。Tシャツにスウェットというラフな格好をしているせいもあるだろう。
「ごめん。あわせてくれて本当に助かってる」
「いいよ、オレは明日は休みだし、家は徒歩圏内なんだから」
 リビングに着いて、早速イタリア語の宿題の答え合わせと課題をはじめた。手元を覗き込みながら、差し入れでもらったという有名店の焼き菓子をつまむ櫂人は満足げだ。赤丸が続いているからだろう。
「俺、フランス語よりイタリア語のほうが好きだなあ。聞き取りやすいし、話すときはリズムが大事って明史が言ってるのがよくわかるよ」
 その感想は嬉しい。純粋にイタリア語を楽しんでいるようだ。
「オレもこの言語が好きになったのは、発音や話すときの響きが美しいと思ったからなんだ」
 オペラのイタリア語を調べてほしい、と訴えてきた母親に感謝だ。慣れない言語に最初は戸惑ったが、言葉の響きにはすぐ魅了された。素敵なイタリア映画たちも学び続ける原動力になった。
「そうなの? 俺もいいなーって思う。オペラ発祥の国ってのもわかる」
「語尾がかならずアエイオウの母音だから、日本人には慣れやすいっていうのもあるよね。歌は語尾が母音のほうが綺麗に響くっていうし」
「確かに英語の歌とイタリア語の歌は印象が違うかも。発音記号で苦労することもないしな」
「文法はややこしいけどね。イタリア語を勉強すると英語も理解しやすくなるってメリットも確かにあるよ。ラテン語由来の英単語は三〇%くらいあるっていうし」
 そう言いながら採点を終える。全部正解。多忙だというのに優秀だ。安心して次の単元に進む。が、櫂人は気にかかることがあるように、視線を絡めてきた。
「明史は、外国に住んでみたいとかってあんの?」
「え? あんまりない」
「ねえの? 英語もイタリア語もできるのに?」
「うーん……まあ、入社した頃はちょっと思ってたけど」
 イタリアと深く関わっている会社だが、海外赴任はない。言語が使いこなせるのは美保と明史の他にももう一人いて、まれにある長期出張が自分に回ってくる可能性も低い。それに、元々キャリアに対する意識は高くないのだ。
「やっぱり日本が一番いいかな」
 ……今、三か月くらいイタリアに行ってくれなんて言われたら死ぬほど悩むと思う。ずっと日本に居続けたいんだ。
 その理由は少なからず櫂人にある。
 再会して改めて感じているのは、櫂人が今も変わらず特別な存在だということ。特別すぎて、他が見えなくなりそうなほど。
 でも、想いの強さは『友達として』のままで留めておきたかった。大学時代のような過ちを繰り返したくない。
「じゃあ、続きするよ」
 話を戻して参考書を指差す。櫂人も背を伸ばして生徒に戻る。
 今日は過去形。現在形との違いを説明して、細かく動詞活用を教えていく。会話の練習とともに数問一緒に解いて、問題集を広げた。指定した設問へシャープペンシルを動かす彼を見つめながら焼き菓子を食べる。
 喋るのを止めると、異様に瞼が重くなる。一週間残業続きで今は二十三時半。睡魔が来るのも無理はない。櫂人が書き終わるまでと決めて、目をつむる。
 次に瞼を開いて時計を見れば〇時を過ぎていた。
 ぐっすり櫂人に寄りかかって眠っていたことに気づき、慌てて身体を起こした。




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