* あい繋ぐ星に【第18話】 *


 間近から聴こえてくる鋭い咳で、頭が一気に冴えた。
 目を開けたときの視界の高さ。柔らかいスプリング。隣で櫂人が寝ているのに間違いはない。
 昨日の続きを思い出してみると、激しく鼓動が鳴りはじめた。
 ……うわ、そうだ、ご飯の後で櫂人に引きずりこまれたんだ!
 動揺のままベッドから飛び出そうとしたが、寸でで留まる。背を向けて寝ている櫂人に気づかれぬよう、ゲスト用の掛け布団とともにそっと片脚を落とし、ゆっくり床へ座り込む。大きな吐息をついた。
 ……昨日はすっかり櫂人のペースに巻き込まれてたから、変な気も起きないで済んだけど。朝からコレだと心臓に悪い。
 恐る恐る櫂人の顔を覗いてみる。スヤスヤと眠る姿。布団に半分埋まった輪郭は美しいが、やはり少し痩せたようだ。
 ……食べることに慎重になってるもんな。胃腸までおかしくしたら最悪なのはわかるけど。
 昨日はソファーでずっと彼を宥めていた。が、そんなことで体調が良くなるはずはなく、「咳のせいで肋骨が痛い」だの「喉が渇いた」だの言い出したことを機に、どうにか引き剥がして夕食をつくりにいったのだ。
 毎回似たような食事で悪いと思いつつも、本人はちゃんと食べてくれた。そのときに、翌日は一一時までに家を出る、と話してくれたので、しっかり養生してほしいと食事後すぐベッドに連れていったのだが……一人で寝たくないと腕を離してくれなくて、こうなってしまった。
 櫂人がワガママを言い出したら折れることは絶対にないし、大学時代にも何度か同じようなことはあった。疲労と諦念の中で、明史は「一時間だけだぞ」と掛け布団を掴んで、櫂人のベッドに乗り込んだわけだ。
 ……櫂人の横でがっつり寝てたオレも、相当疲れてんだろうなあ。
 仕事と櫂人のことで、寝不足になっていたのは確かだ。自分も良い根性してるよな、と、思いながら時計を見て飛び上がった。
「ヤバッ!」
 始業時間二十分前。
 ……出張前なのに完全に遅刻だ! うわー、どうしよう。まずは職場に電話しないと。
 足早でリビングへ入り、トートバッグからスマートフォンを取り出す。なんと言えばいいのか逡巡するも、嘘をでっち上げるしかない。
 仕方なく仮病を使うことにした。時間を見計らって、上司の美保へ連絡する。出てくれた彼女へ、少し体調が悪いので病院に寄ってから出社する、と話せば、疑うこともなく承知してくれた。
「出張前に大丈夫? 用心してね」
「すいません。宜しくお願いします」
 恐縮しながら通話を切る。罪悪感を抱きつつも、これで出社は昼過ぎでいいことになった。
 ……過ぎたことはしょうがない。とりあえず、オレに風邪が移ってなくてよかった。思ったより頑丈なのかな、オレ。
 薄暗いリビングに移動してカーテンを開ける。快晴の朝へ一瞥して、明史は昨日の片付けと食事の準備をはじめた。
 大方のことを終えて時刻を確認すれば、一〇時過ぎ。
 ……そろそろ櫂人を起こすか。
 キッチンを出ると、見計らったようインターホンが鳴った。
 ピンポーンという音にあわせて大きく鼓動が跳ね、急いでテレビモニターを見る。映像が出ていないということは、エントランス部分からではない。
 ……宅配業者とかじゃないのか。櫂人に訊いてみよう。
 廊下を歩く間、もう一度ピンポーンと鳴り響く。
 寝室を覗けば、櫂人は起きていた。大きく伸びをしてこちらを見てくる。おはよ、と言った表情は明るい。
「おはよう。櫂人、誰か来る予定だった?」
「いや、たぶんマネージャーだから開けていいよ。俺、用意する」
 思ったより早く来たなあ、という呟きを背で聞きつつ、玄関へ足を運んだ。
 開けたドアの外。背広を着た男性が紙袋をいくつも持って立っていた。
「おはようございます」
 初対面でも気にしない様子だ。爽やかな挨拶に、明史は居た堪れなくなって頭を下げた。
「おはようございます。すいません、代わりに開けてと頼まれたので」
「いえ、こちらこそ。中に入っていいですか?」
「ええ、どうぞ、」
 招きながら緊張感に包まれる。大学時代も何度か櫂人のマネージャーに会ったことはあるが、すべて女性だった。男性マネージャーは初見だ。どう見ても櫂人より年上で、パッと見てセンスの良さが伺える。
 リビングに着いて、はじめましての挨拶をする。松岡裕士という名の彼は、明史に気兼ねなく微笑み、荷物をもうひとつの部屋へ置きに行った。櫂人がどこにいるのか探せば、バスルームから水音がしている。
 ……マネージャーさんに、飲み物でも用意したほうがいいのかな。
 戻ってきたマネージャーへ、櫂人はバスルームにいると伝え、飲み物はいるか尋ねた。どうしようか、と考える間はあったが「用意していただけるもので、」と返ってきて、少し救われた。
 紅茶を淹れ、ティーカップをテーブルに置く。礼を言った松岡は明史を見つめたまま。なにかを訊こうとするような表情だ。
 ……平日の朝にいるなんて何者だ、なんて思われてるのかな? いや、でもさっきの挨拶で学生時代からの櫂人の友人ですって言ったし。
 寝起きのままだった自分の身だしなみに気づく。衣服の皺や寝癖が気になるのかも、と手で整える。
「あの、失礼ですが、」
 松岡の声に視線をやった。
「ボトルの飲み物を用意してくれている方ですか?」
 その質問で合点がいった。
「はい、そうです。中身は生姜湯で、変なものではありませんから」
 答えると松岡の顔がほころぶ。明史もいくらか気持ちがほぐれ、言葉を重ねた。
「毎日僕が用意しているわけじゃないんです。普段は彼が自分で用意しています」
「けど、下準備はしてくださってますよね?」
 当たり前のように訊き返されてしまい、小さく首を縦に振る。彼は櫂人の性格をよくわかっているようだ。
「ありがとうございます。助かっています」
「いえいえ、昔から慣れているので。本人は、なにか言ってましたか?」
「美味しいと言ってますよ。つくってくれた方にとても感謝している様子で」
「そうですか……櫂人、また病院に行く機会はありますか?」
「今日行く予定なので大丈夫ですよ」
「それなら、よかったです。朝ご飯もつくってしまったんですけど、彼が食べたいと言ったら食べさせて大丈夫ですか?」
「はい。まだ時間はあるので」
 マネージャーの了解を得られて一安心する。時刻は一〇時半。そろそろ櫂人がリビングに来る頃だと、廊下へ目を向ける。
 ……オレもさすがにちょっとお腹空いてきた。一緒に食べていいかな。
 視線を戻す。すると、また松岡が自分を見つめていた。明史に興味があるのは間違いないようだ。
 ……なんか気になることでもあるのかなあ。女性じゃない、とか? スキャンダルにならなそうだ、とか?
 なんだか嫌な気分になってきた。マネージャーならば、ゴシップを何度も対処してきたはずだ。
 ……櫂人は前科がありすぎるからな。オレはあくまで、一般人だし。
 テンションを落ちはじめた明史の耳に、松岡の小さな声が届いた。
「千野さん、」
 名を呼ばれ、顔を上げた。
「なにかありましたか?」
 気になることがありすぎて、自然と早口になった。マネージャーは、言って良いのか悪いのかという顔をしながらも答えてくれるようだ。
「大学時代、とても仲がよかったんですか?」
「あ、はい。櫂人と部屋が隣同士で。彼がスカウトされたときもよく覚えていますけど」
「なら……再会できた大切なひと、というのは千野さんなんですね」
 安堵に似た含みのある一言。
 松岡の言葉が意外すぎて、ポカンと口が開いた。
「え?」
「彼が言っていたんです」
 そのときは名前まで言ってこなかったんですが、と付け加えたマネージャーが話しはじめる。
 櫂人は大切な再会者を、大学時代に一番親しかった彼、と話していたということ。今回の飲み物についても、この間再会したヤツがつくってくれて、と言ったそうだ。大切なひとって言ってた人? と訊いたら機嫌よく頷いたらしい。
 これらを踏まえて、松岡は『櫂人の大切なひと』が明史だと確信を得たようだ。
 そんなことをいきなり伝えられても、どう答えればいいのかわからなかった。困った顔から戻せなくなったまま、マネージャーを見つめる。
 ……確かに、大学時代に一番親しかった男性っていうのは、オレのことかも。
 そう思うと、異様なほど期待が湧いてきた。
 ……本当に自分だったら、すごく嬉しい。
「ほかに、なにか僕のことで言ってましたか?」
 櫂人の側近から色んなことを訊いてみたくなった。けれど、マネージャーは考えるような素振りだ。
「プライベートについて、あまり話さないんですよね」
 詮索しすぎたかもしれないと思ったが、口を開いた松岡は律儀な回答をしてくれた。かなり信用してくれているようだ。
「ただ、今回みたいにボロが出ることはあって。そういうときは、大抵彼にとってかなり嬉しいことがあったときですねえ」
 と、続けてくれた。ボロが出る、というのがなんとも櫂人らしい。「そうなんですか」と相槌を打つ。すると、なにか思い出したように、親切な彼が再び口を開いた。
「そういえばこの間、ロケがあって、とても寒い場所だったんですが。大切なひとと一緒にいると、日なたとか木漏れ日にいるみたいな気持ちになる、なんて言ってましたね」
 唐突で抽象的な言葉に瞬きを数度重ねた。
 ……日なた? 木漏れ日?
 それは、柔らかく温かいイメージだ。大切なひとが、本当に大切であるかのような言い回し。
 なんだか途端に、自分では当てはまらないような気がしてきた。
 ……オレはそんな明るくもないし、柔らかい感じもないんだけど。
 湧き出ていた期待が、少しずつ淀んでいくのを感じた。
「あと……私は二年前からの担当なんですが。出だしの頃に、たくさんテレビに出たら大切なひとも観てくれるはずだから仕事は選ばずやりたい、と本人が言っていたとも聞きましたよ」
 松岡の声にあわせて、雄哉の発言が自動的にリフレインされた。
 ――テレビに出まくって有名になったら、千野もおまえを見直してくれるよって励ましたもん。
 櫂人が退学届けを出したとき、雄哉が言ったことと似ているではないか。
 ……俳優になった経緯は櫂人から聞いてたけど、ちょっと今の話と違ってないか? 本人はオファーが来たからやる気になったって言ってたけど。本気で、テレビに出たら『大切なひと』も観てくれるから俳優に転向したのか?
「千野さん。こんな状況ですので、大変恐縮なのですが宜しくお願いします」
 突然話を切ったマネージャーに、ハッとして大きく頷く。
 感謝よりも困惑が勝った。先に車に戻っています、と言ったスーツの男を目で追う。廊下で櫂人の声が聞こえてきた。入れ違いにこちらへやってくる。
「明史、いつもありがとう」
 昨日は子どものようにグズッていた櫂人が、大人の笑顔を向けてきた。眩しすぎて、心臓が強く跳ねた。慌ててキッチンへ逃げ込む。
 なにも考えないようにして朝食を用意した。彼は機嫌よくお粥のお代わりをねだる。明史は半分も食べられなかった。
 胸中を知らないよう、櫂人に青いボトルを持たせてにこやかに見送る。
 ドアが閉まる音が聞こえると、堰き止めていた感情がドッと溢れた。
 つくっていた表情が剥げ落ち、よろよろとリビングへ引き返す。重力に身体も気持ちも負け、ドスンとソファーに座り込んだ。
 肩を丸め、垂れた頭は上がらない。朝の光がやたら目に障る。
 これから仕事に行かなければならない。でも、行っている場合ではない。
 ……オレは、櫂人の大切なひとなのか? 本当にそうなのか?
 今までのことと第三者たちの証言がグルグル渦巻く。こういうことは考えるよりも、櫂人の口から聞くほうが早いし確実だ。
 ……でも、そんな勇気あるわけないだろ! 勇気があったら、八年前の大嘘も仲違いみたいなこともなかったんだ。
 二の舞、という単語が明史の脳裏をよぎった。スウーッと血の気が引く。
 あんな結末はコリゴリで、再会時に『友達として接する』と決意したのに。努力して、気持ちのやりくりしてきたというのに。櫂人とその周りが、無邪気にその防波堤を壊しにかかっている。
 なにより、マネージャーの発言に縋りたくて仕方がない自分がいた。
 『友達』よりも『大切なひと』という言葉のほうが魅力的なのだ。櫂人のすぐ隣にいるような感じがする。彼に心から求められているような気さえする。
 ……もし仮に、オレが大切なひとだとして。それは、どういう意味で言ったんだろう。あくまで親友として? もしくは、家族みたいな感じ?
 それとも……、なんて心の中でも言えなかった。
 舞い上がったところで、どうせ後で傷つくだけなのだ。
 ……身勝手な望みは捨てるんだ。櫂人にとっての『大切なひと』って、オレ以外にも絶対いるんだから。女優とかモデルとか、忘れられない元カノとか。
 いくつも自分を牽制するようにネガティヴな言葉を引きずり出した。
 期待は所詮、期待なのだ。今の本人に自覚がなくても、大切に想うひと、好意をもっている相手はすでにいるのかもしれない。
 考えれば考えるほど、眉がきつく寄った。
 ……櫂人にたくさん大切なひとがいてもいい。でも、大勢の中の一人は、嫌だ。
 どうしても櫂人の特別でいたいと願う。諦めきれない想いが心の隅で叫んでいる。泣きたくなった。
 ……オレって、結局、櫂人のなんなんだろう?
 せめぎあう感情から生まれた、大きすぎる疑問。
 それはやがて明史の影に重なって付きまといはじめた。




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