* ディアガーランド【第1話】 *


 往来する各停電車は、始発から四つ目の駅で高架へ上がる。北上する列車に乗り換える人々が駅のホームに放たれると、熱を帯びた空気は瞬く間に緩慢となった。六つ目を過ぎ、今は残された数人の客が眠るように腰かけている。
 天貝周乃(あまがい ちかの)は本を閉じると、ようやく流れゆく街へ目を向けた。
 雨ばかりで憂鬱だった一週間は、夜が明ける前に終わっていた。美しい快晴の空。寝起きに窓を見やって、この電車からの風景がパッと頭に浮かんだのだ。都心から北へ向く路線はいくつもあるけれど、高架を通るのはこの路線と新幹線だけだ。晴れているときの車窓風景は素晴らしく、あと数駅越えれば富士山だって見える。
 ……今の時期は光の差し込み方も綺麗で、暖かさもちょうどよくって、好きだ。
 晩春の柔らかい空につられて家を離れ、電車に乗った。始発駅は周乃が住むところから徒歩一〇分、終点は都心。今は復路だ。目的地なんてない。終点に着いても降りることはなく、そのまま折り返した電車に乗り続けている。車窓を眺めた後は終点ひとつ手前で下車して、駅直結の本屋へ寄るつもりだ。
 ……帰りの電車は、休日も人が少ないんだなあ。
 電車に乗るときは平日を選んでいる周乃だが、土曜日でもこの程度の乗車率なら悪くないと思えた。しかも、今日は陽気に浮かれ出たせいで、いつも被っている帽子を忘れている。席がすべて埋まっていた往路では、不安と緊張で顔を俯かせたままずっと本を読む振りをしていたけれど、……誰も周乃に興味は抱かなかったようだ。視線を気にして耳を立てていたが、噂する人もいなかった。
 一般人Aとして車内にいられる安心。その反面、少しだけ淋しい気持ちを呼び寄せる。スポットライトを浴びていたせいだ。物心つく前からショービズの世界にいたことで、いつも複雑な思いに囚われる。
 昔取ってしまった『有名子役』という杵柄は、周乃の心をずっと巣食い続けていた。
 すでに芸能活動をしていないから、子役の前に『元』がつく。CMや映画に出ていた全盛期は一〇年くらい前のことだ。年齢も翌二月で十八歳になるし、十三歳のときに強いストレスから対人恐怖を引き起こして、学校にも芸能事務所にも行けなくなった。都内にある自宅で引き篭もってしまった周乃を救い出してくれたのが、隣県に住む父方の祖母だ。三年前から古い一軒家で祖母の美重子と二人、息を潜めるように暮らしている。
 普段は脚の弱った祖母に乞われて付き添う外出がメインだ。けれど、去年から少しずつ自分一人で出歩けるようにもなった。行ける場所は近所の図書館と本屋と美容院、そしてこの路線の各停電車。四つくらいしかないけれど、外へ一切出たがらなかった期間を知る祖母は、周乃の変化をおおいに喜んだ。
 人が嫌いなわけではない。人がまだ怖いだけだ。特に幼い頃から顔が売れてしまった身の上で、陰口や噂をされることに過敏になっている。知りあいの多い実家付近は、今でも怖くて近づきたくない。その点、隣県は裏事情を知る人がおらず、帽子を被って俯いて歩いていれば気づかれなかった。しかも、今日は帽子がなくても天貝周乃だと気づかれないことを知ったのだから、安堵もひとしおだ。
 対向する外側の線路から、新幹線が現れて通過する。わずかな揺れと音、柔らかなプリズム。光を感じたくて、端に居た周乃は席二つ分中央に移動した。春を引き寄せた柔らかい日差しが脚に当たる。
 幼いときは手も足も顔も、全体的に女の子のように丸っこく、ふわふわの癖毛も相まって天使のようだと行く先々で褒められた。けれど、成長は残酷だ。食べても太らない体質が固定されると、顔立ちはシャープになり、冴えるような白い肌は脆弱と映るようになった。奥二重の目尻は切れ長で、涼しげというよりも冷めた印象をもたせる。幼少期の雰囲気は幻のように消えてしまった、と、はっきり言われたこともある。唯一変わらないのは、横顔のラインが綺麗なまま、というところだろうか。どんな印象も、周乃にとっては自分を縛り苦しめるものに他ならない。
 こげ茶色の瞳を空に移した。一際高い山を見つけると頬が緩む。大好きな富士山だ。快晴にそびえる姿は季節を問わず、人間の評価も優劣も超えて力強く佇んでいる。その様を眺めるだけでも心は和らぐ。
 電車はゆっくりと次のホームへ滑り込んだ。ホームの屋根で日差しが途切れる。快速電車と接続するため少々停車するとのアナウンス。四つの番線が整列する主要駅のひとつだ。普通電車はこの駅だけ反対側の扉が開く。
 入り込む春の風は涼しい。一分も経たず、反対側から同じかたちの車両がやってきた。快速電車に乗り換える人々が忙しく行き来する。乗客数は増えるようだが、周乃のいる一番端の車両までは来ない。
 ……このまま扉が閉まれば気が楽だけど。
 そう思いながら対向の電車を眺めていると、慌てて降車した人が見えた。乗り換えの駅だと気づいた素振りでこちらへ向かってくる。快速電車が先に閉まった。
 駆け足で来るのは、若いスーツ姿の男。
 不思議と惹きつけられて、周乃は彼を見つめた。背の高い男は乗車口の手前で歩調を緩ませ、振るうように腕を伸ばす。裾の上がった手首と腕時計。確認する仕草がなんだか少し気障だ。次に、顎を引いて電車の電光掲示板を見る。
 休日なのにスーツなんだ、と思う。同時に、観られることに慣れていると直感がはたらいた。立ち姿が綺麗に見えるのは、背筋をピンとさせているからだろう。引き篭もるようになってすっかり猫背になった周乃と対極にいる。晴れやかな印象だ。
 視線を顔にあわせると、彼も周乃に気づいた。瞳と瞳があわさる。ドアが閉まった。
 整えられた黒髪と眉、明るそうな口元。男はどちらかというと彫りの深い容貌だが、二重の黒い瞳が愛嬌を秘めている。学生時代に女子から人気のあるスポーツをこなしていたような印象。
 ……あ、イケメンだ。
 心の中でもらしてしまった言葉を拾うように、男が止めていた足を動かしはじめた。こちらへ向かって来るのがわかって、心臓がピリッと凍る。すぐ瞳を落とした。
 彼は周乃の前でスッと身を屈ませた。揺れる車内で上手にバランスをとる姿は目をひく。何かを手にしていた。
「落ちていますよ」
 周乃の栞だった。二人しかいない大切な友人の一人からのプレゼントされたもので、ウォールナットを素材に梟と花のリースがプリントされている。差し出された長い男の指。自分の手より、一回り大きく見える。
「ありがとうございます」
 さりげない親切を受け取りながらチラッと視線を上げれば、彼が周乃を見つめていた。射抜くような眼光に、また息が止まる。
 素性がバレたのか。猛烈な不安で顔ごと逸らした。
「良い本、読んでいますね」
 聞こえた声は、懸念していたものと違っていた。サッと太股に乗せていた文庫を見る。昭和中期に活躍した、歌人兼劇作家の歌集だ。乗客が多いときの気の紛らわし用に、いつも歌集か戯曲の文庫を持ち込む。一番のお気に入りは淡い色のこの文庫。選ぶ本がないときはかならず手にしていた。
 芝居や映画は一切観なくなったが、脚本や演劇論の書物はまだ抵抗なく読める。芸能界から離れても、周乃の胸には演じていたときの記憶が残っていた。強い照明も撮影カメラも好きになれなかったが、台本を覚えたり物語を思い描いたりすることは今も好きだ。
 お気に入りの文庫を良い本と言ってくれた、男の着眼点に良い印象を覚える。しかし、どう返答すれば正解なのかわからず、もう一度同じ台詞を繰り返した。
「ありがとう、ございます」
 単調なフレーズにもかかわらず、スーツの男は一度目のお礼と違ったものを感じたのか目尻を緩める。
「どうも」
 そして、身体を起こすと上部のモニターを見た。車窓は新たな駅に場を移していた。
 唐突に男が会釈をする。この駅で彼は降りるんだ、と思った通り、開いた扉から真っ直ぐホームへ降りていった。吐息が零れる。それで、自分が息を詰めていたことに気づいた。
 ……なんか、すごく、ドキドキした。
 久しぶりに祖母以外の他者と会話をした。駅や店で聞く無機質な言葉ではなく、目を見つめ、感情を読み、交わした言葉。男は低く通る良い声をしていた。背も高く、肩幅があってスーツも似合う。
 ……今の人みたいに、オレにもそういう成長があったら、違っていたのかな。  周乃は栞を文庫に挟んでバッグにしまった。
 ……声も良い感じだったな、顔にあってて。って、ダメだ、そんなふうに思うのは。
 悪い癖だとわかっているけれどやめられない自分がいる。外に出るとすぐ他者を比較してしまうこと。そして、リフレインする。引き篭もる前に言われた数々の言葉。
 成長してバランスが悪くなった。声と顔があわない。陰湿な印象になった。扱いづらい。もっと前に出て話さないと、存在感ないよ。
 叱咤するように言われても、直しようもないことまで軽々しく口にされて傷ついた。声変わりをはじめた、中学一年のとき。なんでそのままでいてくれなかったのかな、と、成長を全否定された。
 演技の評価ではなく、容姿と雰囲気で未来が左右されるという現実。演じることが好きになりはじめたと同時に思い知って、元々出たがりではない性格が一層内気になった。そして、蹴落とし蹴落とされ生き残るために必死な子どもたち。自分がその中にいるということが心底嫌になった。
 ……嫌なこと、また思い出した。
 巣食う感情に胸は軋むが、この痛みの対処法を知っている。周乃はゆっくり呼吸をして、静かな車窓を見つめた。
 大丈夫、と何度も念じる。彼らはもう近くにいないし、世界は広い。物心着く前からいた場所は、本当に狭い業界だったのだ。
 ……そろそろ、何か新しいことしようかな。
 視線でもう一度富士山を探す。
 自分の傍に残ってくれたやさしい人たちに見守られながら、少しずつ心を回復させている。そんな日々の中で、新たに湧いてきた感情がある。
『焦り』だ。かき乱された心を落ち着けるために使った時間を、同期の元子役たちは学業か俳優業に費やしている。周乃はというと……本を読むくらいしかしていない。
 篭もっていたことを否定はしない。無理して高校へ行っていたら、本当に自分を見失っていたかもしれないし、生きることがしんどくなっていただろう。何かしたい、という意欲なんて湧かなかったはずだ。
 ……小さいことでもいい。いっそ、富士山に登るとか。
 これから、コツコツと何かを達成したい。自分の歩く道にちゃんと足跡をつけていきたいという気持ち。
 ……やるなら、もっと資格っぽいほうがいいかな。いずれ就職にも有利になるような。
 今さっきの、男のスーツ姿が眩しかった。
 自分も男なのだからスーツが似合う男性にもなってみたい。勉強は苦ではないし、労働もやればできるだろう。ただ、社会に出るとなるとたくさんの人と接さなければならない。
 ……でも、人は苦手だ。それが一番の問題なんだ。
 人のいない車内のような、静かで柔らかな社会がどこかにあれば移り住むのに、と、またいつものように理想を願う。降りる駅が見えてくると重い腰を上げ、俯いたままホームへ足を降ろした。




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