* ディアガーランド【第2話】 *


「雨が降ると寒いわねえ」
 祖母、美重子の言葉に黒いカーディガンを着た周乃は頷いた。彼女を腕で支えるとほのかな化粧粉の香りがする。いつも身綺麗にしている祖母は品よく運転手に一礼し、タクシーは代金を受け取ってまた駅へ流れていった。正面玄関で傘をカバーに納め、空調が整えられた院内に入る。
 都内の総合医療センターは、六月の雨でも待ち人で溢れていた。杖を片手に歩く美重子に俯いたまま寄り添う。受付から二人きりのエレベーターに入ると、一仕事を終えたように周乃は大きく息を吐いた。その様子を、祖母がやさしく見つめている。
「終わったら、いつものところで食事ね」
 食事処は近くにある昔ながらの喫茶店、ドルン。病院から少し歩くが、ご飯もデザートも美味しく、ランチタイムは長い。美重子は四ヶ月に一度この病院へ通うようになってから、かならずドルンでハヤシライスを食べていた。外食が大の苦手な周乃も、ドルンならば落ち着いていられた。店のオーナーには素性を知られているし、そのうえで気にする素振りもなくそっとしておいてくれる。
 昼食に異論なく頷く。この大病院にも慣れてきた。総合受付と会計付近は人が多くて俯きがちになるが、診察のある階まで行けば人は限定される。大学病院でないから学生の見学や研修はなく、かなり静かだ。
「名前、呼ばれたから行ってくるわね」
「うん。おばあちゃんの荷物、ここで守ってるよ」
 ソファーから祖母が側の検査室へ入るのを見届けて本を取り出した。携帯電話は持っているが連絡用だ。病院では切っている。
 引き篭もりの孫を外に出す方法として、祖母のやり方は成功している。
 今年八三歳になる美重子は普段、買い物用のお洒落なカートを押して一人行動をしている。しかし、電車に乗るとなると不安が付きまとうらしい。通院は家からタクシーで都内まで出る案や病院を替える案もあった。でも、周乃は彼女の頼みを葛藤した末に受け入れた。演劇好きで本好きである彼女の蔵書には新たな世界を教えてもらったし、孫のしたくないことは無理にさせない。明るく包容力のある美重子は、家族の中で一番信頼できる人だ。
 祖母は孫が新しいことに挑戦できますように、と願っている。それは周乃も気づいていて、何かはじめたいという気持ちを後押ししている。
 ……次図書館に行ったら、どんな職業や資格があるのかわかる本、探そうかな。
 ロシア劇作家の短編集を開きながら、最近そういうことばかり考えている。時間は有限なのだ、と先月読んだ小説に書いてあったのだ。心に響いていた。
「周乃、終わったわよ」
 祖母の声に、自身の考え事から物語の主役に感情移入していた周乃は、ハッとしたように顔を上げた。
「熱中してたかしら?」
「ううん、大丈夫だよ」
「周乃の集中力はいつもすごいわね。物語の世界にすぐ没入できて」
 見下ろす祖母に苦笑をまじらせ立ち上がった。物語を読むとオートマティックに映像が湧き上がる。幼い頃はそれこそ幻視のように本中の景色が目の前に広がり、イメージの世界で役になりきって遊んでいた。母親はそれを見て、この子には才能があると思ったらしい。しかし、今ではこの有様だ。
 検査のカルテと杖を持った美重子が歩きはじめる。予約して訪れるから長居はしない。今日は特にスムーズで、あとは会計と病院正面の調剤薬局で薬をもらうだけだ。
 ……雨っていうのが、億劫だけど。
 また一階に戻らなければいけないのがさらに憂鬱を誘うが、これまで何度もしてきたことだから、同じようにすればいい。存在がなるべく希薄になるよう平静を装いながら祖母に付き添う。会計を済ませた美重子は、孫を見上げて財布を渡した。
「薬局へ行く前に、お手洗い行ってくるわ。ちょっと待っててくれる?」
 と、チェアを見る。
「いいよ。待ってる」
 座って、トイレのある角へ曲がっていく祖母の後ろ姿を見送った。年々わずかに歩調は遅くなっているものの、介助が必要なほどではない。でも、今日みたいな雨は床が滑りやすくて少し心配になる。
 ……トイレのところまで、行ったほうがよかったかな。
 二〇メートルもない距離を目で測る。お手洗いにいる女性を急かすことはできないから、大人しく待った。でも、妙に遅いような気がして時計を見直した。七分以上経過している。
 ……ちょっと、様子見に行こうかな。
 立ち上がった周乃は、トイレの角から連れ立って歩く男女を見て驚いた。祖母が背の高い男の人に支えられている。
「おばあちゃんっ」
「そんな慌てないの、周乃。ちょっと水で滑っちゃっただけよ」
 微笑む美重子は無事のようだ。驚いて駆け寄った周乃は息をついた。
「ころばずに済んだの。ちょうど、星野さんが出てきたときに支えてくれたから」
「あ、ありがとうございます」
 危ないところを救ってくれた男にお礼を言って、顔を上げた。
 瞳と瞳があわさる。途端に心臓が飛び出るほどびっくりして、すぐ視線を逸らした。
 ……待って。この人、こないだ電車で見た人かも。
 各停電車で会った男に顔がとても似ていた。ただし、印象がだいぶ違う。目の前にいるのは、Tシャツにチャック柄のシャツを羽織ったラフな私服。
「雨だから滑りやすくなってるのね。用心しないと」
 周乃にかまわず祖母はお礼を言い、男から手を離した。
「気をつけてください。本当に、無事でよかったです」
 足元を見つめていた周乃は彼の声を聞いて、さらに嫌な予感を覚えた。
「僕は、星野陽輔と言います」
 自己紹介されても、祖母はすでに星野さんと呼んでいる。
 ……改めて自己紹介するなんて、妙だ。オレに向けてだとしても。
「あの、大変恐縮なんですが、……天貝周乃さんですか?」
 次に出てきた台詞。やっぱり、と思った。
 名前を尋ねられ、冷静に努めていても鼓動は上がる。子役をしていたときの自分を知る男。黙る側で祖母が代わりに答えた。
「そうよ。周乃のこと、ご存知なのね」
「実は僕も中学のはじめまで子役をしていたんです。だから、よく演技もテレビで見せてもらっていて」
 やけに嬉しそうな、親近感を寄せる声。子役、という経歴に美重子のほうが食いついた。
「あなたも、そうなの! 奇遇ね!」
「周乃さんの演技のうまさは有名でしたから。こうして逢えるなんて、嬉しいです」
 爽やかに言われても、蒸し返されたくない過去だ。
 ……演技がうまいとか、盛りすぎ。
 当時の事務所でそんなことを言われたことはない。泣くシーンですぐ涙が出てくれるから仕事させやすい、台詞を一発で覚えてくれるから楽、顔がかわいらしい、くらいだ。すぐ泣けるなんて今は必要ない特技で、容貌も成長して柔和さがはがれてしまった。周乃だと気づく人が少ないのは顔の印象が変わったせいもある。
 ……まだまだオレのことをよく覚えている人が一定層残ってる。
 何度も経験しているが、やはり用心していても遭遇は避けられない。特に彼は転びそうになった祖母を助けた善意の人だ。逃げようがなかった。しかも、祖母は明るく話しかけている。
「星野さんは、今は何なさってるの?」
「大学の四年生です。今日は親戚の見舞いで」
「あらあ、そうなの。この子は、あたしの検診の付き添いで、ね」
 話し声がウキウキしていて、心の中で大きな溜息をもらした。
 一番の嫌な予感は的中していた。星野陽輔は美重子好みのイケメンなのだ。背が高くて、年配者を助けるやさしさもあって、話し口は明るい。今思ったが、ちょっと時代劇あたりに出たら映えそうな感じだ。若くて弱きものを助ける武士あたり。
「あ、あの、こういう機会も滅多にないので。……これを」
 そう言い出す陽輔が、肩にかけていたトートバッグから何かを取り出した。ありがとう、と言う祖母。すぐ、落としている視界に男らしい長い指と水色の紙が目に入った。栞を渡されたときを思い出し、紙の端をつまんで受け取った。
 水色の付箋紙に名前と数字。電話番号だ。
「これも何かの縁だと思うんで。周乃さんには、本当に憧れていたんですよ」
 憧れという言い回しに、周乃は上げようとした首を反射的に戻した。
 ……憧れって、重い。
 明朗な印象が私服だと快活になる。こんなグイグイ系だと思わなかった。期待されてももう何も出てこないよ、と伝えたいけれど声が出ない。祖母がいなければ、一礼してこの場を離れている。
 しかし、祖母は周乃の思いとは裏腹だ。陽輔と同じようなテンションを見せていた。
「なら、この機会に一緒に御飯食べない?」
 ドキッとさせる提案に思わず空いた手のひらを握り締めてしまった。が、有難いことに陽輔は返答のトーンを落とした。
「すいません、すごく嬉しいんですが、外せない用事があるんです」
「そうなの。残念ね」
「せっかくのお誘いに応えられなくて。でも、またぜひ時間をつくっていただけると嬉しいです。次は絶対に都合をあわせます。気軽にお電話ください。お願いします」
「うん、そうするわ」
 出逢ったばかりの二人は勝手に約束をして、話を終えてしまった。
「すっごく良い子ね、しかも元子役なんて、」
 ようやく祖母を見れば、うっとりするような表情。周乃は美重子を見つめたまま何も答えられず、名前を呼ばれるまで動けずにいた。




... back