* ディアガーランド【第3話】 *


 予想通り、祖母は気に入った大学生をあっさり引き入れた。家の一階から耳慣れない男の声がすると思えば、陽輔だ。美重子とウマがあうらしく、彼は食事の用意まで手伝うようになっている。
「周乃くんって、鯵の南蛮漬け好きなんだ?」
 夕食時に居間へ赴けば、このたびも器を持つ陽輔と目があう。尋ねられても答える気になれず、周乃は一瞥すると冷蔵庫から麦茶を取り出した。祖母は当たり前のように三人分のお味噌汁を注いでいる。
 ……二人とも、馴染むの早すぎ。
 好奇心旺盛な祖母は家に活気さがほしかったのか、出逢いの後すぐ陽輔を夕食に誘った。はじめは一回限りだと思っていたが、彼が一人暮らしで食生活も不規則と知るやいなや、「週に一度くらい夕飯でも食べにいらっしゃい」と新しい約束を取り付けた。
 人との交流を回避し続ける孫の相手になるはず、という祖母の思惑には気づいていて、椅子に腰かけるとまたなんとも言えない気分になった。少なくとも週に一度、隣に陽輔が座って夕食がはじまる。彼の対価は洗い物と掃除のお手伝い。
「陽輔さんは、帰省はいつなさるの?」
 ニコニコする祖母の問いかけに、陽輔が咀嚼したご飯を飲み込んだ。
「十二日から五日間です。実家は鈍行で三時間くらいだから、帰省というほどでもないですけど」
 大学の夏休みがはじまった、と前に言っていた。彼の実家は関東の端で海がとても近い。
 祖母が根掘り葉掘り尋ねるせいで、周乃は覚えてしまう。陽輔も秘密主義ではなく、ほとんどの質問に答えている。
 身長の高さも顔も父親譲り、乱視が強くて勉強のときは眼鏡を使う。好きな教科は社会科系で、物理と化学が苦手。大学は教養学部で今は卒業論文が一番の悩み。就職活動は終わり、内定は都内のそこそこの会社に決まっている。来年までに都内へ引っ越すつもりだという、……陽輔のデータが望んでないのに頭に入っている。
 恋人募集中ということまで別に知りたくもなかった。その反面、彼の語る真っ当な外の世界に関心を抱きはじめているのも事実。
 ……普通の大学生って、こんな感じなんだろうなあ。
 周乃が心を許す友人はたった二人。一人は芸能界に残っていて、もう一人は劇作家志望。だから、学業を終え社会人になるという順序を踏む陽輔が、とても興味深い。
 彼は周乃の知らないことを知る、新しい社会の扉だ。いつも祖母と話しているばかりだが、本当は訊いてみたいことも少しある。
 ……受験とか資格のこととか、アルバイトのやり方とか探し方とか。
 絶対に陽輔は知っているはずだ。でも今更、気軽に訊けるわけがない。
 ……まだ陽輔さんの存在に慣れるのには、時間がかかるんだ。いくらおばあちゃんに気に入られた人であっても。
 冷奴にかける醤油へ目を向けると、タイミングよく陽輔の手が被ってきた。醤油差しを先に取った彼がすぐ、あ! という表情をしてこちらを見る。
「ごめん、先に使う?」
「先に、どうぞ」
「どうも」
 ニコッと微笑まれて、周乃は目を逸らした。手元に醤油差しを置いてくれる彼が気遣い屋であることもわかる。
 祖母は通販で取り寄せた和菓子の話をはじめた。また数日後に夕食においでという前フリだろう。美重子がそんなことを言いだすのも、昨日陽輔が抹茶あんみつを差し入れてくれたからだ。デパートで買ったという夏季限定の甘味は確かに美味しかった。
 ……でも、信頼するのに何か少し足りないんだよ。
 もごもごと少食なりにがんばって食べながら、隣の彼に算段をつける。臆病者、意気地なしと言われてもかまわない。昔、良い人だと思っていた人に何度も手のひらを返されたことがあるのだ。人付きあいには慎重になる。
 お膳を下げ、祖母からお茶がもらって夕食は終わった。あとは自由時間だ。対面式の流し台に立つ陽輔は不思議だがちょっと助かる。元は周乃の役目だったのだ。代わりにしてくれるのは有難い。
「周乃くん」
 煎茶を飲んで部屋に戻ろうと思った矢先、水音が止まって名前を呼ばれた。美重子は縫い物をすると自室へ行ってしまい、今は二人きり。努めて少し顔を向けた。
「美重子さんの料理って、美味しいよな」
 居間にいない祖母を褒める言葉。素直に頷いた。彼女は味付けが上手い。
「一人暮らしってさ、最初は自炊する気満々でいるんだけど、どんどんズボラになっていくんだよ。つくっても、もやしだけのやきそばとか。調味料も備え付けのドバッて入れるだけで」
 彼が話していることに興味が湧く。一人暮らしも自炊もしたことがない。未知の世界だ。
「身体に悪いかなって思いつつも、大学の学食で野菜の入った定食選ぶからいいや、で終わっちゃうんだよな。でも、長期休みになると完全に自炊だろ、気づくと即席モノばかり食ってる。だから、美重子さんのご飯は本当に助かるんだ。頼めば料理の仕方も見せてくれるし」
「そうなんだ」
 つい相槌を打ってしまうと、陽輔は嬉そうな笑みを浮かべた。
「練習していつか振舞えたらな。天貝家にお世話になってるぶん」
 律儀さは彼の長所だが、美重子自身は恩返ししてほしいと思っていない。孫の話し相手になってくれれば御の字なのだ。だから、周乃は素直になれなくなる。
「いいよ、無理しなくて」
 否定的な返答をして、もっと他の言い方にすればよかったと後悔した。しかし、陽輔はネガティヴに受け取る性格ではない。
「じゃ、卒論終わったら猛特訓しようかな」
 軽く言った言葉が心を軽やかに突く。他人の言葉を深刻に考えないあたりが、少し羨ましいと思った。
 ……オレは人を気にしすぎなんだ。
 自分の問題ある部分が、正反対の性格の相手を前にすると明確になる。自身の内気さが嫌になるし、でも陽輔になりたいかと言えば、それは微妙だ。
 ……陽輔さん、もう少しグイグイしたところがなければいいんだけど。
「そういや、周乃くんって夏は苦手なの?」
 唐突にはじまる次の質問。しかも周乃のことを知らないと言えない問いだ。いないところで、祖母がまた自分の話をしたのだろうか。
「好きじゃない」
 お茶を半分残し、そばにあった雑誌を引き寄せて答えた。
 真夏日が増えると周乃は家に篭もる。日焼けで水ぶくれになるくらい皮膚が弱いせいだ。図書館に行くときだけ渋々日焼け止めを使って日傘を差して外に出る。
「七月に入って外出てないって聞いたから」
「二回は出たよ」
 訂正するように言葉を返せば、陽輔はスポンジを置いた。
「周乃くんが、欲しい本があるけどいつ買おう、って言ってたなんて美重子さんが言うから。もう買ってた?」
「それは、……買ってない」
 財布に買いたい雑誌のメモが入っている。いつも購入する季刊誌と歴史漫画の新刊。図書のように期限はないから、先延ばしにしていた。
「日中はキツくても夜なら行けるんじゃないか? でも、最近は夜も息苦しいくらい暑いときあるもんなあ」
 水の音にまぎれる中で、周乃に寄り添う言葉を聞く。夜に行かない理由は別にあった。
「本屋さん、夜は人が多くなるから」
 駅に直結する書店をいつも利用しているのだが、文具も雑貨も豊富で仕事帰りの人が多いのだ。平日昼間のガランとした本屋に慣れている周乃には、暑さよりもキツい。
「なるほど。じゃあ、ネットで買うのは? 部屋にPCとかタブレットはある?」
「ないよ」
「そっか。ネットはわざわざ買いに出かけなくてもいいし、楽だよ」
 気兼ねなく助言してくる陽輔に、周乃はもう聞こえないふりをした。水音に阻まれて、彼も食器洗いに専念することにしたようだ。
 ……ネットだけは、本当に見たくないんだ。
 インターネットほど自由な発言が閲覧できるコンテンツもない。昔出演した映画の感想などもあるはずで、人の噂や比較が嫌いな周乃にとっては恐怖すら覚える代物だ。
 下降してきた気分を宥めようと俯いて読む仕草をしていれば、陽輔が湯のみを持って隣の椅子に戻ってくる。
 ……陽輔さんは沈黙が苦手ってひとじゃないことはわかる。でも、あんまり隣に座らないでほしい。そわそわしてくる。
「本、俺が代わりに買ってこようか?」
 左耳にやさしい提案が届く。けれど、周乃は首を振った。
「いい、大丈夫」
 自分でできないわけじゃない。単に行く気力を養うのに時間がかかるだけだ。
「もし行く気になれなかったら、いつでも俺に言ってよ」
 ……うーん。でも、陽輔さんに借りをつくるのも嫌なんだ。
 だが、美重子がこの話を聞きつけて陽輔に本のメモを渡すことになってしまった。彼は翌日、早速購入した雑誌を笑顔で渡してきてくれて、ついでにまた食卓を一緒に囲むはめになった。
 星野陽輔と病院で逢ってから二ヶ月。こんな感じで振り回される夏の日が続いている。
 その経過を久しぶりに家を訪れた友人で遠縁にあたる、桂蓮に話すと嬉しそうに笑われた。
「面白いじゃん! その彼、周乃の生活に新しい風吹かしてるね!」
「やめて、オレは静かに過ごしたいのに」
「今までずっと静かだったんだから、いいじゃんちょっとぐらい。毎日いるんじゃないんだろ?」
「そうだけど」
 梟模様のスプーンでカップのカキ氷を食べながら、ダイニングテーブルの一角をチラと見る。陽輔はお盆帰省していて、次に来るのは十九日。地元のお土産を持ってきてくれるという。当然、祖母は楽しみにしている。
「どういう人か見てみたいなあ。美重子ばあちゃんのお気に入りって、なんとなく顔とか想像できるけど」
「イケメンなのは確かだよ」
 顔のパーツの良さに、周乃も時々陽輔を見つめてしまう。
「すごい周乃推し推しじゃん」
「そんなこと、ない」
 男としての憧れは少しだけある。でも、興味津々な瞳を向けられるのは困る。
 周乃は気を逸らすように、厚いホッチキスでとめられた脚本を手にした。
 蓮が書いた新しい物語。二歳上の彼は、大学の演劇サークルと小さな劇団に所属していて、脚本が出来上がると、かならず周乃のところへ訪れる。
 恒例の墓参りに出かけた親戚一同から外れて、二人は留守番だ。蓮も以前は子役をしていて、周乃が引き篭もったときに最も気持ちを理解してくれた。実の母親はまだ一人息子の周乃に後ろめたさがあるようで、美重子と蓮に任せたきり姿を滅多にあらわさない。周乃もいまだに気まずく、先程も家まで祖母を迎えに来たときに一瞬挨拶したくらいだ。
「陽輔さんって、身長は?」
「一七八センチ」
「背ぇ高いねー。いくつ? 学生なの? 誕生日と血液型は?」
「二十一で国立大の四年生。就職も決まってる。誕生日は三月三十日。血液型は知らない」
「詳しいねー、彼のことけっこう気になっちゃってんじゃん?」
「違う! おばあちゃんが質問攻めして、陽輔さんが答えちゃうから嫌でも覚えるんだよ」
 ニヤニヤと笑う蓮に気づいて顔を俯けた。女性的な顔立ちをしている蓮は、周乃より五センチ背が高く中身は勝気だ。
 そういえば、子役時代の周乃を最初は女の子だと思い込んでいた、と陽輔に言われたことも思い出した。蓮のほうがかわいくて女の子っぽい、と反論して、陽輔に蓮のことを散々聞かれたのだ。
「陽輔さん、蓮に会ってみたいって言ってた」
「マジ? でも、演劇とバイトがあるしなー、来月から大学と文化祭の準備もはじまるし」
 大学。このキーワードは何かと心を打つ。学びが足りないと思っているからだろうか。陽輔が祖母に促されて卒論や講義の話をするせいもある。改装された大学附属図書館が居心地良いという話も聞いて、なんだか行ってみたいという気にもさせられた。
「蓮のとこって、附属図書館ある?」
「大学の? あるよ。おんぼろだけど、けっこう揃ってていいよ」
「……大学って、楽しい?」
「周乃どうしたの? 興味あんの? マジで?」
 ガツガツと氷を崩す手を止めて、蓮は驚き顔を見せた。
「ちょっとだけ」
「つまり、なんかする気になったってことだよな? 大学すっごい楽しいぜ! 演劇サークルもあるし、うち食堂美味しいんだ! あ、講義も面白いよ。高校のときと全然違って、自分のしたい分野のことたくさん勉強できるから。中には一般教養とかやる気がでないのもあるけど、ほかにもいっぱい楽しいことあるし!」
 今まで外に出ることを勧めていた蓮は、周乃の変化に喜びを隠さなかった。
「ほら、学部もいろいろあるぜ。演劇系の大学とか。周乃、どう? おれ手伝うよ? パンフレットとか集めてこようか?」
 笑顔で話し続け、周乃の顔を見て、しまったと苦笑いする。お決まりのパターンだ。周乃も困ったように微笑んだ。蓮に質問すると数倍になって返ってくる。だからあまり尋ねたくないのだ。
 ……その点、陽輔さんはまだオレのペースを見てる。
「そうだ周乃。彩加が会いたい、いつでも待ってるって言ってたよ」
 取り繕うように、蓮が久しい名前を出した。
 周乃の大切な友人のもう一人、矢幡彩加。旬の若手女優だ。幼く事務所に入った同期で、誕生日が同じということもあり、昔はいつも一緒にいた。周乃が芸能界を離れてから一度も会ってはいないが、誕生日プレゼントだけは今も贈りあっている。ソファーにあるでっぷりした梟プリントのクッションだけでなく、カトラリーや文房具等、家が妙に梟だらけなのは彩加のせいだ。
「彩加ってすごく忙しいんじゃないの?」
「うん、でも撮影は一段落したみたい。お忍びでテーマパークに行って遊びまくったよ。あ、土産出すの忘れてた」
 彼はディパックを漁りはじめた。どうやら蓮は、彩加と遊ぶために化粧とキュロットスカートを履いて、女子になりきったらしい。人と違うことが好きな蓮らしい遊び方だ。
 そんな彼から渡されたのは、テーマパークのキャラクターが一堂に集まったお土産と、なぜか梟のクッキー。
「彩加って絶対に梟がついてくるよね。蓮は台本で」
「おれたちのトレードマークみたいなもんだよ。周乃もつくろうよ。ウサギとかにする?」
「えー、いいよ」
 自然と笑みが零れて会話が続く。
 ……トレードマークをつくるなら、富士山がいいな。
 でも、おこがましいかな、と周乃は心に秘めた。




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