* モアザンパラダイス【第1話】 *


 涼を運ぶ空調が低いうなり声を上げている。締め切られた窓に波の声は届かず、明るい光だけが空虚を押し広げていた。
 水平線の見える部屋は、すべてが遠く離れた夢のようだ。
 東原真幸は枕に右耳を押し付けて、それらをぼんやりと眺めていた。
 ……なんで、ここにいるんだろう。
 ポツリ、心の中で呟いても答えてくれる者はいない。  真っ白でふかふかしたセミダブルのベッドが二つ、ゆったり腰掛けられるソファーとガラスのテーブル。その上に長期滞在のサービスとして、スパークリングワインのハーフボトルとグラスがベッドの数にあわせて揃えられている。白壁に木目調の腰壁をあわせたデザインは、真幸に南国の風情を伝えていた。
 ここは、沖縄の北部に位置する中堅のリゾートホテルの一室だ。
 はじめは心地よかった冷房も、今はただただ寒い。ベッドから根が生えたように、真幸は動けず横たわっていた。かろうじて瞬く瞳が現実を映す。
 おかしなことが起きて、世界から置き去りにされている。
 ……意味が、よくわからない。
 恋人と滞在する予定が、一生果たされなくなったという事実。
 何度反芻しても実感はなく、大きく穴の空いた心を貫通していく。まるで透明になったような気分だ。
 薄い瞼を伏せる。そうっと息を吐いて、自分が呼吸できていることを確認する。室内の冷たい空気と亜熱帯の晴天。バルコニーに続く大きな窓の先に、美しいエメラルドグリーンの海が広がっていることは知っている。
 沖縄に行ってみたいと言ったのは真幸だ。大手の商社に就職してすっかり忙しくなった恋人の橋場隆章から、「二人して長い休みがとれるんだから、真幸の一番行きたいところに行こう」とやさしい微笑で言われて選んだ場所だった。
 五ヶ月後、こんなことが起きるとは夢にも思ってもみなかった。
 ……悪い夢、見ちゃったのかな。
 電話越しの隆章から聞かされた『別れたい』という一言。
 電話の後、すっぽり抜けてしまった感情が戻らない。
 伏せていた睫毛をもう一度上げる。幾度繰り返しても、世界は何も変わらなかった。携帯電話には履歴が残っている。事実が覆されることはないだろう。
 発端は、昨夜届けられた一通のメールだった。
『真幸、ごめん。行けなくなった。宿泊代はクレジットで決済してるから、俺が全部もつ。俺のぶんまで、ゆっくりしてきて。』
 受信された内容を見て、真幸は慌てて彼へ電話をかけた。
 その時間、隆章は機上の人であるはずだった。機内のW@‐F@から送ることができたのかも、と一瞬思ったが、文面は『今日だけでなく、沖縄旅行自体行けなくなった』と捉えられる書き方で不安は募った。
 元々の旅好きは隆章だ。学生時代は、格安切符を手にしていろんなところへ一緒に赴いていた。社会人になってからは隆章の意向で、年に一度か二度、癒しを求めた旅行をするようになった。手際がいい彼に真幸はいつも旅の手配を任せていて、今回も「プランを立てるところからが旅行なんだぜ」と恋人は楽しそうに話していたのだ。
 この沖縄の旅は、そんな一年ぶりの旅行だった。
 仕事に精を出す恋人にあわせ、どうにか休みを調整して、今回も会社から午後休を取った真幸が先に現地入りしていた。ここ数年のお決まりパターンだ。隆章は夜に着くフライトで追ってくる話になっていて、真幸はホテル行きのバスに乗ってチェックインをしたのだ。
 隆章が約束を破ることはない、と思いながら繋げた電話は、数コールで途切れた。受話器越しの恋人は、静かな声で真幸の名を呼んでくれた。
 そして、「メールのとおり、沖縄自体行けなくなったんだ」と伝えられて血の気が引いた。
 真幸の知る隆章は、一度決めたことを貫く律儀な性格をしている。だから、「行けない」という言葉は異常だった。仕事が年々忙しくなっているということは知っていたが、夏期休暇は珍しく連休をあわせた七日間でつくれそうだ、と、先に笑顔で言っていたのだ。
 しかし、行けなくなったことよりも深刻な話が続いた。
 真幸は信じたくなかった。
 恋人が繰り返した、ごめん、という言葉。
 「別れよう」から、「別れたい」に変化した電話越しの声。
 恨まれてもいいから別れたい、真幸は何も悪くない、最低な男は俺なんだ、人間のクズだと思ってくれてもかまわない。
 何度も己を卑下するような言い回しで懇願する恋人に、心は麻痺して何も聞こえなくなった。たくさんの謝罪の後、言い淀むように別れたい理由を言われて、真幸は自分から電話を切った。
 これ以上、好きな男からの言い訳も懺悔も何も聞きたくなかった。再び鳴るだろう着信音が恐ろしくなり、電源を落として見えないところへ突っ込んだ。携帯電話をどこにしまったのか記憶もない。探す気力もない。
 ベッドに横たわったことすら覚えておらず、ふと目を開ければ、朝日が眩しく輝いていた。瞼を伏せ、もう一度開けると快晴の空が部屋から覗いていた。
 一人きりの部屋では、誰も何も言わない。昨夜のことはただの夢だと思えば、本当にそう思えるくらい部屋は静かなままだ。
 ……今日は、来る。隆章は忙しいだけで。
 ふと、そんなことを思ってみた。信じていれば、念じていれば来てくれるような気がした。
 ……もしかしたら自分をびっくりさせるために、そんな冗談を思いついたのかな。何かサプライズがあって、隆章は趣味の悪い嘘をついているのかも。なら、今日はきっと来る。
 外界を遮断してじっとしていれば希望は見出せる。しかし、思い込もうとすればするほど、理性が顔を出す。
 ……おれは知ってる。隆章は嘘も冗談も嫌いな男なんだ。真面目でやさしくて人間関係も器用で、おごらない。だから、おれはすごく好きになったんだ。
 彼とはじめて逢ったのは高校時代。別クラスにいた隆章は活発な人気者で、一方的に憧れていた。真幸は早いうちから同性しか好きになれない自覚があって、隆章はとても遠い存在だった。できるかぎり目立たないよう過ごしていた三年の春、彼のほうから突然声をかけてくれた。真幸が同じ大学の学科志望だと知って、興味をもったという話だった。今まで面識がなかった間柄をすんなり飛び越えてくる人当たりのよさに、憧れが恋に変わった。
 隆章は人にあわせることが上手で、テンポが少しのんびりしている真幸を急かさず付き合ってくれた。受験勉強を一緒にするようになって、ますます想いは募った。志望大学に揃って合格すると、高校のとき以上に一緒にいることが増えた。人前では爽やかな彼が、自分の前だけでは愚痴も嫌なことも言ってくれることが嬉しかった。
 真幸は、友達ではなく恋人になってくれたらいいのに、と、いつも密かに想っていた。でも、彼が女性にしか興味がないこともよくわかっていて、隆章に一つ上のカノジョができたときは悲しみよりも諦めが勝った。恋人になるよりも友達のままのほうが一生そばに居られる、と思えば彼を素直に許せたのだ。けれど、隆章の恋のほうが先に続かなかった。 
 想いが成就したのは、大学二回生のときだ。隆章がカノジョに二股をかけられ、ひどく落ち込んでいたところを真幸が深く慰めた。その直後に同性愛者だと知られ、嫌悪されてしまうかもしれないと恐れたが、逆に彼は吹っ切れるように心を傾けてくれた。はじめてキスをして、隆章が笑ってくれたときに、真幸は友人としての拘りを捨てた。恋人として、パートナーとして一生隆章のそばにいたい。何度も何度も一緒に旅行して、ようやく彼と身体も繋げるようになった。
 その後、恋人になって五年。
 ツインベッドがひとつ空いている。
 ……今日は、来てくれる。
 真幸は都合のよいことをもう一度強く念じた。
 昨日聞いた情けない隆章の声ではなく、もっと甘く愛しい彼の言葉を思い出す。よい記憶はスウスウする心を少しだけ満たしてくれた。崖から突き落とされたように感情が抜け落ちていても、隆章への想いは失われていない。今も好きだ。本当に好きだ。でも、寒くて眠たくて、どんな言葉も熱をもって響かない。
 ……隆章、おれはここで待ってるんだよ。
 ベッドの中で真幸は残された幸福をかき集めた。そして、ここに恋人が来てくれるよう、呪文のようにひたすら祈って意識を閉じた。
 涼を運ぶ空調が低いうなり声を上げている。締め切られた窓に波の声は届かず、明るい光だけが空虚を押し広げていた。
 水平線の見える部屋は、すべてが遠く離れた夢のようだ。
 東原真幸は枕に右耳を押し付けて、それらをぼんやりと眺めていた。
 ……なんで、ここにいるんだろう。
 ポツリ、心の中で呟いても答えてくれる者はいない。
 真っ白でふかふかしたセミダブルのベッドが二つ、ゆったり腰掛けられるソファーとガラスのテーブル。その上に長期滞在のサービスとして、スパークリングワインのハーフボトルとグラスがベッドの数にあわせて揃えられている。白壁に木目調の腰壁をあわせたデザインは、真幸に南国の風情を伝えていた。
 ここは、沖縄の北部に位置する中堅のリゾートホテルの一室だ。
 はじめは心地よかった冷房も、今はただただ寒い。ベッドから根が生えたように、真幸は動けず横たわっていた。かろうじて瞬く瞳が現実を映す。
 おかしなことが起きて、世界から置き去りにされている。
 ……意味が、よくわからない。
 恋人と滞在する予定が、一生果たされなくなったという事実。
 何度反芻しても実感はなく、大きく穴の空いた心を貫通していく。まるで透明になったような気分だ。
 薄い瞼を伏せる。そうっと息を吐いて、自分が呼吸できていることを確認する。室内の冷たい空気と亜熱帯の晴天。バルコニーに続く大きな窓の先に、美しいエメラルドグリーンの海が広がっていることは知っている。
 沖縄に行ってみたいと言ったのは真幸だ。大手の商社に就職してすっかり忙しくなった恋人の橋場隆章から、「二人して長い休みがとれるんだから、真幸の一番行きたいところに行こう」とやさしい微笑で言われて選んだ場所だった。
 五ヶ月後、こんなことが起きるとは夢にも思ってもみなかった。
 ……悪い夢、見ちゃったのかな。
 電話越しの隆章から聞かされた『別れたい』という一言。
 電話の後、すっぽり抜けてしまった感情が戻らない。
 伏せていた睫毛をもう一度上げる。幾度繰り返しても、世界は何も変わらなかった。携帯電話には履歴が残っている。事実が覆されることはないだろう。
 発端は、昨夜届けられた一通のメールだった。
『真幸、ごめん。行けなくなった。宿泊代はクレジットで決済してるから、俺が全部もつ。俺のぶんまで、ゆっくりしてきて。』
 受信された内容を見て、真幸は慌てて彼へ電話をかけた。
 その時間、隆章は機上の人であるはずだった。機内のW@‐F@から送ることができたのかも、と一瞬思ったが、文面は『今日だけでなく、沖縄旅行自体行けなくなった』と捉えられる書き方で不安は募った。
 元々の旅好きは隆章だ。学生時代は、格安切符を手にしていろんなところへ一緒に赴いていた。社会人になってからは隆章の意向で、年に一度か二度、癒しを求めた旅行をするようになった。手際がいい彼に真幸はいつも旅の手配を任せていて、今回も「プランを立てるところからが旅行なんだぜ」と恋人は楽しそうに話していたのだ。
 この沖縄の旅は、そんな一年ぶりの旅行だった。
 仕事に精を出す恋人にあわせ、どうにか休みを調整して、今回も会社から午後休を取った真幸が先に現地入りしていた。ここ数年のお決まりパターンだ。隆章は夜に着くフライトで追ってくる話になっていて、真幸はホテル行きのバスに乗ってチェックインをしたのだ。
 隆章が約束を破ることはない、と思いながら繋げた電話は、数コールで途切れた。受話器越しの恋人は、静かな声で真幸の名を呼んでくれた。
 そして、「メールのとおり、沖縄自体行けなくなったんだ」と伝えられて血の気が引いた。
 真幸の知る隆章は、一度決めたことを貫く律儀な性格をしている。だから、「行けない」という言葉は異常だった。仕事が年々忙しくなっているということは知っていたが、夏期休暇は珍しく連休をあわせた七日間でつくれそうだ、と、先に笑顔で言っていたのだ。
 しかし、行けなくなったことよりも深刻な話が続いた。
 真幸は信じたくなかった。
 恋人が繰り返した、ごめん、という言葉。
 「別れよう」から、「別れたい」に変化した電話越しの声。
 恨まれてもいいから別れたい、真幸は何も悪くない、最低な男は俺なんだ、人間のクズだと思ってくれてもかまわない。
 何度も己を卑下するような言い回しで懇願する恋人に、心は麻痺して何も聞こえなくなった。たくさんの謝罪の後、言い淀むように別れたい理由を言われて、真幸は自分から電話を切った。
 これ以上、好きな男からの言い訳も懺悔も何も聞きたくなかった。再び鳴るだろう着信音が恐ろしくなり、電源を落として見えないところへ突っ込んだ。携帯電話をどこにしまったのか記憶もない。探す気力もない。
 ベッドに横たわったことすら覚えておらず、ふと目を開ければ、朝日が眩しく輝いていた。瞼を伏せ、もう一度開けると快晴の空が部屋から覗いていた。
 一人きりの部屋では、誰も何も言わない。昨夜のことはただの夢だと思えば、本当にそう思えるくらい部屋は静かなままだ。
 ……今日は、来る。隆章は忙しいだけで。
 ふと、そんなことを思ってみた。信じていれば、念じていれば来てくれるような気がした。
 ……もしかしたら自分をびっくりさせるために、そんな冗談を思いついたのかな。何かサプライズがあって、隆章は趣味の悪い嘘をついているのかも。なら、今日はきっと来る。
 外界を遮断してじっとしていれば希望は見出せる。しかし、思い込もうとすればするほど、理性が顔を出す。
 ……おれは知ってる。隆章は嘘も冗談も嫌いな男なんだ。真面目でやさしくて人間関係も器用で、おごらない。だから、おれはすごく好きになったんだ。
 彼とはじめて逢ったのは高校時代。別クラスにいた隆章は活発な人気者で、一方的に憧れていた。真幸は早いうちから同性しか好きになれない自覚があって、隆章はとても遠い存在だった。できるかぎり目立たないよう過ごしていた三年の春、彼のほうから突然声をかけてくれた。真幸が同じ大学の学科志望だと知って、興味をもったという話だった。今まで面識がなかった間柄をすんなり飛び越えてくる人当たりのよさに、憧れが恋に変わった。
 隆章は人にあわせることが上手で、テンポが少しのんびりしている真幸を急かさず付き合ってくれた。受験勉強を一緒にするようになって、ますます想いは募った。志望大学に揃って合格すると、高校のとき以上に一緒にいることが増えた。人前では爽やかな彼が、自分の前だけでは愚痴も嫌なことも言ってくれることが嬉しかった。
 真幸は、友達ではなく恋人になってくれたらいいのに、と、いつも密かに想っていた。でも、彼が女性にしか興味がないこともよくわかっていて、隆章に一つ上のカノジョができたときは悲しみよりも諦めが勝った。恋人になるよりも友達のままのほうが一生そばに居られる、と思えば彼を素直に許せたのだ。けれど、隆章の恋のほうが先に続かなかった。 
 想いが成就したのは、大学二回生のときだ。隆章がカノジョに二股をかけられ、ひどく落ち込んでいたところを真幸が深く慰めた。その直後に同性愛者だと知られ、嫌悪されてしまうかもしれないと恐れたが、逆に彼は吹っ切れるように心を傾けてくれた。はじめてキスをして、隆章が笑ってくれたときに、真幸は友人としての拘りを捨てた。恋人として、パートナーとして一生隆章のそばにいたい。何度も何度も一緒に旅行して、ようやく彼と身体も繋げるようになった。
 その後、恋人になって五年。
 ツインベッドがひとつ空いている。
 ……今日は、来てくれる。
 真幸は都合のよいことをもう一度強く念じた。
 昨日聞いた情けない隆章の声ではなく、もっと甘く愛しい彼の言葉を思い出す。よい記憶はスウスウする心を少しだけ満たしてくれた。崖から突き落とされたように感情が抜け落ちていても、隆章への想いは失われていない。今も好きだ。本当に好きだ。でも、寒くて眠たくて、どんな言葉も熱をもって響かない。
 ……隆章、おれはここで待ってるんだよ。
 ベッドの中で真幸は残された幸福をかき集めた。そして、ここに恋人が来てくれるよう、呪文のようにひたすら祈って意識を閉じた。




... back