* モアザンパラダイス【第2話】 *


 午後五時になっていた。
 夢うつつなまま真幸は時計を見遣った。いつ眠りについたのか記憶はなく、大きく息を吐いて身体を起こす。
 ……いい時間になってるんだ。
 お腹の虫がぐるぐる鳴って、手で押さえた。寝すぎたようで、身体の節々が痛い。いつもは読書かテレビを見ながら隆章を待っているのだが、疲れていたのかベッドに横になっていたらしい。
 記憶が混濁する頭を撫で、ゆっくり深呼吸して窓を見た。瞳に映る、薄い水色に染まった空。
 恋人の乗っている便は二〇時着。そこからレンタカーを借りてホテルへ向かう予定になっている。合流が遅くなるから先にホテルで飯食ってて、と言われていたが、チェックインしたときにウェルカムドリンクをもらっていたし、隆章と一緒に食事を摂るつもりだった。
 しかし、異様なほどお腹が空いている。
 ……昼食はフライト前にしっかり済ませたんだけど。食べたほうがいいなあ。
 猛烈な空腹感には勝てず、ゆっくり立ち上がった。近くにあったサンダルを履いて、すぐホテルに売店があったことを思い出す。
 ……あと、何か忘れてるような気がするんだけど。
 室内を見回して、わずかな違和感に首を傾げた。
 とても大切なことを、忘れているような気がする。
 でも、真幸はそれがなんのことだったか思い出せなかった。変な悪夢を見たのだろう、と、簡単に見切りをつけ、バッグから小銭入れを取り出してポケットに入れる。カードキーを抜いて部屋を出れば、南欧のような白壁に間接灯の花が咲いていた。
 ……廊下って、こんな感じだったっけ?
 あやふやなメモリーを辿りながら、音を吸収する蒼色の絨毯を踏み、七階からエレベーターを使って降りる。
 明るく開かれたロビーに着くと、ようやくチェックインしたときのことを思い出した。高い吹き抜けの天井と南の島らしいインテリア。爽やかな印象のロビーフロントを見て、沖縄を選んでよかった、と、忘れていたバカンス気分が戻ってくる。
 夕方の受付フロントは旅行客で埋まっていた。中には真幸や隆章のように、仕事帰りのまま訪れた人や、前泊は南部、今日は北部と移動しながら旅をする人たちもいるのかもしれない。ロビーの右寄りにある待合スペースでは、八人くらいの団体がソファーや柱に凭れてしゃべっていた。その全員が、窓のほうを向いている。
 真幸も売店へ向かう前に、旅行者たちにつられて正面玄関のほうへ視線をあわせた。途端に、彼らの気持ちがわかる。飛び込んできた色彩に心が奪われた。
 ハッとするほど、鮮やかなエメラルドグリーンの海と白い砂浜が広がっている。
 ……すごい色! 日本じゃないみたいだ。
 ガラス窓一面に存在を誇示している。そのコントラストは絵画のようだ。
 でも、人が描いたものよりも写真よりも、目の前の自然は素晴らしい生きた色をしていた。光を吸収して波打つ水面、澄んだ空。
 ……これが沖縄の海なんだ。なんて、美しいんだろう。
 気づけば、立ち止まって見つめていた。部屋から一度は見たはずなのに、すっかりそのことを忘れて感動してしまった。深い眠りと空腹のせいで、海の記憶が飛んでしまったのかもしれない。エントランスから子連れの客が仲よさそうに入ってくると、潮の匂いが空気に混ざり込む。
 今年はまだ一度も触れていない海。隆章が来てからシュノーケリングなどマリンスポーツの予約を入れるつもりだが、先に海と親しむのも悪くない。時間はたっぷりあるのだ。
 ……売店は、後からでも行ける。でも、この海の色は暮れたら見れなくなる。
 真幸はエントランスへ進行方向を変えた。夕暮れ前だが美しい色は保たれたままだ。南は日の入りが遅いらしい。
 自動ドアを抜けると、思っていた以上にムッとした海風が身体にまとわりついた。東京と同じ盛夏の暑さだが、沖縄は夜になっても気温が下がらない。潮の香りが鼻腔をくすぐる。はしゃぐ声、笑い声、水しぶき。家族連れやカップルなどのグループが数組、この時間でも遊んでいる。
 ホテルのプライベートビーチ然とした砂浜も居心地がよさそうだった。土日の昼間はもっと観光客で溢れそうだが、明日はまだ平日の金曜日。のびのびとビーチを満喫できるだろう。
 ……明日、早く観光終わらせて、ここで泳いだりしたいな。
 隆章に相談しようと思いながら、白砂と東シナ海の爽やかな色へ近づく。
 マリンボートが少し離れた小さな桟橋に到着する。空と同じように明るい人々の声。皆日焼けしているのだから、長いこと海と遊んでいるのかもしれない。
 サンダルで浜に踏み入れると、潮騒はさらに近づいた。きめ細かい砂は音を立てて真幸をそっと波打ち際へ下らせる。日陰から離れると太陽が全身に当たった。熱いというよりは、暖かい。この時間帯になると日焼けの心配をしなくても大丈夫のようだ。
 時間を忘れるような風景と、南国の夏の色。いつ暮れてしまうのか確認しようと、左手にあるデジタルウォッチを見る。時刻は五時二〇分。真幸は首を傾げて、さらに顔を近づけた。
 ウォッチには日付だけでなく曜日も映される。
 隆章と合流する日は木曜日。しかし、今は『金曜日』と記されている。
 ……明日が金曜じゃなくて、今日が金曜?
 スゥーっと血の気が引いた。ポケットにスマートフォンは入っていない。売店で軽食を買って部屋に戻るつもりだったのだ。海を見に来たわけではなかった。しかし、金曜日であるという現実を教えられて胸の奥がザワザワと大きくふるえる。
 よく考えれば時刻もおかしい。真幸が乗った航空機の那覇空港到着は午後四時過ぎ。そこからホテルへはバスで一時間半ほどかかる。チェックインできるのは早くても六時頃だ。
 見直した時計は、五時二十三分。時刻が狂っていないのであれば、真幸自身の時間隔が狂っているということだった。タイムスリップしたような心地は恐怖を呼び寄せる。引いた血の気は戻らない。
 ……そうだ。フロントへ行って今日が何日なのか、ちゃんと確認しよう。
 異様な不安に駆られた真幸は、ホテルへ身体の向きを変えた。
 そして、一歩踏み出して、その必要がないことを唐突に思い出した。
『ごめん、どうしても行けない。別れよう』
 恋人の声が爆弾になって小さく炸裂した。昨夜、聞いてしまった台詞のひとつ。
 フラッシュバックがはじまると真幸の血は凍り、蝋のように動けなくなった。見開いた瞳が一面のエメラルドグリーンに塗りつぶされる。波の音と隆章の声が身体中に響き、ぽっかりと空いた心へ鮮やかな海が勢いよくなだれ込んだ。
 ……嘘だ。
 言葉がひとつようやく生まれて、真幸の耳が子どもたちの賑やかな声をつかまえた。現実を取り戻すために、食い入るようにウォッチを見つめる。偽りのない答えを知ると、画面はにじみ、ガラス盤に水滴が落ちた。溢れた感情は喉をこえてせりあがり、ぼろぼろと涙がこぼれた。
 今日は、金曜日だった。
 恋人に捨てられた翌日だ。
 記憶が完全に混濁していた。
 あまりのショックに、別れ話が飛んでしまっていたのだ。そして、隆章はきっと来ると強く念じた結果、自分自身に暗示をかけた状態になっていた。バカみたいな話だ。でも、こんな結末を簡単に受けられるほど、強くもない。知らない土地で、独りきりなんて耐えられない。
 ……おれ、独りなんだ。 
 バカンスを楽しむ人たちの笑い声が、槍のように降ってきた。太陽の熱と眩暈で立っていられなくなる。
 頭の中に残酷な会話が執拗にリフレインする。真幸は耳を塞いだ。崩れそうな脚と肩をきつくこごめてしゃがみこむ。ぎゅっと目をつぶっても、涙がとめどなく溢れて息ができなくなった。
 美しいと思った海のたもとは地獄だった。
 孤独を思い知らされた。
 謀ったかのようにリゾート地で隆章に別れを告げられて、独りきりで一週間もここに居なければならないなんて、まるで牢獄と同じだった。
 隆章は今、東京で何をしているのだろうか。想像するだけで全身に鳥肌が立った。悔しいのか悲しいのかわからない涙が幾度も伝って白浜へこぼれ落ちる。
 ……こんな、ひどい。苦しい。
 出逢ってから八年。喧嘩やトラブルは一度もなかった。
 好きだという感情を引き出すと、裂傷のような鋭い痛みが走った。隆章とは友人として三年、恋人として五年。関係はとても落ち着いていた。友人の頃から二人で旅行することが当たり前だったから、恋人同士になってからも社会に出てからも毎年休暇を利用した旅行は欠かせなかった。
 互いを尊重して、やってきたはずだ。同性同士だとわかっていた上で付き合ってきたはずだ。
 けれど、隆章は明らかにノーマルの部類で、自分は最初から男しか愛せないことも知っていた。長い関係の中で、次第に違和感をもったのだろうか。男はやっぱりダメだと気づいたのだろうか。
 真幸と隆章は、法的に結婚はできない。いまだもって、きちんと社会的には認められていない。
 耳を塞いでも聞こえる潮騒。
 それとともに、恋人が発した別れの理由が胸を突き刺す。
 『職場の女性と結婚することになった』という、隆章の恐ろしい台詞。
 そんな理由が許されるのだろうか。けれど、隆章は許してほしいと言った。許せないなら最低な男だと一生恨んで欲しいとも言った。どちらかを選ばないといけないのだろうか。
 ……どっちも、無理だ。好きなのに。
 密かな片想いを経て恋人になってくれた隆幸。真幸への想いは嘘だったのか。そんなことはないと思う。でも、親友の延長線で同情だったのかもしれない。一緒に添い遂げるほどの覚悟はなかったのかもしれない。
 別れを告げられて、彼と自分の恋愛の温度差を思い知る。余計に絶望が心を覆い、身体はがくがくとふるえた。
 自分の何がいけなかったのか考えようにも、隆章が元々結婚したかったのであれば、真幸になんの落ち度もない。しいていえば、真幸が男であって女ではなかったというのが悪かった、ということに尽きる。
 好きだという想いを壊されても、隆章を嫌いになれなかった。彼を信じたかった。
 でも、隆章と会って直接話がしたいかというと、それはもう怖くて無理だった。真幸はまだ好きなのだ。それでまた、同じように別れと理由を告げられたら、ショックで死ぬ。
 ……帰りたい。けど、帰りたくない。
 小刻みにふるえて粟立つ肌。濡れたくちびるを噛んで喉を鳴らす。涙を飲み込めず、立ち上がることもできない。
 ……こんな想いをするために、ここへ来たわけじゃないのに!
 沖縄に独りでいても虚しい。でも、隆章のいる東京に戻りたくない。
 別れたくないと帰って喚きに行っても事態は変わらないのだ。隆章が結婚すると宣言したのだから、真幸と付き合っている間に平行して相手女性と関係を持っていた可能性は高い。最低な話だった。昔カノジョに二股をかけられて泣いていた男のすることではない。
 けれど、ひどく落ち込んでいた隆章の隙に入って付き合うようになった自覚は、真幸自身にもあった。
 ……嫌だ。もう、ぜんぶ、嫌だ。
 今まで友人として、恋人として楽しかった記憶が全部波でさらわれていくようだ。こんなに好きなのに、裏切られていたという気持ち。でも、自分が男だからどうしようもなかったと隆章を許したい気持ち。
 そして、隆章が自分のところへ戻ってくることを願う気持ち。
 ぐるぐる渦を巻く感情で、真幸の心はぐちゃぐちゃになっていた。
 悲しくて喉がつかえる。こぼれる涙に咳き込むと、しゃがんでいた足の筋肉が崩れて前のめりになった。浜の傾斜に沿って顔を砂へ突っ込む前に、かろうじて両手をつく。
 視界を開けば、あたりはすっかり暗くなっていた。ホテルからもれる光がぼたぼたと落ちる涙にあたり、虚しく砂の下へ消えていく。腕と膝が次第に痺れてくる。同じ体勢を続けて身体も悲鳴を上げていた。
 ……ここで、砂に埋もれて、消えたい。
 波の迫る音がしている。満潮が近いのだろう。でも、真幸にはどうでもいいことだった。
 ……今が何時だっていい。もう、どうだって、いい。
 泣いても何も変わらない。はじめて来た土地で、自分を心配してくれる人もいない。絶望感が巨大な虚しさにすり替わる。
「気分悪くされましたか?」
 上から突如降ってきた女性の声に、真幸はビクッと身体をふるわせた。
 誰にも心配されないと思った瞬間にかけられた台詞。涙がびっくりしたように途切れた。
 ……ひとがいる。そうだ、ここ、リゾート地だ。
 全部どうでもいいと思っていた気持ちから、唐突に現実が舞い戻ってきた。
 ここは誰も居ない浜でも公園でもなく、人が途切れないリゾート地だった。ホテルには泊まっている客がたくさんいる。
 ……二十六歳の男がこんなところで泣いていて、異常扱いされたら、ここにすら居られなくなる。
 我に返った真幸は、必死に冷静な自分をつくって、そっと顔を上げた。心配そうに見下ろすのは、品がよさそうな老婦人だ。夏夜らしいゆったりしたワンピースを着ている。どう見ても真幸と同じ宿泊客だ。
「すいません……大丈夫です」
 小さく口に出した言葉は、ふるえもせず我ながらしっかりしていると思えた。
 声をかけられたおかげで、長いこと流れていた涙も引っ込んでくれた。そのまま辛い感情を強く押し込めて、男らしさを無理やり引き出すように半身を起こす。
 少しの間見つめあったが、彼女は微笑んで頷いた。
「それなら、よかった。気をつけてね」
 老婦人はそれ以上のことは言わず、会釈してコンクリートの道へ戻っていく。大人な対応に励まされて、真幸は作り物ではない冷静さを取り戻した。
 涙の跡は見られたが、見なかったことにしてくれたようだ。暗くなったビーチ。うずくまって泣いていた間、自分を不審に思った人は彼女以外にもいたかもしれない。そう思うと、今度は羞恥が迫ってくる。
 ……戻ろう、部屋に。
 孤独を痛感する場所へ閉じこもるのは本当に嫌だったが、また声をかけられるのも辛い。慰められて理由を聞かれるのはさらに避けたかった。
 時間をかけて立ち上がる。頭は少しふらふらしたが、視界と聴覚はクリアだ。暗い海はだいぶ近い。ホテル側にある道を見遣ると、少し遠くで連れ立って歩くカップルが見えた。女性の服装で先ほどの老婦人だとわかる。
 ……旦那さんと散歩中だったんだ。
 そう思うと、胸がギシギシと軋む。
 自身を宥めるように何度も呼吸した真幸は、砂を払ってそっと浜を出た。
 この暗さならば、近づかれないかぎり顔は見えないだろう。でも、ロビーは明るい。エントランス前で少し躊躇ったが、仕方なく俯いて中へ入った。
 大の男がビーチで号泣していたなんて気づかれたくない。その一心でエレベーターを目指す。しかし、力を失った脚は重く、亀のようにしか歩が進まない。
 広々としたロビーに客はほとんど居なかった。腕時計をチラと見る。八時二十三分。意外な時刻に真幸自身は二度見する。何時間浜辺で泣いていたのだろう。
「え、それ本当?」
 突然、真幸のところまで大きな声が響き渡った。弱っている心は驚いて、ビクッと揺れる。
「どうにかならないのかな、それ、」
 焦ったような言葉は畳み掛けられた。トラブルが発生したような口調だ。心底困ったような声がロビーに広がっている。
 よく通る男の声に惹かれて、真幸はフロント付近へそっと目を向けた。
 従業員と話している人物。背の高い男だ。
 ……え、ちょっと待って。
 彼を見て息が止まった。全身に強い電流のようなふるえが走る。
 真幸は泣き顔を隠すことも忘れ、後姿をまじまじと凝視した。それだけで我慢できず、フロント側と話す男に近寄る。
 背格好と持っているキャリーバッグが、恋人の隆章そのものだった。
 ……隆章が来てくれた!
 ポッと火を灯したように真幸は明るくなった。舞い上がる心を止められず、背の高い男に突進する。
 本人かどうか、確認することをすっかり思考から削ぎ落としていた。期待するまま男の腕を掴む。
 後ろから不意に触れられた相手は、勢いよく顔を向けた。すぐに目があう。
 男は、確かに隆章によく似ていた。
 しかし、恋人ではない。
「……すいません。人違いです」
 真幸の顔から色彩が失われた。ひどい思い違いにすがってしまっていた自分を、すぐに恥じた。最低な振られ方をしたせいで、少しでも似ていれば恋人だと思うフィルターがついてしまったらしい。
 失った愛を求める虚しさと愚かさが襲ってきて、パッと手を離す。
 最悪な気分が上書きされてしまった。
 泣いていた瞳も見られて気まずく、その場を離れようと後ずさりをしはじめる。すると、見つめていた男の表情が変わった。
「いや、待ってください、」
 逆に彼から腕を掴まれた。打ちのめされているところで面倒事を聞く心の余裕はない。でも、自分からコンタクトを取ってしまった状況から振り切る気力も出てこなかった。途方に暮れて真幸は俯いた。
「お尋ねしたいことがありまして、少しだけお願いします。いいですか?」
 そう言いながら、男が一時フロントから身を離し、真幸を掴んだまま動き出す。
 ……どうしよう。困ったことになっちゃったかも。
 了承する間もなく、彼にあわせて歩くしかなかった。柱の側で立ち止まる。
「つかぬことをお聞きしますが、ここに宿泊されているひとですか?」
 何も知らない男が、顔を覗き込むように訊いてきた。
 ……声は、隆章より少し高い。なんで気づかなかったんだろう。
「って突然で申し訳ないです。迷惑でしたか?」
 一方的に話している声は、少し隆章に似ていた。観念して首を横に振る。
 顎を上げて視線をあわせば、男の顔はやはり恋人の造作とかなり近い。髪型もさほど変わらず、年齢も同じくらいだろうか。隆章と同じくすっと伸びた鼻梁と、はっきりした顔立ち。特に目元付近が酷似している。
「引き止めて、すいません。あなたは、このホテルの宿泊客さんですか?」
 警戒心を持たれないように、やさしく尋ねているのがわかる。真幸はそうっと頷いた。途端に、背の高い男は安心した表情になる。
「ですよね。今日ここ、満室らしいんですよ」
 初対面なのに、名も知らない彼は気さくに会話を続けた。
 普段の真幸ならば、不審に思って相手にしない。でも、彼の隆章に似た容姿と、二日間ほとんど知らない土地で過ごしている孤独感に気持ちが負けていた。
「……はい、」
 一〇秒ほど間を開けて、小さく相づちを打つ。沈痛な真幸のテンポに待てる男なのか、あわせるように明るく言葉を繋げた。
「実は私、ダブルブッキングされちゃったらしくって。今それが発覚して、ちょうど困ってたところだったんです」
 ……だから、大声だしてたんだ。
 しかし、男の事情を聞かされても、ただの客である真幸は答えようがない。
「はあ、」
 相づちはため息になった。それでも目の前の彼は臆することなく話を進める。瞳は真剣だった。
「本当に今、どうしようかなあって。個人的な話で足止めさせてすいません。このホテルに一人で泊まる予定だったんですが、こんな状況になるとは思わず……ほら、やっぱり、あなたもお一人様ではないですよね? ここ泊まるのは、カップルとか家族単位でバカンスに来る内地の人たちばかりだから」
 この土地に慣れているような話し方をする彼。そして、お一人様、という言葉が引っかかった。
 ……オレ、一人だ。あの部屋で、あと六泊も、ずっと独り。
「あ、話しすぎですよね。俺、ついぺらぺら喋っちゃうとこがあって、」
 黙っている真幸に、男が頭を掻く。
「いえ、あの、」
 彼が一番尋ねたいことは遠回しだが、真幸にもなんとなくわかってきた。
 満室でダブルブッキングになっていると、ここには泊まれない。だから、目の前の真幸が一人ならば、相部屋してもらいたいという感じだろう。宿泊代表者である真幸がOKすれば、おそらくホテル側も考慮すると踏んでの頼み事だ。
 かなり図々しい気もするが、少し身をかがめて真幸を見る彼の背格好は、百八十近くある隆章と同じだった。
 ……あの部屋でずっと独りは嫌だ。でも、こんな得体の知らない人を泊めるって、どうなんだろう。一応同性だから、おれさえいいならいいのかな。事情は絶対に説明したくない、けど、雰囲気と顔が隆章に似てる。悪い人じゃないかもしれない。
 これが仕事の出張先だったら確実に断っている。一人旅行でも高確率で断っている。しかし、今回ばかりは事情が違う。何よりも真幸は、一人でいたくないほど傷ついていた。確かなよすがが欲しかった。
「おれのところ、一人、ですけど、」
 意を決して言葉にする。
「今言ったの、本当ですか?」
 目の前で男が、まさか、と、いわんばかりに驚いている。願ってもいない言葉なのだろう。
「ベッドひとつ空いてます? ツイン? あ、ここツインからしかないか」
 他人から独りきりで滞在していることを確認され、真幸の胸がキシキシと痛くなった。でも、一人だと言ってしまった以上、ほぼOKを出したようなものだ。悲しみをぶり返さないように眉を寄せて答えた。
「空いてます」
 言って、すぐ後悔が生まれた。
 男は初対面だが、隆章によく似ている。
 ……一緒の部屋にいて、苦しくなったり虚しくなったり比較したり、するかもしれない。
 恋人には、裏切られた、傷つけられたという気持ちより、好きだという想いのほうがまだ強い。
「それ、本当ですよね? いきなりでなんですけど、泊めてくれますか?」
 真幸の心情を知らない男は希望に満ちた表情を見せた。それを見て、隆章はそういうわかりやすい表情はしない、と思った。すでに比較している。
 ……おれも、最低だ。
 複雑になっていく気分の前で、今度は男がハッとした顔に変わる。
 そして、深々と背を曲げて頭を垂れた。
 唐突に謝罪会見のようなお辞儀をされ、一瞬で暗い思考が飛ぶ。
「え、待って、」
「突然のことで、すいません。礼儀足らずで。私は上間宏和と言います。それで、お願いがあります。一泊でもいいので泊めてください! ちゃんと、お金は支払います。上乗せでも全然かまいませんので」
 真面目な口調で改めてお願いされる。上間と名乗った男の姿勢を戻すべく、真幸も声を大きく上げた。人がまばらなロビーでも、この様子は恥ずかしい。
「いや、お金はいいです。顔、上げてください。一泊でも、二泊でも、いいので、」
 いよいよ部屋に戻りたくなってきた。
 少し離れたカウンターでは、はじめに取り合っていた従業員の女性がとても心配そうな顔で見つめている。 「泊まらせてくれるんですか?」
「はい」
 強い念押しに頷く。この場を早く去りたい。続きは部屋に行ってからだ。
「ありがとうございます。助かった、あなたは恩人です。これで俺、救われました。受付に戻っていいですか」
 安堵と喜びを隠さない上間という男に促されて、フロントカウンターへ戻る。従業員は、どのように話がついたのか察しているようで、大変恐縮した表情を真幸へ向けた。
「お客様」
 謝ろうとする素振りに、真幸も擁護するように咄嗟に手を振った。
「あの、大丈夫です。同行者変更の手続き、できますか」
 平静を装って尋ねると、フロント側から丁寧に謝られてしまった。隣の男は安心したのかニコニコ顔だ。これで本当によかったのかと思いながら、宿泊者の変更手続きをする。
 どうやら、従業員女性と上間宏和は顔見知りらしい。このあたりの関係性もよくわからない。上間は渡されたペンで名前を走らせながら、従業員の言葉を聞いていた。
「宏和さん。あとで上間くんに伝えておきますから」
「はい、言っておいてください。手続き、よろしくお願いします」
 不思議そうに二人のやり取りをじっと見ていれば、女性にまた謝られる。そして宏和には「部屋で、ちゃんとお話します。安心してください」と微笑まれた。




... back