* 四季のエクストラ【第3話】 *


 目を覚ませば案の定、背中に陽介がくっついていて寝返りが打てない状態だった。カーテンに隠れた窓は暗さに沈む。秋のにおいが部屋にも入り込んでいた。
 今日の仁は、一日の締めくくりとして門限ギリギリに帰ってきた陽介を迎え、すぐベッドに潜り込んだ。記憶が正しければ、リビングのテーブルに課題の紙が散らばったままになっている。
 陽介のことは気にもしていなかったが、いつもどおり仁の熟睡後にベッドへ潜ってきたのだろう。このところ夏期休暇に増やしたアルバイト量を極力減らさずにいるせいか、陽介は午前様で仁宅を訪れることが多い。だが、以前のようにソファで撃沈していることがなくなっていた。子どものように、仁の体温と寄り添っている。
 男とくっついてなにが楽しいのか、今でもまったくわからないが、気温が下がりだしている近頃では、夏より一緒に寝てもうざったくない。ようやく目覚し時計より前に陽介の感触で目覚めなくなった。慣れというものは恐ろしいものだ。
 陽介から、風呂場にあるボディソープの香りがする。仁と同じシトラス系の匂いだ。  彼は昨日、実家に用があると言ってこの家に泊まらなかった。最低でも週に一度そうした日はあるが、陽介がいないと笹丸家の印象が少し寂しくなる。朝が静かなのはありがたいが、空気が落ち着きすぎて頼もハーランドも物足りないようなのだ。
 横向きの体勢が嫌になった仁は、身体に乗っている陽介の腕をどかせて寝返りを打った。狭いベッドで、いっそのこと陽介を床に落としてやろうと考えたが、最近疲れているようなので止める。
 疲れているというより睡眠不足に見える。家庭教師をしている双子のプレゼントを買いにいった日も眠そうだった。大学帰りだった陽介は、講義の半分を爆睡したと言っていた。研究の多い仁の学部ではありえない話だ。
 不本意ながら仁と向き合う体勢になれば、陽介の腕がまた仁の身体に乗る。引き寄せるような力の加え方に、仁も半分眠っていた脳を起こした。
「おい、起きてるんだな」
 反応はない。しかし、力の入れ方があまりに不自然だったのだ。
「陽介、」
「……あい。実は起きているんです」
 観念したような口ぶりで、顔を寄せてくる。鼻になにかがかすったが、かまわず陽介の耳を指で引っ張った。
「いたいいたいいたい」
「痛くしてないだろ。寝られないなら床に行けよ。狭いからオレが行こうか、」
「ダメ、ここにいて。あと仁、」
 明瞭な話し方は、寝床に潜ってから一度も意識を飛ばしていないことを教えていた。仁の声のほうが眠そうなのだ。今は何時なのかと思ったが、陽介の問いかけに注目した。
「ちょっと触って、どこでもいいから」
「え、なんで?」
 彼があっけらかんと言うことに、仁はすぐさま訊き返した。触られているのに、なぜ触り返さないといけないのか。
「なんか、いまなら寝れそうなんだよ。ほんと、どこでもいいから。手で俺のどっか撫でてみて、」
 就寝できるから、という理由を信じた仁が黙って指を動かす。どこでもいい、と言われて困ったが、陽介の耳裏からそっと、首を撫でてみた。暗がりだが、至近距離の陽介の顔が緩んだのがわかる。目を閉じた彼に、仁は撫でる手を止めずささやいた。
「寝られる?」
 頷く代わりに、腕力が解けたことがわかる。
 瞬く間に寝息を立て出した陽介を、冗談かと思いながら見つめる。本当に寝ているようだ。
 ……今のは、なんだったんだ?
 疑問が芽生えたが、仁も睡魔に勝てない。撫でる手を引き、陽介をどかすことなどすっかり忘れて眼を閉じた。
 翌朝は相も変わらず、仁が彼を叩き起こす役目を担ったが、陽介はいつもより上機嫌で仁に蹴られていた。丸一日、頼が訝しく思うほど機嫌が良かったのだ。
 その数日後、仁は吉秋たちの飲み会へはじめて参加した。吉秋の言っていたとおり、酒の肴として陽介は格好の的となっていた。
 今回は仁もいるということで、メンバーから陽介の素行暴露を強要されたが、ベッド侵入癖以外で悪い素行は見られない。さすがに恥の書き捨てのようなベッド侵入ネタは避け、陽介から聞いた彼の元カノの話に終始した。それだけでも、吉秋たちにとっては陽介をからかうのに十分なネタ提供になったようだ。陽介は、仁の鬼! と言いながら隣に座る仁にくっついていた。本当にスキンシップが好きな男だと素面の仁はしみじみ思ったものだ。
 一方、友人たちから見れば、陽介は仁に懐きすぎらしい。
 普段であれば勝手に居酒屋のメニューを頼む陽介が、仁の意見を逐一盛り込もうとするのが良い例だと言っていた。仁と普段仲が良い吉秋も、仁と陽介が一緒にいるところをはじめて見たらしく、「思った以上に仲がよくなってんだな」と感嘆していた。別の友人が「オンナにもこんな感じなんだな」と呟いていたのも聞いている。
 そんな仲間たちの中で、現在最も不思議がられている陽介の心変わりは、『春夏秋冬男』を返上したことだ。
 夏にカノジョと別れてから、陽介に女ができた様子がないのは仁がよく知っている。はじめ友人たちは、このときの陽介の上機嫌を、新しい女ができたせいだと思い込んでいたようだ。今までがそうだったからだ。
 だが、陽介は仁のいる飲み会の場で、あっけらかんとカノジョづくり休止宣言を行なった。
 今も女の子に声をかけられたり、合コンしたりすることはある。でも、今はちょっと休憩して独り身を楽しみたい。
 いけしゃあしゃあに言う彼を友人たちは、嫌な野郎、性格ブサイク、世界の敵だと散々吊るし上げていたが、吉秋は大きな疑問を抱いたようだ。後日、電話してきた吉秋に、疑問を投げられた。
『女好きのアイツが休止宣言とか嘘だろ。しかも女からの誘いまで断っているのはアイツらしくねーよ。なに考えてんだ?』
 受話器越しに聞く仁の近くで、陽介は鼻歌をうたいながら三人分のナポリタンをつくっていたわけだから、本人は至って普段どおりだ。
 確かに、近頃の陽介には女の影がまったくない。女性と付き合っていなくても生活できる仁だが、陽介はカノジョがいることが男のステータスだと思っている節のある男だ。それが周囲からおバカ扱いされる原因になっているわけだが……彼は釣った女にえさをやらないタイプではなく、わりと甲斐甲斐しいほうだ。年頃の妹が二人もいるせいか、陽介は女性の考え方をある程度理解している。
 ……カノジョが途切れたのは、陽介にとっては不名誉に感じることのはずなんだけどなあ。
 仁は隣にいる茶髪の男を見る。
 今日は、お互い大学の講義が早く終わる日だ。家庭教師のバイトも控えている。
 ……でも、やたら最近機嫌いいんだよ。なんなんだろうなあ。
 そう思いながら、暮れる斜陽の角を曲がる。スーパーの駐車場が現れれば、周囲を見渡していた陽介が声をあげた。
「焼き鳥のにおいか!」
 彼の発言に仁が目を凝らせば、スーパーの脇にあるワゴン車に、赤提灯が下げられている。もくもくと煙を立たせているのは、移動式の焼き鳥屋だ。遠くから嗅ぎ取っていたらしい。
「……おまえは犬か」
「だっていいにおいしてんだもん、腹減ってんだよ」
 脱力するように言えば、陽介が無邪気に応える。
「あー、焼き鳥食いたくなってきた。仁、今日の夕飯なんにする?」
「まだ決めてないよ。でも、七時から家庭教師だろ。つくるにしても軽くかな。頼が米炊いてるはず、」
「じゃ、俺が奢るから、焼き鳥にしようぜ」
 了承の言葉を待たず、陽介が小走りでボックスカーへ向かっていく。思いつきで行動するところが、陽介の良いところであり悪いところだ。
 今夜伺う家庭教師先の金井家のことでもそうだ。先週は教え子である双子のバースデーだったが、誕生日当日にプレゼントと届けると言い出し、仁が慌てて引き止めた。サプライズ好きな男だが、アルバイト先でそれをするのはやりすぎだ。結局は当初のとおり、誕生日前々日の個人授業時にプレゼントを手渡した。それだけでも二人はおおいに喜んでくれた。
 仁はスマートフォンを出して、弟へ回線を繋げる。晩飯のメニューを伝えれば、家に居た頼は受話器越しに明るい声をあげ、「レバーたくさん買ってきて」と頼んできた。白米と味噌汁は用意してくれるそうだ。
「仁、なんか食べたいもんある?」
 電話を切って陽介の隣に着けば、年配の男性が車内で忙しく串焼きを扱っている。
「オレはなんでもいいよ。頼が、レバーたくさんほしいって」
「レバー? 渋い好みだな。おじさん、レバーあと五本追加で」
「……陽介、何本買ったんだよ」
「え、何本だったっけ?」
「三十五本ですよ」
 手を動かす親父さんの言葉に、仁は壮大に呆れる。買いすぎだ。仁はどちらかといえば少食なのだから、頼と陽介で腹に詰め込むつもりなのだろう。
 すべてを用意するのに時間がかかると言われ、二人は敷地内のスーパーへ足を運んだ。惣菜数点と朝食用のロールパンを買い、陽介が言いだしたとおり支払いはすべて彼が持った。仁は素直に礼を言い、陽介の嬉しそうな顔を見る。
 彼は焼き鳥屋に戻ると、渡された三十五本の焼き鳥袋を手下げた。どう見ても重量がある。
 さらに仁と陽介は、それぞれおまけの白もつ串を受け取った。焼きたてをかじれば、仁も空腹だったことに気づく。焼き鳥の香ばしいにおいが帰り道に目印をつけて漂った。
「なんかさ、こういうのって、いいなあ」
 一串食べ終えた陽介が、袋を揺らしながら呟いた。薄暗くなる住宅街に行き交う人は少ない。帰宅ラッシュの時間より早く陽が暮れる季節は、とりわけて風景が静かだ。
「ずっとこんなんがいいなあ。仁がそばにいて、ご飯一緒に食べて、」
 仁は焼き鳥を食べつつ聞いていた。穏やかな表情をした陽介が見てくる。
 最近、陽介は特にこういう表情をするようになった。
 確かに、気の知れた同性といたほうが楽だ。仁もそう思うが、先日聞いた吉秋の言葉も引っかかる。
「でも、女の子のほうがいいんだろ」
「……えー、そんなことないって、」
 仁の言葉に陽介はとぼけたような返答をする。だが、それを流さずに訊き足した。
「陽介って、どんな性格の子が好みなんだ?」
 今まで興味を抱かなかったことが気にかかる。凛香も先週、同じような口調で訊いていた。陽介は、胸が大きいよりもスレンダーなほうが好きかも、と体格的なことしか答えなかった。痩身の彼女は、それだけで大いに満足したらしい。だから、性格的な好みは知らない。
「そりゃ、かわいい性格が好きだよ。好き嫌いはっきり言ってくれるほうが楽かなあ」
「凛香ちゃんみたいな?」
「リンカ? リンカは、もっとオトナになんないと」
 プレーボーイが苦笑する。仁もその回答に異論はなかった。陽介は無邪気すぎるところもあるが、それなりに人をよく見ている。陽介を育てた環境がそうさせたのだろう。
「夏のオンナは、」
 仁が発した言葉に、陽介の強い視線があたった。オンナ、という言い方が仁らしくないと思ったのか。
 しかし、訊いてみたかったのだ。
 女を振らない主義の陽介が、はじめて振ったのだ。もしかしたら、かなり性根の悪いオンナだったのかもしれない。
「なんで、振ったんだよ?」
 前のカノジョを振った話は、仁がこの前参加した居酒屋の飲み会でも当然話題になっていたが、陽介はその理由をはぐらかし続けた。言わないことがカノジョへの誠意だ、と言い切って吉秋たちにいじられていた。ネタにされても口を割らなかった。だが仁には、自分が訊けば教えてくれるだろうという、妙な自信があったのだ。
 その問いかけを、陽介は黙って受けていた。しかし、向けた瞳はいつもと色が違うようにも見えた。
「………なんで訊きたいの?」
 彼は、少し困った素振りで仁へ問いを返した。どうして訊いてくるのか、と言われて我に返る。
「あ、オレには関係ない話だったよな。ごめん」
 仁はすぐさま打ち消すように言った。迂闊だった。そもそも陽介と元恋人の間で収めておけばいい話だ。蒸し返す立場にすらいなかった。
 いつの間にか陽介の足が止まっている。仁も足を止めて、振り返った。
「言えないことはないんだけど、……仁、逃げてもいいよ」
 彼がそばに来て、躊躇いをこめて続けた言葉。よくわからなくて覗き込む。
「逃げる?」
 陽介の顔が脈絡なく近づいてきた。
 くちびるへ、なにかがあたる。
 目を開いていたのだから、わからないほうがおかしい。
 キスされたのだ。
 仁が理解するときには、すでに陽介の顔が離れていた。眉を下げて複雑な微笑みをつくる。
「ふれておちるもんって、なんだと思う?」
 仁が行為の意味を訊く前に、謎かけがはじまった。陽介の行動とその言葉を、仁はどのように解釈すればいいのかわからない。
「………俺も、わかんね」
 呆然とする仁の顔面に描かれていたことを、そのまま陽介は口にした。すぐ声の調子を元に戻して「頼が待ってるから早く家に帰ろうぜ」と歩き出す。
 あまりに自然で、なにもなかったかのように振舞われて、仁はリアクションをし損ねてしまった。夕食時も金井宅へ赴いたときも、彼の態度は普段と変わらなかったのだ。あのキスは幻だったのではないかと思うほどいつもどおりだった。
 だから、仁もキスの理由を問うことをやめた。
 陽介も自身の行為に意味を見出していなかったのだ。アイツはプレーボーイだし、気の迷いでいたずら心だったのだろう、とキス直後の彼の発言をふくめて仁は鵜呑みにした。
 キスを仕掛けた日の夜中も、彼がベッドへ侵入してきた感触はあったの。けれど、翌朝は珍しく仁より早起きをしていたようだ。仁は起床してすぐ、陽介が弟と一緒にハーランドの散歩へ出かけたことをメールで知った。
 陽介はその日を境に、仁より先に起床するという珍事を続けた。そして、以前のようにソファで沈没することも、また増えていった。
 仁はそれらを、彼の心境の変化とキスは関係性のないものだと信じていた。

 けれど、間もなく凛香を通してひとつの証言を耳にする。
『……陽介さんに、好きな人がいるんだって。仁さん知らなかったの?』




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