* 四季のエクストラ【第5話】 *


 陽介の風邪は軽く、睡眠不足と疲労が起因していたことから二日ですっかり回復した。
 仁は現家主の権限でソファでの就寝を禁じ、余っている客間のひとつを陽介にあてがった。そもそも仁たちの親は陽介の滞在を許可しており、空き部屋がひとつ埋まったところで問題はない。頼もようやく陽介の部屋ができたことで、この家の住人入りが確定したと喜んでいた。
 渋っていたのは、陽介本人だ。風邪を引いていたときは大人しく客間のベッドを使っていたものの、そっくりそのまま自分の部屋になることには抵抗があったようだ。
 その抵抗も、笹丸家に迷惑がかかるから、と、気遣ったわけではない。自室がつくられてしまうことで、仁の部屋へ気軽に出入りできなくなることを恐れただけの話だ。
 仁はくだらない理由に呆れ、好きなときに来ればいいし、寝たければ寝に来ていいし、荷物も置きっぱなしでいいと答えた。仁の部屋はインターネットのLAN接続が悪く、大学に入ってからというもの、レポートづくりもろもろの作業はダイニングで行なうことが多い。両親が居ない現状で、仁の自室は完全に寝室の扱いだ。陽介に出入りで規制をかけている部分は、家の門限くらいなものである。
 その門限も、仁は撤回していこうと考えていた。
「ニイ、陽兄いつ帰ってくんの」
 冬期講習のカリキュラム冊子や用紙をローテーブルに撒いた頼が、みかんを剥きながら隣の兄に聞く。
 彼の横には段ボール箱があり、そのなかに大量のみかんが積められていた。陽介が一昨日、実家からカートを引いて持ってきた。母親の親戚がみかん農家で、晩秋からみかんが定期的に送られてくるのだそうだ。
 いろんなお礼としてもらって、と、言われて仁は素直に受け取っていた。頼も仁も柑橘系は好物だ。
「今日は門限ぎりぎりって、メールきてたよ。断れない合コンがあったこと忘れてたんだってさ」
 同じようにみかんを剥く仁が淡々と答える。
 このところ本当に、陽介の口から遊びの話を聞かなくなっていたから、合コンという響きが妙に久しく思える。
 今日の帰宅前、鍵をつくりに行く途中で偶然会った吉秋も言っていた。
『カノジョがいたときも遊んでた加納が、ここんとこ誰も誘わないとか聞いたよ。アイツのライフワークは、マジでどこに移ったんだ?』
 吉秋との飲み会も乗り気ではないという。心配気な口調で彼から問われ、仁は陽介のことを知る限り、率直に答えた。
『教習所じゃないかな、今日は合コンらしいけど』
 それ以外、本当に言いようがない。風邪を引いたことで気持ちを改め、冬休みに入るまでアルバイトより教習所通いを優先する、と陽介は張り切って言っていたのだ。
 真っ昼間に送られてきた文面に浮かぶ『合コン』の文字は、元々の陽介らしさを象徴しているようなものだったが、直前までその予定を忘れていたのは、彼らしくなかった。それくらい遊びに興味を示さず仁の家にいる。
 陽介の態度が変わった分岐点を、仁はすでに察していた。逆に、この期に及んでも、陽介がなにも仁に訊いてこないことのほうが不思議だった。
「合コンかあ。そうだ、おれが第一志望受かったら、陽兄が合コン開いてやるって。ニイも来る?」
「……行かないよ。興味ない」
 頼と陽介の約束に仁は呆れながら一房もいで食べる。
 テレビの音は極力絞って、思い出したときにニュースを眺める程度だ。頼もインターネットに傾倒している。ときどき陽介も頼の部屋に篭もっているが、頼と仲良くAVを観たり貸したりしているらしい。
 男の生理的なものは仁も黙認しているが、仁自身は彼らに比べ割合欲求度は薄かった。頼も兄の淡泊さを知っているのか、その点は双方食い下がらない。
「陽兄も、ニイは絶対連れて行きたくないって」
 あっけらかんと暴露される、陽介の本心に仁は変な顔をする。なんで連れて行きたくないんだろう、とは、もう思わない。こみ上げてくる妙な情を鎮めるために、黙々とみかんを食べた。不意打ちは慣れていないのだ。
「ニイ、」
「なんだよ、」
「合い鍵つくってきた?」
「つくってきたよ。今日は渡さないけど。どうせ酔って帰ってくるんだろうから」
「そうだよね」
 頼が口許を緩めると同時に、ピンポーンという玄関チャイムが鳴った。思ったより早い帰還のようだ。
「帰ってきた。早いじゃん」
 まだ鍵を持たない陽介は、仁か頼が迎えなければならない。立ち上がる気のない頼に、仁が重い腰を上げて玄関へ行く。ドアを開ければ、陽介が安心したと言わんばかりの表情をした。
「はー、思ったより早く帰ってこれた! で、土産のケーキ」
 そうして箱を仁に渡す。陽気さが輪をかけているのは、アルコールにやられているせいだ。スニーカーを脱いで仁の横を過ぎるかと思えば、ケーキを持っていないほうの手を掴まれた。そのまま引っ張るので、仁は仕方なく彼についていく。
 リビングで頼が手を繋ぐ仁と陽介を観ていたが、すぐ視点が移った。兄の持つ四角い袋に気づいたようだ。
「陽兄、それケーキ?」
「おう、頼いま食べる?」
 陽介は、そう言って早々皿とフォークを片手で用意している。手をほどいてほしいが、振り切る気力もなく連れられるがままローテーブルに戻った。
 頼が書類を片し、仁がケーキ箱を置く。居間は床暖房が敷かれているため、地べたに座っても冷たくはない。陽介がようやく手を離して、中央にあるパッケージを開けた。手を繋いでいたのは無意識だったようだ。
「買ったのは、全部同じなんだけど。すっげーフルーツてんこ盛りのタルトなんだぜ! 居酒屋のあとがバーカフェで、ケーキがすごいうまそうだったから、先帰るって言ってテイクアウトしてきたのよ」
 最後まで居なかったから、帰ってくるのが早かったのだ。しかし、途中抜け出していくのは陽介には珍しいことでもある。その珍しさには当然気づきもせず、頼は皿に置かれたるとすぐタルトを食べはじめた。
「うま、元気でるー!」
「オレ、この時間にそんな食べられない。半分やるよ」
 仁の言葉に、ハイハイ! と、弟が手を上げる。
「もしかして、仁、タルト好きじゃない?」
 一方の陽介が、ハッとしたように仁へ顔を向けて、へにゃりと顔を崩した。酔っているときの陽介は、喜怒哀楽がさらに素直なのだ。でも最近、露骨すぎると思うときがある。
「タルトはどちらかというと、好きだよ。でもこれ、本当にフルーツ山盛りで量多すぎるだろ」
「だって、てんこ盛りだから買ったんだもん」
「こんなでかいの、夜中に食うもんじゃないって」
「それニイだけだよ。これ、半分もらったから! うまいよコレ」
 仁が見てない間に、タルトの半分が消えていた。甘いものに目がない頼は、兄の趣向を歓迎している。甘いものに執心しない兄がいれば、その鉢はすべて弟のところへめぐってくるからだ。
「ほら頼、うまいだろ。うまいんだって、仁、食べてみて、」
 隣で肘をつついてくる酔っぱらいがしつこい。仁は切り分けたタルトにフォークを刺して、陽介の目の前に突きつけた。
「え、」
「ほら陽介、口開けろ」
「ちょっ」
 じっと見つめれば、陽介が困った顔をする。
 それが照れている表情なのだと知っていた。彼が風邪を引いていたときから、仁は何度も彼の額に手を重ねて見てきた表情だ。その反応が少し楽しいのだ。
 どうしよう、と言いたげな瞳は頑なすぎて、仁は一度フォークを下げ自分の口に入れた。思ったよりさっぱりして食べやすいタルトだ。
「本当だ、うまい」
 仁の感想にも、陽介はなにか言いたそうな表情を戻さない。ため息をつきそうになって、頼を見れば、同じような顔で仁を見ていた。こちらは、なにが言いたいかよくわかる。皿がすでに空だ。
「……頼、まだ食べたいのか」
「うん。これ、ちょーうまい」
 仁は黙って自分のタルト皿を頼に渡した。陽介の側に、三分の一欠けた同様のものがある。仁はそれを代わりに引き寄せる。
「あ、仁が食べたいなら、俺の分、食べていいから」
 陽介は謙虚な発言をひねりだした。言いたい言葉は違うのだろう。陽介の分を、仁がもう一切れ食べた。甘いが、思ったより好ましい甘さだ。
「なんか、陽兄ってハーランドに似てるよね」
 仁がフォークを動かしていると、玄関前に住む愛犬の実質的飼い主である頼が呟いた。陽介がフォークを握り込んだまま、目をパチパチさせて頼を見る。完全に子どもの仕草だ。
「ほら、陽介」
 その彼を呼ぶ。すぐに目を向けてきた陽介に、再度タルトを刺したフォークを差し出す。今回は仁の行為に、おとなしく口を開いてきた。パクッと食べて咀嚼する。
「うん、マジ美味です」
「今度おまえの犬小屋でもつくろうか」
 言うと頼が笑って、陽介は眉を下げる。
 仁は陽介の表情を見て頬を緩め、自分のフォークで食べろよ、食べたら風呂に入ってこい、とけしかける。あたる双方の腕から、熱が発していた。
 陽介が自分に触れたくなる気持ちが、仁にもようやくわかった気がした。



 仁の誕生日には、とびきりおいしいケーキを買ってくる。
 その言葉でがぜん意気込んだのは、仁ではなく頼だった。おまえの誕生日の話じゃないだろ、と言いたいところだったが、大学受験期間中という一番シビアな立場にいる弟だ。下手なことを言うのはやめた。
 受験生で悩んでいることも多い頼だが、実兄に加えて新しくできた兄貴分の存在に、ストレスが大きく解消されているらしい。
 頼が狙う志望大学の水準は最も高く、それゆえに彼は教師たちから期待が寄せられているそうだ。マイペースな進学校にいた仁にはわからない負荷だ。頼の手伝いをするにも、数学くらいしか教えてやれるものがない。後は、家事の比重を自分のところに寄せるくらいだろう。
 一方の陽介は、頼が最も苦心している英語を教える能力に長けていた。弟や家のことを陽介に頼ってしまうのはよくないが、甘えてしまっているのは確かだ。
 陽介が笹丸家に出入りするようになった当時は、ここまで彼がこの家で当たり前の存在になると思ってもいなかった。出逢って一年経たない友情だ。
 そして今は、それすら乗り越えようとする想いがある。
 仁はタルトを食べた夜、自室へ戻る前に陽介を呼び止めた。そして、近々早く帰って来られる日があるのかを事前に訊いた。
 彼は明後日なら二二時くらいに帰って来られる、と返してくれた。陽介の言う日は祝日で、翌日は陽介と共同の家庭教師がある。
『家で待ってるから』
 仁は、含みを持たせて陽介に伝えた。彼が物言いたそうに頷いていたのが印象的だった。
 家のインターホンが鳴る。彼が話したとおりの時間に帰ってきたようだ。仁は読んでいた洋書を閉じて、廊下を渡る。
 陽介が先日の合コンのように、時間を巻いて来られなかったのはアルバイトのせいだろう。今朝も早い時間から外出して、教習所へ出かけていた。
 仁は玄関を開け、ジャケットとスニーカーを脱ごうとする陽介を迎え入れる。
「ただいま」
「おかえり」
 微笑む陽介の顔に、仁もつられて頬を緩ませる。
「今日、頼まだ帰ってないの?」
 ともにリビングへ向かっていると、陽介が察したようだ。仁は頷いた。
「帰ってきて、それでまた出かけた。日が変わる前に帰ってくるよ」
 頼は、まれに夜遅く帰ってくる。男子高校生身分の弟に、仁は門限をつくる気はない。陽介に門限があるのは、鍵を持っていないせいだ。開錠するにも、仁は午前一時半まで起きているのが限界だった。
 その習慣も、今日で終わる。
「そっか。仁、飯食った?」
「オレは食べたよ。ハーランドの散歩の後に。あったかいもんでも飲むか?」
「いい、それよりなんかあんの?」
 彼は気になって仕方ない表情で問いかける。
 この二日間、陽介はそわそわしていた。今ようやく仁の用件を訊けるのだ。陽介はすぐ理由や答えを訊きそうな性格に見えるが、実際の彼はいくらか我慢がきく。少なくとも仁の前ではそうだった。
 仁も手早く鍵を渡したかったが、先に解決しなければならないことがあった。
 やましいことは一切なしにしておきたかった。本来、友人であっても、家族が住む家の合鍵を渡すということは特例中の特例だ。
 昨日の大学キャンパスでは、陽介の謎かけた答えを引き出した河北から、その後の展開を訊かれていた。広い敷地にある木々のほとんどは葉を落とし、冷たい風に梢を支えている。季節が移ろいで、彼女は進展があったと推測したのだろう。
 だから、明日あたりに本人から真意を聞いて回答する、という仁の言葉に少し呆れていた。
『相手はけっこう気長なヤツなのねえ……よっぽど好きなのかな。からかったんじゃないとは思うけど。笹丸くんも、のんびりしてるねえ』
 その相手になんと伝える気なのかも問われたが、仁は微笑んだだけでなにも答えなかった。その場に陽介がいないと、どういう言葉が出てくるかわからないのだ。気持ちに断定はできない。
 しかし、目の前に本人がいれば自然と手が伸びた。陽介は頬に触れる仁に驚いていたが、眉を下げて動向を伺っている。
「冷たいな。風呂先入る? まだお湯はってないけど」
「いい、後で。仁、そんで、なに? なんか手伝ってほしいことでもあんの?」
「違うよ。渡したいものがあるんだ。オレの部屋にあるから、ちょっと取ってくる」
「それなら俺も上に行く。上着置きてーし、」
 仁はその言葉を聞いて、階段を上がる。陽介がついてきて彼の部屋となった客間へ曲がる。部屋のなかに入るのかと思えば、ドアを開けて上着を投げただけだった。開けっ放しの仁の部屋にすぐやってくる。
「入っていい?」
「別に聞かなくてもいいよ。入れよ」
 電気をつけた仁は、勉強机に置いていたバッグから裸のキーを取り出した。背後にいる陽介へ向き直る。
 目前に立てば、茶髪の男は不思議そうな表情をしていた。仁の手になにが握られているのか、まだわからないのだ。
「陽介、これだよ」
 そう言って、人差し指と親指で挟んだ銀色の鍵を見せた。一目で意味を理解できなかったようだ。
 陽介は仁の瞳を見つめ、もう一度鍵を見た。まさか、という顔をしている。
「ちょ、これって、」
「うちの合鍵だよ。頼にも親にも話してオーケーもらったんだ。それで、つくってきた」
 呆然とする以外の反応がない。仁は、素直に喜んでくれると思っていた。むしろ陽介ならば、これだけ住み込んで家事や食事の用意をしていればもらってもいいだろう、という余裕の顔で受け取るべきだ。
「おまえを信用して、渡すよ」
「……俺は、」
 彼は大きな躊躇いを浮かべていた。
 謙虚とは違う様子に、仁がまっすぐ陽介の目を見つめる。
「仁に言われるような人間じゃないんだ」
「知ってる」
 戸惑いをもらすように言った彼の台詞を、仁は一蹴した。いくらなんでも自分はここまで鈍感な人間ではない。
 しかし、これほど他人のことを考えたこともなく、陽介の気持ちに確証はない。陽介は人好きで、夏まで週二回は確実に逢瀬を重ねる恋人がいたことも知っている。仁と陽介が家庭教師先で出逢ったのは春の終わり。
 今は、秋だ。
「家庭教師のバイトがナシになったら終わりとか、おまえんとこの家の都合だけでうちを使うんだったら、これはやらない」
「それはない、それは絶対にない、ここにいたい」
 慌てたように言い出す陽介の瞳を、仁は離さずとらえて息を吸った。
 どうしても、言いたかった。
「オレは、おまえの都合のいい人間になりたくない」
 陽介はつかえたように押し黙った。
 眉を下げて一番良い言葉を探している。キスがあった日の夜を、まるで仁の側から再現しているようだ。実際に、そのとおりの状況だった。
 なぜこの家に一緒に住みたいのか。
 沈黙から離れない陽介から、真意を引き出そうとしてもう一度口を開けば先に声が落ちた。
 陽介の声だ。
「俺、どうすればいい?」
 意外な言葉に、仁は一瞬意味をはかることができなかった。持っていた鍵を握る。陽介の瞳は堪えているなにかを映していた。迷いのない感情だ。
「……俺、嫌われたくないんだよ」
 かたちにできる数少ない本心だったのだろう。
「仁だけには、絶対に嫌われたくない」
 その台詞が心に届いて、仁の手が動く。無意識に陽介の袖を引いていた。
 同性を想うことに、躊躇いがあって当然だった。
 陽介は仁の気持ちを尊重しようとして、謎解きも催促せず、ベッドにも入らなくなったのだろう。
 それでも、自覚している想いは傍にいればあふれてしまう。
 近づいても陽介は逃げなかった。目を開けて仁の動きを見ている。夜道で陽介が施したときも、彼はこうした気持ちでくちびるをあわせたのだろう。
 仁は、陽介にキスをした。
 触れるだけのものを、彼のくちびるにのせて離す。
「ふれて、おちるんだって」
 彼は目を見開いて、驚いた表情をする。次に困ったような顔になって、それから名前が出てくる。
「……仁」
 はっきり謎解きの回答を言うべきなのかと考えたが、陽介を見れば不要だとわかる。仁には、目の前の男がかわいく思えて仕方なかった。それが自分の表情に出てきていることも承知だ。
「好きって、言っていいの?」
「もう言ってるじゃん」
 バカみたいな台詞に笑いかける。陽介の両腕が動いた。半歩進んで、仁を抱きしめる。
 あまりに慣れた体温が愛しかった。この少し高い熱と、彼のにおいだ。
「好きすぎて、」
 陽介は大きく息を吸った。離したくないように、ぎゅっと腕に力をこめる。
「好きすぎて、死にそう」
 その声と仕草に、仁はからかいまじりに返す。
「死ぬなよ」
 腕を陽介の背にまわす。この男にならばどんな言葉でも言える、と仁は胸に詰まる気持ちをかたちにした。
「陽介、好きだよ」
 そうしたら泣き笑いの顔で陽介が、愛している、と言う。長いくちづけのはじまりに、二人は目蓋を伏せた。



 目を開ける前に、首の下にある腕の存在に気づいた。陽介に抱きしめられて寝ていたようだ。昨夜のことを思い出して、気恥ずかしさよりなんともいえない安堵感に包まれる。上半身裸の男は、茶髪を逆立てて眠っている。目覚める様子はないようだ。
 仁は、開いた世界を瞳でなぞる。ベッドのなかは、安らぎに満ちている。
 昨夜彼の猛攻に押されていろいろと触られたが、仁のあやすような手は陽介を眠りへ導いた。仁に撫でられると、睡魔が瞬く間に訪れるらしい。陽介は早い段階で、仁を抱き込んだまま熟睡モードに入ったのだ。
 その後は、抜け出すのにとても時間がかかった。一度リビングに戻って簡単な片づけをしていると、タイミングよく弟が帰宅してきた。彼は、友人と勉強会の後で、気晴らしの映画観賞へ行っていたようだ。
 頼に陽介の居所を聞かれて少し躊躇したが、仁の部屋で寝ていることは今にはじまったことではない。素直に答えれば、ニイの部屋好きだもんね、と頼に朗らかに言われてしまった。
 頼と別れ自室に戻ると、風呂を諦めて陽介の眠るベッドに戻った。上半身裸の男は、愛しい者が舞い戻った感触に一瞬だけ意識を浮上させたが、再度引き寄せて抱き込んだだけで眠ってしまった。仁も、その穏やかな寝息につられて目を閉じた。
 あくびをしながら、ほどけやすくなっている腕をどかす。壁時計を見ると、朝食をつくる前に風呂場へ行ける時刻だ。普段着で眠ってしまったのは、本当に久しぶりだった。今日はベッドのシーツも洗わなければならない。
 陽介から身をはがして、ベッドを出る。面倒ごとが増えたのは、ベッドに眠る男のせいだ。容赦なく蹴り起こした。
「陽介、起きろ」
 反応が鈍い。本当に寝ているからなのだろう。脚で数度蹴れば、唐突に陽介が布団をはいだ。一気に覚醒したらしい。
「いってーの! なんかもっと優しい起こし方ってあるじゃん!」
「ないよ。あってたまるか」
「ひどい! って、あれ、朝、」
 元気にトボけているのは、陽介の眠りが深かったせいだ。
「……おまえが安心し切って眠りこけたんだよ。それのとばっちりをくらったんだ、オレは」
 すると、嬉しそうに陽介は答える。
「うん、なんか、仁に触られたら安心すんだもん」
 言われるとおり、仁も陽介が自分の手ひとつで赤子のように熟睡するとは思わなかった。しかし、三度も同じことができれば自信にもなる。仁は陽介だけに発動する特殊能力を得た気分になっていた。仁が手で撫でれば、陽介はすぐに寝るという、二人以外にまったく使い道がない能力だ。
 陽介が、ベッド下に落ちているデニムパンツを寝ながら拾う。
「ポッケポッケ。鍵見っけ」
「それ、絶対なくすなよ」
「大丈夫。命に誓ってなくさないから。一生大切にする。そんで、今、何時?」
「今、朝の五時すぎ。頼が帰ってきたのも気づかなかったんだろ」
「あ、帰ってきてたんだあ。俺も起きて風呂入る」
「オレが先だよ。……なに、」
 仁は、伸ばされた陽介の手を見た。
 起こせという意思表示だとわかれば、仕方なく手を重ねる。しかし、逆に引っ張られた。ベッドに膝と片手をついて、陽介に覆い被さる。
「起きる気ないんだろ、おい、陽介、」
「なんか、春夏秋冬全部、一人だけを好きになったのって、はじめて」
 感慨深くささやく陽介に、仁は苦笑した。彼のロマンチストな部分が、大学になってモテる根源になったのかもしれない。
「……春も冬もまだじゃん。出逢ったときは五月だったし違うだろ」
「でも、冬はすぐ来るし春はかならず来るもんだし。あっという間よ」
 幸せそうな顔をする。気持ちを伝えあう前から、仁に見せていた表情だ。仁はそれが、たまらなく好きだった。
 もっと見たくて顔を寄せれば、キスになった。陽介の手が密着したいと仁の背を押す。それに大人しく従って、仁は居た場所に戻る。陽介が仁のにおいを嗅ぐように、首筋へ鼻を押しつける。
 起き上がったはずなのに、逆戻りしてしまったことに気づけば、少し照れくさくなった。それを押しのけるために、先程の続きを口にする。
「でもその前に、なんかあるんだろ」
 んっ、と、彼は喉を鳴らして仁を見つめた。
「仁の誕生日は、マジ奇跡起こすよ」
 だから、この一ヶ月が勝負なわけよ。弾んだ声が帰ってきた。
 仁は、普通でいいよ、と、笑う。陽介はそれを間近で見て、嬉しそうだ。
「あのさ、仁。……今夜から、一緒のベッドで寝ていい?」
「いいよ。そもそも禁止してないから」
「じゃあ、キスしてもいい?」
 陽介が、仁のくちびるを指でなぞる。
「それは訊かなくてもいいよ」
 目を伏せて許可する。仁の下くちびるを、陽介が食んでくる。朝の騒がしくなるときまで、抱きしめてくる彼の好きにさせようと、仁は腕をまわした。




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