* 水曜日【第2話】 *


 あの衝撃の余韻が、今も胸の中に強く熱く残っている。二回目の情事を境に、ふとした拍子にあの情景を思い出すようになり、夏紀を屋上へ導く原動力にもなった。らしくなく試しに、同週土曜日の放課後に一度、屋上へあがってみた。おそらく部屋の住人は社会人だろう。土日休みであれば、土曜日もなにかをしているかもしれないと思ったのだが……結果は予想に反していた。半刻眺めても、なにひとつ室内に変化は見られなかった。
 水曜日が公休の住人なのかもしれない。同曜日同時刻に二度もセックスが見られたということは、また同じ時間に行けばセックスを見せてくれる可能性がある。夏紀は探偵のような推測とともに、三度目の水曜日も同じ時刻、同じ場所へ身を置いた。
 想像していたとおり、三回目もベッドの上で劣情がもつれあっていた。
 しかし、残念なことにセックスをしていたのは、ひじょうにノーマルな男と女であった。顔ぶれは一回目と同じように見える。夏紀は目をすがめて眺め、そこから前週のセックスを思い返した。
 三回とも同じ顔をしている人間が一人だけいる。男同士のときにハメられていた男が、今は女の身体に絡んでいる。遠くから見ても、その裸体は女と同じくらい細身に見える。身長もそこまで高くないのだろう。髪は黒く、女性の扱いは慣れていて柔らかだ。
 おそらく、彼がこの家の持ち主なのだろう。
 一番はじめに見たときとあまり代わり映えのしないセックス内容に、先週のことが白昼夢だったのではないかと思ってしまうほどだった。細身の男は、とても自然に女と対面している。扱い方も悪くない。この様子から、彼が男だけを求めるゲイという人種ではないとわかる。しかし、それでも前週は男にハメられていたのだ。雄の身体も好きに違いない。
 男女のなんの変哲もない交わりにはすぐ飽きてしまったが、夏紀は結局最後まで鑑賞した。
 そして、あっさりした幕引きを眺めて我に返る。夏紀は無意識に心のフィルターで、女を扱う男をオンナの立場に転換して妄想していた。やはり前回見た男の痴態のほうが興味深くて忘れられない。正直な話、彼のほうが女よりも艶かしく腰を動かして、男に媚びるのが上手だった気がする。
 夏紀は毎週水曜日が待ち遠しくなった。おかげで女に面白みを感じなくなり、連絡や扱いも一転してぞんざいになった。リナとサユリとの破局にたいしたダメージがなかったのも、水曜日の男に心が傾いていたからに他ならない。
 いまだ名も知らない他人でありながら、これほどまでに興味を注がれる相手に出会ったのははじめてで、未来にワクワク感を抱くことも本当に久しかった。夏紀にとって、あの部屋にまつわるすべてが新鮮に映った。男同士のセックスに気持ち悪いと思わなかった自分のキャパシティーにも優越感をもった。
 そして四回目の情事が行なわれたのは先週のことである。当然のように夏紀は屋上へあがった。それこそ双眼鏡でも持っていこうかと考えたくらいだが、その姿が恰好悪いのと光の屈折で気づかれることを恐れて止めにした。まだいくらか理性が残っていたのだ。
 だが、室内の行為が露になると、双眼鏡を持ってこなかったことを本気で悔いた。屋上とマンションの距離がますますもどかしく、あの部屋の中にはいれない傍観者である自分にイライラした。しかも、そのときは少し様相が違っていたのだ。攻めている男がなにかの道具を持って細身の男を縛り悶えさせている。ヤラれている男は同じだが、ヤッている男は先々週に見た相手と違っていた。遠くから見ても、身体に大きなタトゥーがはいっているとわかる。
 夏紀は見知ったばかりの世界へ再び没頭した。細部は悔しいことに見えず、仕方なく喘ぐ彼の声や台詞、表情は妄想で補う。男の顔にタトゥーの男の下半身が押し付けられた。きっと美味しそうにしゃぶっているのだろう。
 長い情交の後、抱えられるように部屋の奥へ消えていった男たちを振り切るように、夏紀は階段を降りて終礼をやり過ごした。いてもたってもいられなくなって、友人たちとは挨拶もそこそこに学園を離れた。電車に乗ると胸に宿る蒼い熱は燃え盛った。良い女と出会ったときでも生まれなかった重い炎だ。
 夏紀は自室に行き着くと、久しく自分の右手を汚した。男の四つんばいになった身体に己をねじ込み突き上げる。抜いて挿されるたびに男の皮膚は快楽にわななき、きゅうきゅうと収縮する。アナルは女のものよりもきつくて締まりがいいとインターネット上で書かれていた。あの男の締まりも絶対にいいはずだ。腰だけを露に掲げ、夏紀を受け入れ喘ぐ姿を執拗に想像する。そして何度も精を吐いた。
 こんな気分になったのははじめてかもしれない。大体、男の身体を想像して自慰したこと自体がはじめてだったのだ。
 後悔はなかった。不思議な感覚に、名づける言葉が見当たらなかった。
 ……屋上を、涼しい風が緩く渡っていく。太陽がまだ翳る様子はない。
 もう一度時計を見た夏紀は、壁から背を離す。最上階の部屋には変化があった。夏紀は鉄柵に顔を近づけて様子を窺う。窓が開いていた。ただそれだけなのに、心臓が跳ねた。室内はそれ以外にまだなにも動く気配はない。子どものようにワクワクしながら、夏紀は熱心に頭を働かせて見つめた。
 今日は一人かもしれない。
 というより、あの男はおそらく一人であの部屋に住んでいる。
 そうでなければ、昼下がりの情事を毎週ほぼ決まった時刻にできるはずがないのだ。それに男を自宅へ連れ込んで堂々とセックスする男など、いくらリベラルな親でも認めるはずがない。
 夏紀のように母はおらず父親の存在すら希薄な家庭であっても、一応幼い弟が一人いて世話係と化した叔母が同居している。自室のドアを閉めて内鍵をかけてしまえばプライベートは保てるが、セックス目的で連れてこられるのは女だけだ。同性相手は勇気がない。
 とはいえ、そもそも男とセックスするという発想を今まで持ったことがなければ、自宅へ友人を招いたことすらないのだから、夏紀の考えにはいささか不毛な点があった。だが、不毛だとしても親と同居で、セックス目的の男を連れ込める男は正常ではない。しかも同性同士だ。
 開いた窓は沈黙し続けている。屋上にのぼってすでに三〇分が経過していた。
 夏紀は期待を捨てきれず男を目で探していた。すでにコトが終わって空気の入れ替えをしている、ということはないはずだ。ベッドの上も真っさらで静かである。もう四回も今の時間に同じような状況が起きているのだから、はじまるとしたらこれからだろう。それに、今日はないなんてありえない。あの家で習慣化しているはずなのだ。
 女、男、女、男。まるでトランプゲームのように続けられた情事からカードをはじけば、おそらく今日の相手は女だ。それは少し夏紀を落胆させるゲーム内容であったが、その顔ぶれには興味があった。相手となった男は二回とも別の人間だったが、女のほうは同じ髪型で同一人物の可能性が高い。
 あの男は、その女と付き合っているのかもしれない。女と付き合いながら男とセックスをする男の気持ちを考えると、まず背徳感が思い浮かんだ。普通の生活と普通の恋愛を当然のようにこなしながら、裏で世に背徳を犯し、雌の存在を否定する。たかがセックスひとつで功罪はあまりにも大きかった。だが、今の夏紀には妙に好ましさを覚える行為だ。
 部屋に、ようやく人があらわれた。
 登場した人間は長めの白いシャツを着ていた。黒髪、細い手足、肉付きの薄い身体。見間違えることもなく、毎度この屋上で夏紀に暗い悦びを与えてくれる男だ。彼はベッドになにかを置いて、また部屋の奥へ消えていく。
 期待に欲が少しずつ混ざりあう。夏紀は彼の姿を求めて鉄柵に手を這わせた。ボタンをぴったりあわせた白地のシャツの下が気になった。尻の下まで隠すほどのシャツの長さだが、脚はすべて肌色に見える。もしかしたら彼はシャツ以外なにも身につけていないのかもしれない。下半身は外気に晒されたままだろうか。それを確認したくて彼を待つ。
 すぐに彼は部屋へ戻ってきた。大きなバスタオルのようなものを、窓の手前、ベッド横のフローリングに広げて敷いていく。そして、先に持ってきていたものたちをベッドの上から床に移動した。開かれた窓のおかげで、夏紀からも床面がよく見える。バスタオルは海のように青く、対比した脚の白さが日光に照らされていた。彼はその平らな海の中で膝を折った。
 下を向いて見つめる細やかなものたちの色は、夏紀の遠い位置からでもカラフルに見えた。なにをするつもりなのか。彼が毎週見せてくれていたものは見紛うことなくセックスだ。しかし、今日は様子が違う。本当に一人のようだ。状況から察すると、なにかの儀式か瞑想をはじめるのか。
 夏紀は、あっ、と、声を洩らした。それと同時に、男は白い筒のようなものを手に取った。片手で蓋のようなものを開け、それを傾けた。
 彼が垂らした液体は、昼間の光にキラキラと反射した。手のひらで受け止めたそれを、いくつかの道具にゆっくり塗り込める。彼が手で扱っているどれもが性感グッズなのだ、と、遠目の夏紀でもすぐに理解できた。ドクンと、心臓が大きく胸を打った。
 性的な行為は、特別相手がいなくてもできる。彼の濡れた両手が一番上のボタンにかかる。きっちり留められていたシャツが上からひとつずつ開いていく。夏紀は評判の高いショーに招待された観客のように、心を浮かせてそれを見つめた。白い素肌が躊躇いもなく露になる。すべてのボタンが取れて晒される。やはり、彼は下着を身につけていなかった。
 膝立ちから緩く腰を落とし、俯いた頭の下で両手が動く。股の付け根にある茂みには向かわず、彼は真っ平らな胸元へ手を這わす。指が細かく動きはじめた。自分の乳首をあやしているのだとわかる仕草だ。即物的に陰茎をしごくよりも、そのゆったりした動作には夏紀に余所見をさせない卑猥さがあった。
 次はなにをするのだろう。どんな痴態を見せるのだろう。
 最近アダルト動画を眺めても露も湧いてこなかった性的な高揚感と太陽の熱が夏紀の肌を刺激した。その暑さに視線を動かさず、グレーのブレザーを脱ぐ。自慰のときに妄想した恥辱をすでに上回っている。実物に勝るものはない。彼の片方の手が、乳首から離れて下へ向かっている。男の象徴を撫でた後、茂みの奥へするりと入っていった。




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