* 水曜日【第4話】 *


 朝の光で目覚めてからも、昨夜の決めごとに迷いは生まれなかった。寝付けずにいた暗闇の中で考えたことは、熱に浮かされたような妄想やプランばかりで自分でも呆れたが、やりたいことの根本は変わらない。まずはあの男と接触する機会をつくらなければならなかった。
 ならば、どうやって彼を見つけるべきか。あまり寝ていない頭を枕につけたまま、もう一度考えはじめる。まだベッドから起き上がる気になれないが、一応学校に行こうとする気持ちはあった。とりあえず二時間目までの授業は、単位計算上サボっても問題ないし、あの男のせいで正直寝不足だ。それに、実行したいことととそつなくこなしたいプライドとの折衷案が見つからない。
 うつらうつらしながら考える。気づけば夏紀は二度寝していた。置き時計を確認すると、ちょうど一時間目がはじまる時刻だ。
 弟の母親代わりと化している叔母の麻奈美は、常によそよそしく振舞う夏紀を刺激しないように生活している。朝から晩まで彼女の側から干渉してくることはなく、寝坊だ遅刻だとうるさく起床を促しにくることもなかった。それは夏紀にとってありがたい賢明な態度であった。ものわかりの良い女性は嫌いではなく、むしろ叔母には父から夏紀をかばってくれる一面もある。夏紀も甥の立場を邪険にせず、気が向いたときは叔母の会話に付き合っていた。感情のまま反抗するのも恰好がつかないからだ。
 三時間目からは授業に出るつもりで支度を終え、一階に下りる。あまり叔母には会いたくないが、弟の明良と遭遇するよりましだった。麻奈美さんへ挨拶くらいはしてやろうか、と思ったわけだが、午前中の家はどこも静かだ。洗面所、リビングと用のあるところへ足を向けて、ようやく叔母がいないことに気づく。どこかへ買い物に出かけているのかもしれない。
 亡き母を恋しく思わせないよう、明良の世話をする独身の叔母は律儀なひとだ。夏紀たちの父親とは兄妹関係であるため、正直なところ叔母は亡き母より父親の扱いが上手だった。いつも息子と父親が静かな衝突をはじめる寸のところで二人の間にはいってくれる。元は亡き母の良き相談相手でもあった。今はこの家に居なくてはならない存在にもなっているが、……それでも、明良と違って夏紀の母代わりにはなれない。
 一人きりの広い自宅を、夏紀はやはり居心地がいいと思えないまま離れる。日差しの強くなった道で公にできない考えごとをしながら歩いていると、幼いときからよく知る近所の老婦人に声をかけられた。
「あらあ、夏紀くんじゃない」
 視線をあげて、夏紀は少しうんざりした。後五分遅く出ていれば、彼女と遭遇することはなかっただろう。昔から夏紀を見つけると声をかける年配女性である。考えごとは一時中断だ。
 レースの日傘に、日焼け防止用の帽子とウォーマーを身につけている彼女は、片腕に毛並みの良い小型犬を抱いていた。ローラとかいう名前だった気がしなくもない。犬の視線を感じつつ、夏紀は薄く息を吐いて足を止めた。どこかの社長の奥さんで、以前から夏紀は顔立ちが好みだとしつこく感想をつけられていた。年寄りに褒められてもあまり嬉しくない。しかし、ぞんざいにするわけにはいかなかった。
「どうも、お久しぶりです」
「お久しぶりね、これから学校? 今日は遅いのね。トクベツな日かしら?」
「まあ、はい。平松さんは散歩ですか?」
 高校生がうろついている時間ではないと、平松夫人が暗に主張した部分を当たり障りなく丁寧に問い返した。愛犬に注目したことは功を奏したようで、彼女はすぐ「そうなの、ローラちゃんもいい歳だからすぐバテちゃって、今ちょうど抱いて帰るところだったのよ」と、背の高い夏紀とペットを交互に見る。
「夏紀くん、また恰好よくなったんじゃない? もう受験生かしらね? 大変な時期よねえ。ローラを飼いはじめたときは、夏紀くんもまだ小学生で、私より背丈がないくらいだったのに。なんだか会うたびに背が伸びている気がするわあ」
「そうですか? 高二くらいであんまり伸びなくなった感じですけど」
「それでも、一七五はしっかりあるんでしょう? いいじゃないの、手足が長くっていいわよねえ。顔もいいし、……うちの息子も夏紀くんくらい爽やかな感じだったら、もっと手をかけたのに」
 夏紀くんはお母さん似よねえ、と、いつものようにおだてはじめる。夏紀が父似でないことは誰が見ても明らかだった。逆に弟の明良は見事な父親似で、父方の叔母と明良が一緒に歩いていれば「母親似の子ねえ」と、あたりまえのように間違えられた。
 似た顔立ちが家に三人居て、夏紀だけタイプが違う。亡き母の思い出がとても少ない明良は、夏紀の顔をじっと見る癖があった。兄の顔から、母親の面影を探しているのだろう。それが兄にとって一番の苦痛であった。
「そういえば麻奈美さん、さっき見かけたわよ。駅のほうで。お出かけみたいね。いい天気だものねえ。ほんと、これから日に焼ける季節の到来だわあ。なんとかならないものかしら。日焼け止めは毎日つけているけど限界もあるし、この子の散歩は毎日しなきゃならないんだもの」
 叔母の名前を出したと思えば、自分の話に戻っている。内容がとめどなく移り変わる女の会話に、夏紀は飽き飽きしていた。特に今はじっくり考えたいことがある。これ以上時間のロスはつくりたくない。
 夏紀は女性が喜ぶような爽やかな笑みをつくった。そして、言葉が途切れた瞬間に相づちを打った。
「そうですね。じゃあ、学校があるので」
「ああ、そうよね。気をつけて、いってらっしゃい。寄り道はダメよ」
 抱いている犬のことがあるのか、平松婦人はあっさり解放してくれた。夏紀は顔を駅のほうへ向きなおすと得意の笑みをすぐに捨てた。
  腕時計を見つつ下り坂を歩く。この時間帯に登校するのは久しぶりだ。とりあえず、散歩する年寄りがいる時間帯だと学んだ。次からはその前後三〇分の間で外へ出たほうがいいだろう。
 改札を抜け、やってきた電車に乗り込む。車内のゆったりした空き具合は、普段の登校時間より優雅でありがたかった。今日は学校に行くことよりも、あの男の住んでいる土地に行くという言い方のほうがしっくりくる。彼の痕跡を探すべく、校門までのルートは少し遠回りのものを選ぶことに決めた。
 押さえておくべきスポットもある。それは、男の住むマンションの向かい側にあるコンビニエンスストアだ。夏紀の学校から一番最寄りにある店で、駅前のコンビニエンスストアほどではないが、学生もそれなりに立ち寄っている。制服を着た夏紀がうろうろしていても怪しまれることはないし、マンションの向かいにあるのだから、単身者であるだろう男がよく活用している店だと算段していた。
 夏紀は停まった電車を降りて、階段を下った。改札口を離れて駅ロータリーを歩く。昨朝は付き合っていた女が待ち伏せしていた。今日はさすがにそうしたこともないようだ。仮にまた待ち伏せていたとして、夏紀は二度目の罵りを許すつもりはなかった。それにこれまで携帯電話に一通も謝罪がこなかったのだから、そのままにしておけば金輪際サユリと会うことはないだろう。もしかしたら夏紀の連絡を待っているのかもしれないが、今の夏紀に彼女への想いなど露のひとつも残っていなかった。
 あの男の生活圏はここに間違いない。そして、居住マンションからの行動範囲を憶測する。コンビニエンスストアと最寄り駅、スーパーとクリーニング屋と惣菜屋などの店、ファストフード、ファミリーレストラン。そのあたりが出没スポットだろうか。彼が車かバイクを持っていれば、より活動範囲は広がるかもしれないが、頻繁にそんなことをするようなタイプには思えなかった。近くには環状道路が都心に向けて通っているが、渋滞ばかりしている。通勤するにしても最寄り駅が徒歩一〇分ほどなのだから、電車のほうが勝手がよいはずである。勝手な憶測ばかりだが、夏紀の勘は比較的よくあたる。
 とりあえず、学校へ向かう前にさりげなくマンション周辺を散策してみた。当然ながら、栖鳳学園の制服を着た生徒がのんびり歩いていい時間帯ではなく、夏紀にチラチラと視線をあててくる通行人もいた。しかし、本人は一向に気にせず街路樹の通りを歩いた。今日は木曜日だ。男はおそらく水曜と日曜が公休であるはずだから、この近所に職場がないかぎり遭遇することはないだろう。
 腕時計の針をもう一度確認して、夏紀はマンションの向かい側にあたるコンビニエンスストアへはいった。ミネラルウォーターを一本購入する。ここはおそらく最も男が立ち寄るスポットだろう。夏紀もここを訪れたのははじめてではない。友人に付き合って何度か利用したことがある。偶然を装って探すことは容易い。あとはタイミングの問題だろう。そばの栖鳳学園に通って六年目になるのだから、すでにすれ違っていてもおかしくはない。
 そう考えると、早く手にしたいという子どもじみた気持ちがどくどくと湧いてくる。夏紀はそれをどうにか飲み込んでみせた。慌ててはいけない。男が向かいのマンションから引っ越すことは当分ないはずなのだ。夏紀自身も残り一年近くは栖鳳学園に通うわけだから、探す時間はまだたっぷりある。
 自室で一人悶々としていたときは、男の住むマンションの集合ポスト前に立って、部屋番号と苗字くらいは確認してやろうと意気込んでいたが、……いざそばに来ると、それを実行するのは恰好が悪いと思った。プライドが許さなかった。
 夏紀は自動ドアが開いたと同時に、道をはさんだマンションのエントランスを一瞥して通学路へ戻った。時刻は三時間目のはじまる八分前を示していた。そのまま、木曜日は静かに過ぎていった。
 平日は水曜日以外、夏紀にとってはなんの特徴もない日ばかりだ。弟と叔母が中心となって暮らす家は居心地が悪い。栖鳳学園では、中等部から高等部一年まで部活動に所属しなければならない校則があった。夏紀も例に洩れず、中等部時代をバスケットボール部で過ごした。はじめの三年間は帰宅が遅く、休日も部練や試合がはいった。実母を失ってからの夏紀にはそれがとても有り難かった。家にいなくてすむ正当な理由になったからだ。
 一転して、高等部にあがってから夏紀は生徒会にはいった。土日まで部活動をすることに父親が難色を示したせいもある。面倒な相手と波風を立てるほどバスケットが好きなわけではなかったし、生徒会は段取りされたとおりに運営するだけで、先輩との関係をこじらせなければ楽だった。
 次第に夏紀は学校中心の世界から、外の世界へ意識が向いた。たまたま生徒会の先輩で、妙にオトナの遊びを知っている人がいて仲良くなった。好奇心もあって、何度か学校外の面白いスポットに連れて行ってもらったのが、女遊びのはじまりだ。はじめは初心な雰囲気が抜けず、子ども扱いされることも多かったが、二年生になる頃には遊びのコツを覚えた。出会った年上の女たちの賜物であったかもしれない。
 二年生から部活や委員会の活動は任意となる。本人のやる気が尊重されるわけだが、律儀な生徒が多いのか、中高と同じ部活を続けていく割合が高い。その中で、夏紀は二年生の二学期からフリーの身となった。バスケをしていた同期から誘いは何度も受けたが、異性との遊び方を学んで、そちらに放課後の比重が向いた。
 品行方正な栖鳳学園の中で、夏紀の行動パターンはこの頃から飛躍的に異質なものとなった。中学生のときから秀才扱いでちやほやされていなければ、この悪習は教師たちに糾弾されていただろう。遅刻癖やサボり癖がはじまっても、成績には一切汚点がつかなかったのだから、大人たちは今も黙認している。
 繁華街に繰り出して遊ぶことは暇つぶしの域から離れなかったが、それはそれで楽しかった。しかし、少しずつ楽しみ方にも飽きがでてくる。三年生になって部活を引退する友人が増えてくると、夏紀も友人に付き合ってだらだら帰るという新たなパターンが追加された。その頃に、あの変態男のプレイに魅了されたのだ。繁華街に行く気力は奪われる。
 金曜日は友人に誘われて、久しく放課後を駅前のファストフードで潰した。中等部時代から親しい友人である柏木孝祐と守屋千早と、再来週に行なわれるテストやスポーツの話題で盛り上がった。
 普段の夏紀は、どうでもいいと思える話題のためにこんな安い店で長居をしない。しかし今回は、窓越しにあの男を見つけられるのではないかというわずかな期待から、日が暮れる頃まで雑談に付き合っていた。十八時を過ぎると、改札口から社会人が一斉に吐き出されていく。住宅地なので、駅に吸収されるより出てくる人のほうが多い。
 一面ガラス張りのカウンターから外界を見下ろす。この駅と周辺にたいして、これほど熱心に眺めたことなどあっただろうか。人を選別する夏紀の瞳には男ばかりが映っている。
 らちの明かない観察を続けながら、ふと隣で喋り続ける守屋が栖鳳学園から徒歩内に住んでいることを思い出した。管轄外である漫画の話をしている彼らが会話を一区切りさせるのを待って、夏紀はこのあたりの環境などをさりげなく訊いた。守屋から特に気の利いた回答は得られなかった。それもそうだ。あの男が住んでいなければ、ここはなんの変哲もない地域だ。友人が立ち上がったので、夏紀も帰宅することにした。
 公立校と違って、栖鳳学園は土曜日も授業がある。特に再来週は定期試験が行われる予定で、土曜日の今日はテスト準備期間の開始直前にあたっていた。テスト準備期間にはいると、部活動をしている生徒は放課後の活動が許されず、居残る理由は自主勉強以外に通用しなくなる。そのため、今日はいつもより遅くまで部活動に入れ込む生徒が多い。
 翌朝の駅前のコンビニエンスストアは、食堂が休みであることもあって、いつもに増して同じ制服たちが賑わっていた。その手前で、夏紀は友人の柏木に声をかけられた。昨日ファストフードで喋っていた一人だ。
「おはよっす。今日の放課後は残ってくれるんだよな?」
 念押すように柏木が訊いてきたのは、ファストフードで昨日約束していた、放課後に軽い勉強会をする件だ。
「ああ、そのつもりだよ」
 夏紀はすぐ答えた。
 いつもの夏紀は打診されたときにすぐ、別に予定がある、とかわす。しかし、今回はなんとなくオーケーしていた。午前までしか授業がない土曜日は、迷いなく即帰宅して私服に着替えてからまたどこかへ出かけるのがお決まりパターンにだが、最近はそうする気も起きない。
 久しぶりに友人と学校に残ることも楽しいかもしれない。そう考えた末の珍しい承諾に、付き合いが長い友人は「らしくない」と感じていたようだ。夏紀の意思を再確認して安心した柏木は、昼飯調達にコンビニへ寄りたい、と言った。二人で赴いてすぐ、レジの混み具合を見て彼はうんざりした表情になった。
「浅宮、どうする? 遠回りになるけど、あっちがいいよな」
 柏木が店内を外から覗いて夏紀を見る。
「こんな状況じゃ、食べ物もろくなのが残ってないだろうな」
 部活と学業をうまく両立する下級生たちは、いくら育ちが良い家庭の子といっても食欲旺盛で喧しい。そうした同性たちから常に一歩引いたところにいる夏紀にとって、後輩という生き物はそもそもあまり好かないものだった。
「だな。でも、あっち行って間に合うかなー」
 柏木の言う「あっち」は夏紀がここ数日注目しているコンビニエンスストアだ。今日も下校中に寄るつもりだったが、柏木から打診されるとは都合がいい。朝礼時間を気にする柏木を、同じクラスである夏紀は顎で引っ張った。
「問題ないだろ、あっちにしようぜ。少しくらい遅刻してもあの担任だし、一時間目はどうせ古文だろ」
「って、浅宮はいいんだよ。もう遅刻もサボりも先生に肯定されてんじゃん。でも、オレは突っ込まれるんだぞ」
「俺がフォローしてやるから」
「フォローになんねーよ。むしろ勉強フォローしてくれよ」
 そう言い返しながら、彼の脚は夏紀の願うとおりに動きはじめた。そこに、もうひとりの友人が横切るようにして二人を止めた。栖鳳学園から徒歩で通える守屋千早である。軽い勉強会をすると約束したメンバーの一員だ。
「おっす、おはよ。浅宮と柏木ってこれからコンビニ? あっちの使うかんじ?」
 ノリ良い話し方をする彼は、すでにビニール袋をひとつ提げていた。駅をはさんで向こう側に自宅がある彼は、通りがけのコンビニエンスストアに早くも寄ったのだろう。二人の頷きに、オレはもう買ったから、先行ってるぜ! と答えて去っていった。
「土曜も食堂やってりゃいいのになあ」
 以前の殺風景で鄙びた食堂だった頃は、土曜日も一応調理パン程度のものは売られていた。しかし人気がなかったせいで、新装してからは土曜日販売をやめている。
 歩きながらぼやく柏木に夏紀は同調できなかった。その言葉を丸呑みして、また土曜日販売を再開しても結局利用されないのがオチなのだ。いざなくなると、あった頃を偲ぶのが人間特有の身勝手さのひとつだ。
「じゃあ、今の食堂と前の食堂、どっちがいいんだよ」
「今のだろ、間違いなく!」
 即答した柏木に夏紀は苦笑した。しかし柏木は一度も学食を利用したことがない。母親のつくった弁当を持参しているのである。
「浅宮は食べられりゃどうでもいいって感じだもんな」
 一方、夏紀の顔を見た彼は呟きをよこした。夏紀が常に日替わり定食しか選ばないことを柏木はよく知っている。夏紀がコンビニ食より食堂を選んでいたのは、温かいもののほうがまだ食べがいがあるのと、登校時にコンビニエンスストアに寄るのが面倒という単純な理由からだ。
 以前より格段に居心地の良くなった食堂は、同時にどの生徒にとっても学校内で最も過ごしやすい自習室となったことは確かで、放課後になると席取り合戦が学年関係なく繰り広げられる。柏木はそれについて、いっそ学年ごとのテーブルをつくってほしい、無理ならせめて受験生は特別贔屓すべきだ、と、熱く話す。そうしている間に、夏紀が気に留めているコンビニエンスストアに着いた。
「なににすっかなあ」
 夏紀より少しだけ背の低い柏木が、そう言いながら一歩先に進んで自動ドアを開ける。学校に一番近くても、正門のある通りから少し逸れているために朝は学生があまりいない。食品棚には弁当やサンドウィッチなどがそれなりに残っている。土曜日は多くの企業が公休日となるから、店内は栖鳳学園の制服以外にラフな普段着の大人たちばかりだ。
 食べたいものが特にない夏紀は、弁当や惣菜よりも手軽な携帯栄養食を選ぶことにした。温度管理されている棚で頭を悩ませる柏木を置いて、お菓子やパンの棚に向かう。
 そこで、同じように携帯食品の黄色いパッケージを手にする男を見つけた。土曜日には珍しい背広姿だ。コーヒー缶を手にしているところを見ると、近くに職場がある人なのかもしれない。
 欲しいものがあって、夏紀は黒髪をした男の隣に行く。背は夏紀よりも低く、柏木と同じくらいだろう。若く見えるが背広に着させられている感はなく、二〇代後半あたりか。
 彼の前の棚には有名メーカーの固形携帯食品の他に、スティックバーが数種類陳列されていた。男がそれらの中からひとつを手に取る。その横で夏紀も手を伸ばした。背広の男がふと、背の高い高校生へ顔を向ける。夏紀も彼の動きにつられた。
 ピンッ、と、琴線に触れたような音が胸に響いた。
 夏紀は、アレ? と思いながら男の目を見つめた。それは一瞬のことだったが、長い時間のようにも感じられた。伏せた彼の瞳を合図に、夏紀はまた棚のほうへ顔を戻す。
「おい、浅宮決まった?」
 柏木が通路の横からひょっこり顔を出して訊いてくる。慌てて棚から買うものを掴んだ夏紀は友人を見た。柏木はすでに支払いを済ませているようだ。呆然としている時間はなく、レジへ直行する。
 途中、思い出したように店内を見回した。すでに背広姿はいなかった。
 会計額を見て、自分が見つめあった男と同じスティックバーも手にしていたことに気づいた。携帯食品が二種、レジ袋の中に入れられた。
「浅宮、なんかあったか? きょろきょろして」
 自動ドアから出ると柏木が不思議そうに問う。
「いや、知り合いがいた感じがしたんだけどな、違ってた」
 無理のある言葉を返すと、真に受けやすい友人は、「ああ、そういうのってあるある」と、簡単に相づちを打ってくれた。夏紀は柏木の軽い性格に少し感謝した。
 学校へ向かいながら、あの目に焼き付けられた背広姿を思い返す。
 自分より少し背の低い男、あの背広、黒髪。マンションの最上階にある角部屋に住んで、毎週夏紀に痴態を見せ付けてくる男。
 ……あの男。それが、彼のような気がした。それは、最も夏紀が手にしたくてたまらない男だ。
 今さっきのコンビニエンスストアで、自分の隣に立っていたのは、その男ではないだろうか。屋上から見る姿はいつも遠い。物理的な距離はいくら目を細めても変わらないのだから、詳細な顔立ちや身長はいまだよくわからないままだ。服装といっても全裸ばかりで、ちゃんと服を着た状態などほぼ見たことがなかった。
 第一、夏紀はあの男の普通の状態をまったく知らないのだ。変態男も外へ出れば普段どおりに生活しているはずなのだから、……異常なところばかり観賞していた夏紀には断定できるはずがなかった。一度でいいから、双眼鏡を持って窓の中の痴態を見るべきだったか。身体的特徴を細かく押さえておくべきだったか。
 証拠は少なく、実感は乏しい。しかし、夏紀は背広の男を見たときの、心の中が引っ張られるような強い感覚を信じたかった。
 この日の授業は窓の外を眺めている間に、四時間分の授業が過ぎていった。放課後、柏木が座席を確保してくれた軽い勉強会では、あの男のことを考えるよりも勉学を優先した。妙に気持ちに余裕が出てきたのだ。
 朝見た男が、夏紀の欲しい変態男だと仮定する。すると、あの男について考えるべき的は絞られる。
 あれが本人だとすれば、やはり一番会える確率の高いところはマンションの向かいにあるコンビニエンスストアだ。しかも、男が活用する時刻もわかった。背広ということは出勤日の可能性が高く、出勤前に立ち寄っていたのであれば、その行動は永らくパターン化されているはずである。通い詰めればまた会える可能性はゼロではない。
 これで無駄に周辺を散策したり、ああでもないこうでもないと悶々考えたりする必要がなくなった。物事を進展させてくれた柏木に感謝したくなって、彼が第二回の勉強会をしたいと頼んできたときには快く承諾した。
「浅宮、なんか企んでる? オレになんか頼みたいことあんの?」
 その珍しい爽やかな快諾に、頼んだ柏木のほうが不安げに訊いてくる。
「どっちかっていうと、いいことでもあったほうじゃねえの」
 一緒に居た守屋はノートを片付けながらそう言った。夏紀にとっては、両方とも正解といえる。週明けがとても楽しみになっていた。
 とはいえ、男と接触するのは容易なことではなかった。
 偶然の確率が幾分増しただけなので、夏紀が自発的に動いても収穫はない。休日をはさんだ月曜日と火曜日の朝は、背広姿の男を見かけることはなく空振りに終わった。コンビニエンスストアとマンションの間にある道に佇んでも、なにも起こりはしない。
 同じクラスで昼食をともにすることが多い守屋から「コンビニ飯にハマった?」と言われ、夏紀は我に返った。
 勘を頼りにせっせとコンビニエンスストアへ通って、俺は一体なにをしているのか。自分の行動がバカバカしくなった。男と会いたいがために、まるで自分らしくない無様なことをしている。誰にも悟られていない感情と行動を、夏紀は自ら恥じた。一度冷静になろうと思った。




... back