* 水曜日【第7話】 *


 試験直前にあたる土曜日の放課後勉強会は、前夜遅くにSNSでやり取りをして決めた突発的なものだった。翌々日に試験が迫った頃になると、さすがに自分のペースで勉強の確認をしたいという友人が多い。仲間を募ったところで、付き合いのノリがいい柏木と守屋くらいしか集まらず、例のごとく終礼後三人は食堂のテーブルを陣取った。
 今回の勉強に関していえば、夏紀自身に帰宅したくないという強い思惑が働いていた。それもあって夏紀が積極的に勉強会の開催を押したのだ。そのぶん、二人の不利益にならぬよう普段他言しない試験のヤマ勘を珍しく友人に披露しておおいに喜ばせた。実際に出題されるかわからないが、夏紀のヤマ勘の精度はかなり高い。
 雑談を控えて黙々と試験勉強をする二人の横で、夏紀は相も変わらず持参した問題集をこなしていた。柏木と守屋の前であれば試験勉強以外のことをしても、たとえそれが日本のトップ大学受験専門の問題集であっても、厭味や妬みは出てこない。爽やかそうに見えて内心何を考えているのかわからないと揶揄される浅宮夏紀に、無理のないかたちであわせてくれる二人だからこそ、夏紀も一緒にいて苦にはならないのだ。
 こうした友人が中学時代に見つからなかったら、今日までこの学校にはいなかったかもしれない。夏紀は時々そう思う。……いや、亡き母と二人三脚で受験して合格した名門の中高一貫校なのだからさすがに辞めはしないが、今まで以上に学校へ寄り付かなかっただろう。
 だが、今は永く学校に留まりたいという気持ちが彼に生まれている。それほど、志村則之という男の存在は夏紀の中で大きくなっていた。一方的な出会いではあったが、ここの校舎の屋上からすべてがはじまった。積み重なった偶然は夏紀にとって舞い落ちてきた幸運である。その運をひとつ残らずものにしたい。
 男子高校生ばかりが占める食堂であるが、生真面目な生徒が多いうえに試験直前も相まって異様なほど静かである。交わされる言葉も勉強に関するものしかない。数時間を経て完全下校の放送が響き渡ると、同じ制服たちは全員文句も言わず同じような音を立てて片付けに入った。ロッカールームに向かうときも、階段から降りてくる面々はいつもの下校時より少ない。試験準備期間中、食堂以外で公に自習が許される場所は図書室くらいなのである。
 外に出ると心地のいい風が頬に当たる。隣で柏木が嬉しそうに夏紀を見た。
「今日のヤマ、教えてくれてすげー助かった。これで点数に反映されれば、マジで浅宮様々だよな」
「少なくとも、英語のヤマが当たるだろ? それだけでも有り難いわ」
「なー。二年のときみたいにフランス語はないし。さすがに浅宮ですら、フランス語は苦戦してたよな?」
「まあ、英語より仕組みが複雑だから、試験前は多少勉強してたな。その点においては、三年になって楽になったか」
「待てよ、楽って! いやいや受験生ですけど今! これからなんですけど!」
 大学受験生活が楽だという秀才夏紀のずれた感覚に、制服のネクタイを取る守屋がかかさず突っ込みを入れる。しかし、受験で基本的に使わないフランス語を選択授業でわざわざ受けている守屋自身もかなり変わっている。
 彼いわく、大学の志望学科が仏文だからあえてフランス語を選択しているのだそうだ。これは真っ当な理由のようだが、高校三年の重要な時期に特別も学ばなくてもいい話である。本人としては、受験のモチベーションをあげるために必要な選択であって、勉強の邪魔にはなっていないらしい。メリットをあげるとすれば、定期テストがないことかな。守屋は前にそんな話をしていた。
「そういや、守屋は一科目テスト少ないんだよなあ」
 柏木も同じことを思い出したらしく、校門を通過しながらそう呟いた。今回の定期試験は三年で習っているメイン教科プラス選択科目の定期試験だから、生徒によって試験の科目数は変わる。夏紀からすれば、科目数がいくら増えようが減ろうが関係ない。選択科目の授業は無理に参加しなくてもいいとさえ思っているし、毎度律儀に出席しなくてもテストの点は取れる類をわざわざ事前に選択している。
「じゃ、オレとフランス語やるか?」
「やるかよ! オレは英語で限界だよ」
「そういや、浅宮の取ってる英作文の選択授業って、オレのフランス語みたいに提出物中心?」
「いや、テストだよ。時間内に、あるテーマについて書けって感じになるか」
「うわー、それもまた厳しいな。オレそれも取らなくてよかった! 入試にはいいだろうけどさ」
「まあ、フランス語より実用性はあるだろうな」
「おまえらバカにしてんのか! フランス語に謝れ!」
 試験直前だというのに賑やかな帰路につけるのも、柏木と守屋のいいところだ。成績第一の名門校であるせいか、ここ数日の校内はわずかに緊迫している。テスト前はどの教室もナーバスになっているうえ、夏紀たちは受験生だった。
 この学校に在するほぼすべての生徒が、疑問すら持たず大学受験というレールに乗る。高校三年生になると強制的に皆がライバルという状況下ともいえた。学校推薦を選ぶ生徒はその枠に選ばれるよう毎度定期テストに命を懸けているし、今回の試験を足がかりに受験勉強へ本格的にシフトする者もいる。
 一方で、柏木と守屋はいまだ勉強に勢いがつかない。真面目だがのん気な二人だった。特に今日は夏紀という頼もしい同級生のアドバイザーがいたせいか、二人とも満足した表情だ。
 夏至前の空は五時をすぎてもまだ明るかった。夏紀は残念ながら柏木や守屋のように悠長に帰宅できない身の上だ。このまま真っ直ぐ帰宅すれば、父親と遭遇して付き合いのパーティーに引きずり出される可能性は高い。それも実はすでに一度経験済なのだ。逃げるならば徹底するにかぎる。
 さりげなく駅前のコンビニエンスストアへ二人を誘導した夏紀は、飲食物を買い食いしながらの立ち話に付き合った。時間つぶしに健全な高校生ライフを楽しんだ後は、徒歩圏内に住む守屋と改札の前で別れ、柏木とはホーム上で挨拶を交わした。家とは反対側の都心に向かう電車に乗り込む。
 揺られる車内で、一人きりになった夏紀は考えた。繁華街に向かって、店が閉店する時間まで明良の誕生日プレゼント探しをするという案も悪くない。しかし、二駅分を過ぎて考えを改め、三つ目の駅で降りることにした。はじめて降りた駅だが、改札から出ることなく線路の反対側にあるホームへ移る。着た電車に躊躇いもせずまた乗った。
 これは、絶好の機会ではないだろうか。
 高揚しはじめた胸中に、肯定的な言葉を送る。
 あのマンションへ行く。あの男と会う。決行するならば、今日だ。
 うっすら空が夜の気配をかもしだす。叔母に帰宅が遅くなる旨を連絡すれば、志村則之が住む駅に着いた。夏紀は新鮮な気持ちでホームを降りて、改札口を目指した。つい三十分前に柏木と別れた場所とは思えない。不思議と自分の通う高校がある駅だとも感じなかった。この駅がリニューアル改装された心地というより、夏紀自身が新しい者に生まれ変わったような心持ちだ。
 向かうべき方角は決まっていた。夏紀の脚は、志村の住むマンションへ迷いなく歩いていく。
 彼に免許証を渡さなければならないのだ。そのために、わざわざ自分はこの駅まで引き返してきた。こうした口実は大切だった。
 土曜日の暮れようとする時刻に、同じ制服を着た学生は歩いていない。教員たちが帰宅していくような時間帯である。制服のままでいる夏紀も栖鳳学園の肩書きから逃れたいと思いはあったが、ここからまた自宅に帰って着替えなおすわけにもいかず、店でわざわざ服を調達する気力も起きなかった。制服なのは仕方ないし、さほどデメリットにはならないはずだ。もしかしたら、制服を着ているほうが都合良いかもしれない。
 コンビニエンスストアには寄らず、想いのままマンションを目指す。変態男が住む場所だと知ってから、これまで何度も侵入するか否か考えたものだ。男の家に行く正当な理由づくりに一夜を割いたこともある。免許証が手に入ってから、そうしたことがなくなって本当に楽になった。彼の免許証は夏紀にとって通行手形と同じだ。あとは決行するタイミングをはかるだけだった。
 エントランスへ躊躇わず堂々と入る。うまくいきますように。そう子どものような無邪気さで願いながら、奥にある集合ボックスの前に立ち止まると男の名前を探した。
 部屋番号は五〇六。「志村」と表記されたポストを見つける。住所、という色もかたちもない記号が一気に現実のものとなった。夏紀は嬉しくなった。
 エレベーターは地上階で静かに夏紀を待っていた。それを使って、臆することなく五階へ上昇する。今は人気のない時間帯なのか、踏み入れた共有部分に住人の気配はない。電灯のついた五階の廊下を渡り、一番奥にある部屋の前に着く。ドアの右上を見る。「志村」という表札を確認して、インターホンを押した。
 ……反応はなかった。
 廊下から見える空の色を確かめて、夏紀は腕時計を見た。今日は土曜日。公休の会社が多い。しかし先週背広で遭遇したことも考慮すると、彼は土曜日も勤めている可能性は高い。
 勤め先にもよるが、定時あがりならばそろそろ帰宅できる頃だろう。世間のホワイトカラーを参考に算段する。しかし、正式な終業時刻は何時なのか。そもそもこのご時世で、難なく定時で帰宅できるような会社に勤めているのだろうか。
 細かい部分までは考えたところで、答えは出ない。志村の行動など把握できる立場にいないのだ。直接会ったのも二度だけ、しかも声を聞いたのはただの一度きりである。SNSのIDもメールアドレスも電話番号も知るわけがない。彼が在宅していないのであれば、夏紀は待つしかなかった。
 こんなふうに宛もなく待ちぼうけするのは、はじめてのことだった。彼が帰宅するまでの、先行き不透明な途方もない暇を抱えて廊下から見下ろす。志村とはじめて顔をあわせたコンビニエンスストアを見つけた。
 一度下に行ってコンビニでも寄るか。そう考えたが、その間に志村が帰宅してしまうのは嫌だと思いなおした。土曜日でもあるから、往来の夏紀のように一瞬だけ帰宅してまた出かけてしまうかもしれない。そうなるとわざわざここまで出向いたことが無駄になる。仕掛けたからには収穫が欲しい。確実に志村と接触したい。
 ……とはいえ、逆に翌日が休みであれば仕事帰りにどこかへ寄って遅くなる、ということもあるのではないか。そう考えた夏紀はうんざりした。
 やはり、一方的に待つのは無謀なのかもしれない。しかし、彼と接触するタイミングをはかっている間にも、免許証の効力は薄まっていく。やると決めたときにやるしかない。今日は不思議とうまくいくような気がするのだ。元々アタリがいい勘も、やるなら今日だと訴えている。
 自分を正当化する方法を夏紀がいろいろと考えていれば、電灯が明るく映えてきた。夕暮れが深まり、外を眺める夏紀は物音に気づいて横に顔を向けた。奥に見えるエレベーターのそばで私服の女性が一人、夏紀へ視線を投げている。手には大きく膨らんだエコバッグのような袋。スーパー帰りだったのかもしれない。彼女は夏紀を明らかに住人ではないと判断したようだが、何事もないように背を向けて、ドアへ着くと自分の部屋へ入っていった。
 それを見届けた夏紀は視線を外に戻した。待ち人ではなかった落胆が先にきたが、怪しい男に思われなかった安心感のほうが増した。怪しまれなかったのは、そばにある学校の制服を着ているからに違いない。このマンションに住んでいる住人であれば、目の前にある栖鳳学園の制服くらいよくご存知のはずだ。
 暗くなっていく風情に飽きた夏紀は、スマートフォンを取り出して意味もなくネットサーフィンをはじめた。先月に比べて学校外の付き合いが極端に悪くなった彼へ送られてくる連絡は少ない。余計なコミュニケーションが求められるアプリに興味はないし、バーチャル上でもつながりたいとしつこく勧誘してくる友人や知り合いは多いが、持ち前の話術で上手に回避している。
 ウェザーニュースを見ながらスクロールを動かしていけば、ほんの数時間前まで一緒にいた柏木から通知が届いた。気の知れた友人のものなら、夏紀もすぐに開封する。本文には、今日のこととテストのことについての礼が書かれていた。マメな友人だ。レスしようかと指を浮かせていたが、作成画面を開く前に足音に気づいた。
 タン、タン、と、妙に響くのは革靴だからだろう。近づく人を確認すると、夏紀はもたれていた壁から身を離した。暇つぶしの道具もポケットに入れる。
 スーツ姿の男は、自宅前に居る男子高校生に気づいていた。近づく彼は不思議そうな顔をしている。間違いなく志村則之、本人だ。相手は夏紀の容貌を見てもピンとこないようで、それは仕方がないことだといえた。彼からすれば、二度しか会ったことはない夏紀は他人同然だ。
 会社勤めらしい服装からでも華奢な体格がわかる。やはり何度も感じていたように、志村は夏紀より背が低い。証明写真にあったやぼったさはなく少し年齢より若く見える。それでも、スーツに着せられている感はない。ちょっと猫背だ。
 顔の造作は、実物のほうが数倍良かった。薄い顔立ちだが軽薄そうではない。どちらかというと、お年寄りに声をかけられそうな柔和さがある。その見た目で判断するかぎり、「変態」という言葉は地の果てくらい遠かった。
 散々妄想した相手が目の前にやってくる。その感動を押し留め、夏紀は高校生らしい緩慢な礼儀正しさで廊下の真ん中に立った。志村も、正面を向いた高校生は自分に用がある、とわかっていたようだ。玄関ドアへ直接脚を向けず、律儀に夏紀の前で立ち止まった。
「あの、僕に用ですか?」
 明らかに年下とわかる相手に敬語を使った。その第一声から、夏紀は好ましく感じて微笑んだ。
「突然すいません。志村則之さんですよね?」
「はい、そうですけど」
 不思議そうな表情で、志村は夏紀の問いに答えた。頭の中で夏紀を思い出そうとしているのが窺えるものの、彼には夏紀の情報が皆無に等しい。だからこそ学生らしい明るい声色で続けた。
「落し物を拾ったので、渡そうと思って」
「……落し物?」
 高校生の台詞に、まったく覚えがない様子である。なにを落としたのか、いつの話か、警察に届けたものなどあっただろうか? いろんなことが脳裏に浮かんだ末に復唱したのかもしれない。
 夏紀は、もったいぶらず答えを見せた。これです、と言いながら財布からカードを引き抜く。何度も何度もお世話になった、志村の免許証だ。
 表面を見せると、彼は「あ、」と、ちいさく声を発して、慌てたように胸ポケットから黒く長いものを取り出した。長財布である。すぐに開いてカードの並びを確認すると、夏紀へ顔を上げた。
「本当だ。なくなってる」
「この前、そこのコンビニで落ちているのを見つけたんです。そのときは俺も学校があって、まあ、警察に届けてもよかったんですけど、これに住所も名前も書いてあるし写真で落とした人の顔もわかるから、それなら直接会ったほうが早いだろうと思って、……学校からすぐのところだったんで」
 つらつらとここへ来た理由も話すと、志村はそれを全部鵜呑みにしたようで、申し訳ないような嬉しいような表情を向けた。まったく人の良さそうな雰囲気だ。夏紀は親切に免許証を差し出した。彼はそれを夏紀がどんな風に使っていたかひとつも知らずに快く受け取った。  志村は、目の前の高校生が彼のなにを見て、なにを考えているのか、この時点でなにもわかっていなかった。それは夏紀にとって、とてもありがたいことだ。偽善は、相手にそう感じられないかぎりただの善である。
「ありがとうございます、助かりました。かなり待っててくれたんですか?」
 感謝が丁寧な言葉遣いから伝わる。とても好感触で、夏紀の思った以上に良い感じのひとだった。しかし、ひとたび家の中に入れば男色家で露出好きの変態だということはわかっている。
 実行したいことはブレていない。逆に彼を欲しくなる要素がこの短時間でますます積み上がっていくようだ。夏紀は感情と理性を拮抗させつつ、なんでもないような顔で答えた。
「いや、まあ、二時間くらいですかね」
「そんなに? すいません、ご親切に、こんなもののために時間を割かせてしまって」
「今日はちょうど余裕があったんです。無事会えたんで、よかったです」
 気にしないでほしいという素振りを笑みに付け加える。夏紀は自分が他者からどうやって見られているのか知っていた。鋭い眼光を見せなければ、爽やかな高校生でいられる。
「こちらこそ本当に。でも、わざわざこんな、悪いことさせちゃったな」
 免許証を財布に戻した彼は、それがすべて夏紀の悪行であったと微塵も疑わない。しかし善意を装ってカードを渡した今こそ、夏紀はより踏み込んだ展開をつくらなければならなかった。
 目の前に志村がいる。欲しいものがいる。そして、すぐそばには変態行為が繰り広げられた彼の家がある。
「あの、うちで飲み物でも飲んでいきます?」
 理想的な言葉が聞こえてきた。夏紀は一瞬、願望が幻聴になって都合よく聞こえてきたのかと思った。そんなはずはない。すぐに本人を見つめた。
 目の前に志村則之がいる。彼は穏やかな表情で夏紀を見ている。
 それは疑いようもなく、志村から放たれた夏紀を誘う台詞だった。夏紀の善意に応えた、単なる彼の善意だった。舞い込んできた新たな幸運に、驚いたまま無意識の内に夏紀は即答していた。




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