* 水曜日【第14話】 *


 君津美加子。

 この名前があらわれたとき、スマートフォンを持つ手はふるえた。
 本当は、こんな品のないことをするのは嫌いだ。浮気や遊びを疑って携帯電話を見る女や男を、夏紀はずっと軽蔑していた。品がない。育ちが悪い。そう、心の中で罵っていた。
 ……だが、則之のスマートフォンを盗み見することに罪悪は感じなかった。
 俺にはそれを見る権利がある、とさえ夏紀は思い至って彼のスマートフォンを探した。則之の動向を知るのに、あの端末はうってつけだ。この家でしか則之と接しない夏紀は、彼の交友関係をほとんど知らない。カノジョがいて、セックスフレンドのような男が二人いるとわかっている程度だ。
 則之はカノジョと別れていないだろう。そう思えば、形容しがたいものが理性を揺さぶった。夏紀はこの一ヶ月半近く、連日のように則之へコンタクトをとっている。そうした彼の様子を見れば、女と会っている形跡はなきに等しい。
 しかし、今の世の中は直接会う以外に愛を育む方法がいくらでもあった。カノジョだけでなく、則之を抱く男たちもすべて則之のスマートフォンでつながっていると考えれば、夏紀はその中身を見るしかなかった。
 毎度のごとく、叩き込むようなセックスに根負けて意識をなくした則之を確認すると、夏紀はリビングにある彼の鞄を探った。日ごろ彼を観察しているだけあって、物がある場所はなんとなくわかる。案の定スマートフォンは鞄に入ったままだった。取り上げて電源をつける。
 則之が目覚めるまでの不安定な時間の中で、素早く欲しい情報を収集する。はじめて操作する機種だが扱いは難しくない。画面をスライドさせると、ロックを解除しなければならないことがわかる。
 四桁の暗証コード。単純思考で則之の誕生日を入力してみるが、やはりはずれた。夏紀は次のナンバーを真剣に考えなければならなくなった。悩んだ挙句、もうひとつ自分本位で決めた数字を入力する。
 まさか、と思ったが、液晶画面は呆気なくロック解除の表示へ切り替わった。画面は夏紀の指にあわせて自由に動きはじめる。パスワードはこのマンションの住所だった。番地が四桁だったことを覚えていた自身の暗記力と推理力を褒め称えたい。それ同時に、則之の考え方と似通った部分があるのに少し驚いた。夏紀の暗証ナンバーの決め方と同一だったのだ。
 様々に思いをめぐらせながら、スムーズに指を動かす。夏紀は着信履歴を見るより先に、SNS一覧を開いた。
 そこであらわれた君津美加子。女の名前は数名分あったが、君津美加子は見た瞬間に直感が働いた。夏紀はスクロールして一様に目を通す。
 そして、すべての動きを止めた。
 この名前が則之のカノジョだとすぐ気づいたのは、最初に目の入ったデートという文字。やり取りされている分量は夏紀よりも格段に長く、本文内容をスクロールするほど彼女が則之の恋人である決定的となる。
 最新の既読は今朝届けられたばかりだ。もう一度読み直せば、朝の挨拶とともに、会う余裕がなくて寂しいことと今度のデートが楽しみだという絵文字と羅列。血が逆流するのを感じた。
 ……今度のデートとは、いつのことだ?
 急ぐ心に沿ってふるえる親指が動く。やり取りを遡って、デートは来週の木曜日だとわかる。本来ならば則之の出勤日だ。彼はこの女と会うために、わざわざ有給を取ったらしい。午前中から会う予定で、美加子は「なにか食べたいのがあったら、会う前の日までにリクエストちょーだい! ノリくんの好きなものつくりたいから」と、女らしいかわいいイラストを躍らせてきている。夏紀の怒りは募った。
 料理づくりならば、小学生のときから半ば趣味のようにやってきた自分のほうが上手いに決まっている。亡き母とのコミュニケーションツールでもあって、彼女から料理のイロハは叩き込まれているのだ。イライラが募る。文面も態度も夏紀相手と大きな差があった。扱いの違いは残酷さを際立たせた。
 彼らが会っていなかった理由は、不仲になっているからでもなく、倦怠期に突入しているわけでもないらしい。この一ヶ月ほど美加子のほうが仕事に追われて忙しく、デートする余裕がなかっただけだったようだ。七月には彼女の携わるプロジェクトが一段落するという。だから、夏はいっぱい一緒にいようね……というのが、美加子の魂胆らしい。
 この女に会わせたくない。
 いっそ則之のスマートフォンをぶっ壊したい衝動に駆られたが、それではあまりに品がないので耐えた。
 君津美加子は完全に夏紀の敵だった。ぐちゃぐちゃした感情が増幅していく。名づけるとすれば、それは怒りとしかいいようがない。許せない。メールを掘り下げれば掘り下げるほど腹が立つ。夏紀は理性を酷使して必要な情報だけを拾い、目に焼き付けた。
 まずは美加子のSNSのID、ついでに電話番号を暗記する。一度読めば記憶に残るハイスペックな脳はこうしたところで活用される。
 欲しい情報を仕入れた後、則之のスマートフォンを電源オフにして元の位置へ入れ直す。夏紀はすぐに自分の通学バッグから同じものを取り出し、美加子の情報をメモした。これで脅迫材料がまた増えた。
 則之の携帯端末を見たのは正解だった。一番欲しい情報を得て、女の名前も君津美加子だとわかった。個人情報も入手した。
 だが、そのぶん、夏紀は一等最悪な気分を抱えることにもなった。プレイルームへ戻ると、則之がなにも知らずベッドの上で眠っている。夏紀の怒りと鬱積を理解せず、心地良さそうにすら見える彼の寝顔。それを眺めて、湧き起こった衝動は夏紀の理性を飲み込んだ。
 ……許せない。俺にこんな想いをさせるこの変態男が許せない。
 夏紀は則之を無理やり起こして、衝動のまま肢体を陵辱した。一度慣らしている則之の身体は激しい目覚めに狼狽する。しかし痛がる声に反して、柔らかく夏紀の衝動を受け止めた。それがまた虚しくて腹立たしかった。
 この忌々しい感情は則之から身を離しても持続した。どれだけ彼と情交を重ねても、忘れようと努めても、イライラする感情は止んでくれない。寝ているときすら、夢の中で自分の醜い感情に出会う。そして、イライラしながら目覚めるのだ。
 渦巻く胸の内に引きずられながら学校へ行くと、普段は軽いノリで接してくれる柏木から「進路のことでなにかあった?」と、真剣な顔で問われた。機嫌が悪いのが明らかにわかる表情をしていたらしい。どおりで弟にも不安そうな瞳でじっと見られたわけだ。
 解消したい喧しい感情。……それとともに渇望するなにかがある。
 周囲の反応から自分を冷静に見つめなおした夏紀は、そう気づいた。美加子のことを知って数日後のことだ。でも求めるものが「なにか」はわからない。
 それからは、大人しく則之と接するようになった。とりあえず、彼に不審がられてはまずい。いつものようにアポイントを取り、則之の家で帰宅を待って性欲を解放する。そうして夏紀は則之と美加子が会う日を待ちわびた。
 七月に入ったはじめの木曜日は、梅雨らしい天気だった。
 夏紀は傘を閉じるとマンションのエントランスをくぐった。美加子のほうから、ノリくんの家に行くという申し出があり、待ち合わせは則之の家で一〇時。夏紀にとっては大変有り難い申し出だった。邪魔をするのも簡単だ。学校の登校時間とかぶっていないこともあって、夏紀は意気揚々とクローゼットを空けて服を選んだ。サボりとバレず自宅を出るのは容易である。傘が必要な小雨も人の視線も気にならなかった。
 栖鳳学園の最寄り駅から歩いて、九時四十五分。エレベーターで五階へ上がる。もしかしたら、美加子は待ち合わせ時刻より早く訪れているかもしれない。恋人の会いたい気持ちを仕事のせいで我慢しなければならなかったのだ。ようやく訪れたこの日を彼女も待ちわびていただろう。
 しかし、彼女が仕事に集中していた約一ヶ月の間に、彼氏は夏紀の性処理係となっていた。二人を脅す材料を夏紀はたくさん持っている。美加子に負ける気がしないし、おそらくあの女はまだ則之の残念な性癖を知らないだろう。則之自身も彼女に知られたくないはずだ。
 二人がセットでいるところを爽やかに邪魔をする。それが、本日の夏紀第一の目的である。
 ベルト通しにひっかけたキーチェーンの合鍵は使わず、志村家のインターホンを押した。すぐにドアを開けた則之は、夏紀の顔を見た瞬間に驚愕の表情を浮かべた。私服なのは一目でわかったようで、すぐ確信的犯行だと気づいたらしい。
「帰れ」
 咄嗟に出した彼の言葉が幼稚すぎて、夏紀は楽しくなった。閉じようとする扉を力ずくで引き開ける。どのみち、美加子もこの扉からしか中へ入れないのだ。三人が鉢合わせするのは避けられない。
「まだカノジョは来てないんですか?」
 平静を装って言ったつもりだったが、声は嬉々としていた。
「ケータイを見たのか。……最低だな」
 則之はこの仕打ちにも、声を荒げて怒鳴ることはしない。波風を立てるのを好まない性格なのだ。ただ怒りはあるらしく眉をぎゅっと寄せ、冷たい眼で吐き捨てるようにそう言った。夏紀は彼の機嫌悪さに一層気分がよくなった。
 則之も美加子と会う瞬間を心待ちにしていたのだろう。玄関を開けたのも早かったし、ドアから覗いた顔は明るかった。それが夏紀を見た瞬間に顔色が変わったのだ。楽しい期待を一気に突き落とせたのは、素直に嬉しい。
 ピンポーン、と、大きな音がすぐ玄関に鳴り響いた。止めようと腕を掴んできた則之の手を振り払って、夏紀がドアを開けた。
「おはよう、ノリく……ん……?」
 パステルカラーの傘を手に持つ、小柄な女性があらわれた。明るい表情から戸惑ったものに変わっている。彼氏が出てくると思えば、見知らぬ若い男が登場したのだ。彼女の目は素早く表札へ向いて戻った。部屋番号を間違えたのかも、とでも思ったような素振りだ。
「志村さんの家であってますよ。おはようございます、美加子さん」
 女好みの爽やかな笑顔を見せた夏紀に、美加子は瞬きをした。
 不審がるというより不思議がるという表情だ。夏紀は自分の容姿に自信があった。彼女の細かい異性の好みまでは知らないが、とりあえずどの女も背が高くて恰好いいと褒めてくれるプロポーションである。なんでノリくんの家に別の人がいるの? より先に、この人カッコよくない? と思ってくれればしめたものだ。
「美加子、」
 則之の声に、美加子は彼氏が夏紀の後ろにいると気づいたらしい。
「ノリくん、これ、どういう」
「すいません、美加子さん。今日はどうしても外せない急用ができて、この後すぐ則之さんと出かけなきゃならなくなったんですよ。急な仕事なので、」
「ちが」
「興味があれば、後で映像とかいろいろお送りますよ」
 二人の語尾を潰しながら、夏紀が美加子に申し訳ないような媚びるような表情を向ける。則之は「映像」という言葉に一瞬にして黙りこくった。夏紀の脅しが後ろへ明確に届いたようだ。
 美加子は困った顔で則之を奥に探す。夏紀は少し身体をずらした。細身の彼氏があらわれる。
 後は、則之の発言次第だ。
「ノリくん、」
「美加ちゃん。……ごめん」
 かわいそうな恋人同士のやり取りを見て、夏紀は笑顔になった。しかし、すぐ表情をキリッと戻して二人の間に入る。
「もう、すぐに出なきゃならないので、詳しくは後で。今日は楽しみにしていたところをごめんなさい、美加子さん」
 うじうじと会話が続くのは面倒だ。彼らが夏紀を責め立てる前に、当たり障りなく簡潔に会話をまとめあげてさっさと扉を閉じた。美加子は納得いかないような表情をしていたが、急な仕事という単語と彼氏からの謝りの言葉は効いたらしい。食い下がることはなく、彼女はドアの外へ姿を消えてくれた。その隔たりに鍵をかける。
 敵を追い出した夏紀は、満足感とともに振り向く。
 その瞬間、上半身へ強い衝撃が走った。ドン、と、背が玄関ドアに当たる。細い則之の腕が夏紀の胸元を強く強く押していた。顔の造作はとても柔和なのに、彼は怒りの形相をしている。そのギャップがたまらない。
 夏紀の気分は則之のそれと正反対だった。彼に殴られたところでちっとも痛くないだろう。合気道の有段者である夏紀は、則之を取り押さえることくらいわけないのだ。
「あんな女いらないだろ。早く別れろよ」
 緊迫した体勢をつくられても、悪びれることはなく夏紀が言った。彼の細い腕を掴んで薄い笑みを浮かべる。身体能力の差は、肌を幾度も重ねていることで則之もよくわかっているようだ。力を加えず、忌々しく言葉を返した。
「勝手なことを言わないでくれないか」
「どう考えても、あんたに女は似合わないよ。男のほうが好きなんだろ」
「女性も好きだ。男にはないものがある」
 力で勝てないからこそはじめたような言葉の応酬。則之は一切怯まなかった。きつくにらみながらも罵声を上げることなく冷静に答える。夏紀にとって、それが少しやっかいだと思うところだ。負けないように口許を上げた。
「その男にしかないモン咥えて、ケツの穴に突っ込まれて悦んでる変態じゃなかったか、あんたは」
 煽るような言い方をする。すると、意外にも則之は夏紀から手を放した。近かった顔が離れていく。それが嫌で、つい彼の腕を引き止めてしまった。
 掴んできた夏紀の腕を振り切る気力もないように、則之はため息をついた。顔から怒りが消えていた。
「……普通に生きようとしている人間の気持ちなんて、きみにはわからないんだろうな」
 独り言のような呟きに、夏紀は眉を寄せた。則之の言葉から、苛立つものが生まれる。
「普通ってなんだよ」
 普通とか普通じゃないとか、今さらこの男はなにを言っているのか。そんなことはどうでもいいのだ。夏紀と則之がいて、それ以外は隙間なく誰も入り込む余地もなく、ただ気持ちよく欲望をつないで満たしていければいい。そもそも変態の男色家が無理に「普通」を演じること事態、滑稽なのだ。
 くだらない。そう、一蹴しようと則之の顔を見た。
「きみはノンケだ」
 その彼は真っ直ぐに夏紀を見て、こう言った。当然のような口ぶりから、夏紀の暗い感情はあっけなく沸点に到達した。掴んでいる腕を折れんばかりに強く握る。靴を投げるように脱ぎ捨てると、激昂した勢いのまま則之を引っ張って廊下を歩いた。
 ふざけんな。
 俺は男でもイケる。
 このド変態とやりあえる。
 こんな淫乱男を満足させるテクもある。
 一ヶ月半めいっぱいに詰め込んだ情事の色彩が、脳裏を駆け巡った。散々あんなセックスをしていたというのに、則之はなにをふざけたことを言っているのか。夏紀の気持ちをわからず、勝手に「普通」とか「ノンケ」とかいうくくりでおさめようとする彼が憎い。
 いつものベッドへ突き飛ばす。無理やり服を脱がすと、生地が破けるような音がした。珍しく則之は抵抗してくる。しかし組み敷いて腕を縛れば、その後の手順は容易に進むのだ。現に則之は夏紀の技法から快楽を得ているし、陰茎のかたちの良さも知っている。下の穴に男根を突っ込めば後は無意識に腰が動き出すだろう。
「待っ、やめ……ッ、うっ!」
 中途半端に脱がされた下肢へ躊躇いなく指を埋める。濡れていないそこは入れはじめから緊張していた。
 弱い皮膚を数度流血してからというもの、則之は夏紀に局部まで晒されると大人しくなる。手早くローションを取って、夏紀は彼の中をほぐした。則之の性器を撫でながら、苛立つ自身を濡れた穴へ押し込む。彼を穿つ準備の間に期待感で勃起してしまうのも、卑猥な則之の身体の仕業だ。
「ノンケは、こんなことできませんよね?」
「ぅ、う……んっ」
 返答なのか詰め込まれて声帯がふるえたのかわからない。則之がシーツを握り締める。身体にめぐりはじめた快楽と理性が戦いはじめているようだった。夏紀は彼の内側に存在する性感帯を律動で刺激する。則之の理性が勝ったことは一度としてなかった。
「あッ、ん! あ、はっ……っ、あっ」
「突かれてヨガるそのクチで、よく普通なんて言葉がでてくるよな」
 蔑むように汗の滲み出した白い背中を見つめる。性欲と怒りが膠着した中で嗜虐心が育つ。尻を何度も強く叩けば、痛む反動か性器を頬張る穴はきゅっと締まった。
「や、あ、あ、い、ぁあ!」
 夏紀は彼の身体を乱暴に扱う。抜き差しという簡単な動きだけで肉の味を染み込ませる。一方的なセックスを終えると、則之は白いシーツに崩れ落ちた。




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