* 水曜日【第16話】 *


 半袖のインナーとスウェットに着替えた則之がリビングへ入ってくる。夏紀が顔を上げると、彼は疲れ切った表情をしていた。完全な諦め顔といってもいい。タオルを持ったまま、ソファーに座る夏紀の前へ物怖じせず立ち止まった。
「未来がある、きみが羨ましい」
 則之が見下ろして言った。その彼の瞳は虚ろというよりも絶望に近い色を放っている。なぜそんな表情を向けられなければならないのか。そんな言い草をされなければならないのか。腹が立った。
「……どこがだよ」
 ふざけんな、自分のなにを知っているというのか。決まったレールのどこがいいのか。冷たい視線を投げたが、彼の瞳の中に軽々と吸収された。苛立ちはやがて不安へすりかわる。
 則之の口が開いた。
「きみは、そこの栖鳳学園の生徒で将来も保障されている。僕からすれば羨ましいよ。こんなに恵まれて、他になにが足りないっていうんだ?」
 口許が皮肉を言いたげなものに変わる。彼らしくない顔の歪ませ方だ。
「都合のいい性処理もいて」
 自嘲するように言った言葉は、則之自身がそれをわざわざ演じていると如実に知らせるものだった。
 夏紀は衝撃を受けたように、顔を硬直させた。自分で思っているのと、相手から言われるのではわけが違う。
 キッチンへ向かう彼の後ろ姿を眼で追った。大きな声で喚きたい。しかし、なにもかもが言葉にならない。則之が食器棚からコップを取る。夏紀の視線をわかっているのに、一切それへ目を向けず、彼は冷蔵庫を開けてペットボトルを取ってまた閉じた。飲み物が注がれる音が響く。キッチンに佇んで彼が喉元を上げる。夏紀は立ち上がった。
 流し台から強い水音がする。コップをゆすぐ音。何度かこの家で見たことがある動作だ。
 ……なぜか、今は死んだ母と則之が重なって見えた。
 則之に心を拒絶されている痛みが、彼女との遠い記憶に呼応した。もはや悲しい記憶だ。母親を失ってから、楽しかった記憶は悲しみとせつなさしか生まない。もううんざりだった。こんな痛みはうんざりだ。
 キッチンに向かってくる無表情の夏紀を、則之は冷たい瞳で眺めていた。まるで他人のような目だ。
 間違いなく、則之は他人だった。それでも、この気持ちをわかってほしい。則之が痛ましい想いを引き出すのだ。だからこそ、則之にこの想いをわかってほしい。
 でも、それを伝える方法がわからなかった。夏紀は綺麗になったばかりの彼の身体から、性懲りもなく恥辱を引き出した。もうどうにでもしろ。そういわんばかりに、キッチンの茶色いフローリングで則之は再度身体を求められるまま差し出した。夏紀は男の下半身をむき出しにして、受け入れてくれる穴を責める。指はぎこちなく動くが、濡れているおかげで入れやすい。
「も、んっ、……ん、あぁ」
 彼自身が都合のいい性処理だと応えたように、唐突な夏紀の性衝動にも慣れてしまっているようで、バックから夏紀の欲望を突き上げられても抵抗ひとつしなかった。流し台を支えにして獣のような体勢で腰を動かす。
「あっ、はっ、ん、っう、ん、ん!」
 ただひたすら若い雄の欲が途切れるのを待つような喘ぎだった。夏紀は欲求を放った。密着がほどけ、ずるり、と則之の身体がフローリングに落ちていく。
 ……こんなことをしても、どうしようもない。
 下半身を露出したまま座り込んで、彼は静かに呼吸を整える。夏紀はそれを見て脱力した。同じように座り込んで項垂れる。
 則之の身体は簡単だ。快楽に従順だ。こんなにも簡単に言うことを聞いてくれる。
 でも、身体だけなのだ。どれだけ身体をつなげても、則之の心が自分のものになることはない。
 ……ノンケと言われ、たとえ則之にめでたくバイセクシャル認定されたところで、それがどうした?
 則之には美加子という恋人がいる。割り切ったセックスフレンドの男たちがいる。
 このままでは、夏紀も、ただのセックスフレンドと代わらなかった。
 他の男たちと代わらない。それを悟るのはあまりに虚しい。夏紀がこんなに求めても、理解してほしいと身体をつなげても、目の前の人間はそれに応えてくれない。
 悲しみとともに猛烈な寂しさが襲った。母のように死なれて決別するのは辛い。けれども、目の前にいてこんなにも好きだというのに、拒絶され否定されることのほうが身を引き裂かんばかりに辛いのだ。
 夏紀ははじめて思い知った。しかし、今そんなことを知ってもどうしようもない。この想いをどうすればいいのかわからない。
 理性が追いつかない。痛い。胸がどうしようもなく痛い。悲しい、苦しいと叫んでいる。
「夏紀」
 愛しい呼ぶ声。
 はじめてちゃんと則之に名前を呼ばれたような気がして、顔を上げた。
 彼の顔が滲んでいる。夏紀は泣いている自分に気づいた。両手で拭う。則之の驚いた顔が困った顔へ変わっていくのが見えた。夏紀も困っていた。泣いたのは母親が死んだとき以来で、止め方がわからない。
 鼻をすすりながらまた俯く。フローリングを辿れば、午後の日差しがわずかに見える。しかし、ここは翳ったままだ。朝も昼も晩もここはずっと翳っていて、晴れることはない。沈黙に立ち向かう術が夏紀にはなかった。理性では泣いても救いはないとわかっている。でも、感情が言うことを利いてくれない。
 やがて、翳る頬に自分のものではない指があたった。長い時間が経ったようだった。実質は一〇分も経っていないだろう。
 則之が覗き込むように顔を近づけていた。夏紀は衝動的に言葉を発した。
「さ、わる、な」
 嘘だ。
 本当は触ってほしい。
 夏紀の心で吠える反対の言葉を、彼はちゃんとわかっているように手を止めなかった。涙が彼の指に当たって滑り落ちた。
 なぜ、彼はこんなにやさしい手をしているのか。あたたかい身体をしているのか。夏紀の欲をやさしく受け止めてくれるのか。
 ……でも、もう身体だけではダメだ。
 それだけじゃ、悲しい。すごく辛い。息が詰まって苦しい。
 酸素を欲しがる魚のように、夏紀は至近距離にある彼のくちびるを探した。自分のくちびるを押し当てる。
 ただキスがしたかった。彼は逃げない。数えられないくらい身体をつないできたのに、不思議とキスはこれがはじめてだった。
 彼のくちびるは湿っていて、少し甘いような気がした。もう一度吸い付く。則之のくちびるが動いた。子どものように吸い付く夏紀のくちびるへ、応えるように寄せてきた。
 そのささいな仕草は、一瞬にして夏紀のすべてを生かした。
 冷えていた手が動く。触ってもいいと許してくれたような気がした。彼の首をつかむ。もっと奥にあるものを欲しがる。一瞬離れた則之の口許は、夏紀をわかっているように薄く開いた。舌と舌が触れて絡む。それはとてもあたたかくて唾液がこぼれた。
「……っ、……ぅ、ん……ん」
 彼は喉を鳴らして、夏紀の深いくちづけに応えた。寄り添うようなキスで、情交とは違う熱が点る。涙が落ちる。
 則之はただの性処理道具だ。そう思うから、彼のくちびるはこれまで自分の性器と喘ぎと精液のために使われていた。くちびるそのものに痴情を感じなかった。
 でも今は、このくちびるをとおして底なしの寂しさが伝わればいいと願う。
 夏紀は熱心にキスを続け、彼はそれに辛抱強く付き合ってくれた。痛みが少しだけ癒えたぶん、則之を離したくないという想いが増す。涙の滲む瞳で彼を見るのが少し恐かった。それでも、顔を覗く。則之は、夏紀を拒んでいないようだった。だから、両腕で彼をきつく抱き締める。そばにいて欲しい。それを腕でめいっぱい表現する。ぬくもりが肌を透過する。
 誰よりも自分のそばにいて欲しいひと。夏紀は痛切に想い願った。

 彼の心が、欲しい。




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