* 水曜日【第18話】 *


「はい。……ああ、今は大丈夫。元気だよ。そっちは?」
 明るい母親の声が受話器越しに伝わって、則之は一瞬煩わしいすべてを忘れたように彼女の声に応答した。
 それにあわせて親の置いていったものへ目を向ける。リビングの端にある水槽で金魚が悠々と泳いでいる。元々それは母親の観賞物で、家とともに渡された水槽を則之は惰性で管理していた。母親は自身が生まれ育った実家のほうへ、父親を連れて一緒に引っ込んだ。則之が大学を卒業して一年後のことだった。今の母は都会嫌いだ。田舎の空気がとても良いことは則之もよく知っている。
「うん、じゃあ、まだそっちは涼しいんだ」
 久しぶりに話す一人息子は、相づちを打ちながらリビングへ入ってくる若い男に視線を移した。夏紀と目があう。はっきりした顔立ち、首にかけられたタオル。髪がしっとり濡れている。いい男だと、漠然と思った。
 お盆はどうするの、こっち来れるのよね? という母の声に、ハッとして調子をあわせた。
「行くよ。今年も盆休みはあるから、そっちに行くよ」
 夏紀が少しムッとした顔で、則之の隣に座った。フローラルな香料のにおい。じっと、則之の電話に聞き耳を立てている。親しげな会話から則之の交友関係をまた勘ぐっているのだろう。則之はかまわず、母へ滞在する日程をおおまかに伝える。夏紀は則之が語っている日時をきっちり記憶したはずだ。
 通話が終了すると、夏紀がスマートフォンを取り上げた。同時に水気をふくんだくちびるが重ねられる。
 最近の夏紀はキスを好んでするようになっていた。今までしてこなかったのは、男のくちびるに興味がないか、性処理係にキスは不必要と考えていたのかとすら則之は思っていたのだ。
 彼のくちびるは少し薄くて、くやしいが則之の好みに沿っていた。離れていったものを、つい名残惜しく見ていた自分を心の中で叱咤する。
「誰だよ」
 やはり、電話の相手が気になっていたようだ。則之は隠さず答えた。
「母だよ」
 すると彼は黙った。則之が夏紀の視線を追う。そこにはキッチンがあった。なんともいえない気持ちになる。
 ここ何回か、キッチンで身体を交えるようになっている。キッチンでしたがる理由は、先日間接的に教えてくれた。母親との思い出が多い場所なのだという。ついで、夏紀から料理が得意なのだと聞かされた。意外な話だった。亡き母に料理をよく教えてもらい、本当はコックになりたかったと大人びた表情で話していた。
 高校生でまだ将来に夢を託していい時期にも関わらず、過去形でなりたいものを話す夏紀は、自分の境遇をよくわかっていた。中学一年生という多感な時期に母親を胃癌で失ったことにも、則之は同情した。
 母の病死、家での疎外感、学校の退屈さ、決められた将来。
 夏紀の腕が胴に巻きつく。飢えた子どものように、新たな欲で貪り尽くそうとするくちびる。則之はその熱にある程度諦めがついていた。彼のこげ茶色の熱っぽい瞳。どれも嫌いではない。手で焦がれるように触られると眼が冴える。身体が歓喜する。この雄に突っ込まれたいと思う。
 でも、それは互いの身体だけだ。身体と欲以外にはなにも交えたくない。
 これ以上の同情は禁物だった。心まで慰めあうような関係にはなりたくない。どの道、則之と夏紀は対等になれないのだ。それに、則之は夏紀の母の代わりになりたくなかった。
 くちびるから欲情が伝わる。絡まった舌の奥の奥にある、則之の理性に夏紀はまだ辿り着けていない。熱心にくちづける夏紀に、今則之が頭で考えていることなどわかりはしないのだ。
 則之にはまだ夢があり、希望があった。それは、世間一般に溢れている幸せ像そのものだ。
 穏やかな普通の人生を送りたい。今の段階なら、まだ叶えられるはずだ。だからこそ彼と関係を続けるならば、うまい線引きが必要だった。上手に性処理役を続ける。それは彼のためにもなるのだ。
 それができないなら、夏紀を一生拒むしかない。
 夏紀にも輝かしい未来がある。夏紀に課せられた会社を継ぐというレールは、彼の本意でなくても世間的には恵まれている。そして彼はそれにふさわしい頭の良さがある。社会に出ている則之からすれば、父親の敷いたレールに乗りたくないという夏紀の言い分は贅沢な悩みであった。一度、則之は彼に男として「羨ましい」と本心を伝えたことがある。夏紀はいまだ理解できていないようだが、一般的に彼は羨まれる人間なのだ。
 きっと、あの屋上で則之を見つけなければ、彼は栖鳳学園の学生として真っ当に生きていけたのだろう。
 親は大きな企業を経営していて、成績は優秀で、容姿端麗で、高校生のうちからとっかえひっかえ女性と仲良くしていたというから、本当に則之からすれば羨ましい話だ。安定した幸福な人生が保障されている。一般男性ならば誰もが一度は夢見る立場だ。それなのに、なぜ夏紀は自分のような取り柄もない年上の同性に執着してしまったのだろうか。則之自身が不思議に思う。社会への拙い反抗精神か。もったいない。
 ……夏紀には、親や環境が与えたとおりのレールをそのまま貫いてほしい。
 今は学生身分のせいで則之がなにを言ってもわからないだろうが、一度社会に出てしまえばわかる。コネがあるなら使ったほうが得だ。最終的にはそれが夏紀の幸せにつながっていくはずなのだ。
 則之の思うこととは裏腹に、夏紀の手がシャツの中へ入ってゆく。それが妙にくすぐったくて、則之は少し笑ってみせた。

  * * *

 台風、夕立、入道雲、熱帯夜。
 夏を象徴する天候が七月の半ばから猛威を振るうようになり、八月を迎えると気温は朝から三〇度を保つようになった。
 一度上がると降下することがない盛夏の気温は、通勤の不快感を絶望的に引き上げる。則之の自宅のほうはというと、風の通り道で新鮮な空気が舞い込んできやすいつくりをしているが、いかんせん日当たりが良すぎる位置にあった。四季の中で一番過ごしにくいのは夏だ。差し込む日光のせいで室温は簡単に上昇する。普段は窓を全開にすることが大好きな則之も、梅雨が明ける頃には窓を閉めてエアコン生活へ突入する。窓を開けなくても真っ青な空はよく見える。
 ところが、夏紀はそれがあまりお好みではないらしい。夏休みが一週間経った頃、勝手に遮光カーテンを買ってきた。日光の鋭さもせいぜいあと二ヶ月くらいの話だ、わざわざ人の家のカーテンまで買ってこなくてもいいのに、と則之は呆れたように返したが、金に糸目をかけない彼は眩しくて勉強に支障が出ると憚らない。翌日退勤して家路に着くと、家の雰囲気が少々変わっていた。元々ついていたリビングには新しいものへ、はじめからレースのカーテンしかついていなかったプレイルームには重ねて深い青のカーテンが取り付けられていた。
 夏紀を筆頭に、全国の学生は長期休暇中である。羨ましい彼らの夏の日々は一方で、社会に出た大人たちにとって少しだけメリットをもたらした。通勤電車に制服姿が減り、混雑が幾分解消されるのだ。特に今日は則之の出勤時に涼しい風が吹いてきてくれた。それだけでも、爽やかな気分になる。
 夏季は社員が入れ替わりに短い休暇を取る。出社人数が減っても、仕事量はたいしたことがないから楽だ。美加子に多忙と伝えているが、職場へ来られたら嘘だとすぐに気づかれるだろう。
 ……ある意味、多忙には違いないけど。
 そう思って苦笑いをしながら、午前中の仕事をおさめてデスクトップの液晶画面を消す。今日の昼食は一人だ。よく一緒に食事をする同僚が昨日から夏季休暇にはいっている。
 暑い中、行きつけの定食屋まで歩くわずかな間にスマートフォンを操作する。一件の通知がはいっていた。いつもの夏紀のワガママかと思ったが、珍しく美加子からだ。則之はドキッとして道端で立ち止まった。SNSを開く。
 どうしても会いたい、という内容の本文が絵文字とともに踊っていた。いつもは、ふんわりしたニュアンスでお伺いをたてるやり取りから、デートの日取りが決まっていくのだが、今回の彼女は勝手が違っていた。
 明日の夜に会いたい。唐突な指定。明日じゃなくてもいいんだけど、とは書かれてあるが……一刻も早く会いたいのだろう。明日は土曜日だ。則之に仕事があることを知っていて書いているだろうから、よほどの想いである。
 則之は一度スマートフォンをおさめて歩き出した。角にある雑居ビルの一階は行きつけの定食屋だ。いつもと変わらない客入りの中に通され、日替わり定食を頼む。待つ間にもう一度液晶を開いた。
 仕事で忙しい時期にわがままいってごめんね、でも、という一文。本当はあまり忙しくない。遅くなってもかまわないから、と続いている。少し罪悪感が生まれた。則之の小さな嘘の言い訳を、彼女はちゃんと信じてくれている。
 明日は定時に上がれるだろう。それに翌週は盆休みで、親や親戚が住む田舎へ行く。彼女と会う日程を調整していたら、あっという間に八月下旬となってしまう。こういうのは先延ばししないほうがいい。
 恋人の誘いを承諾することにした。この三ヶ月の罪滅ぼしもあるし、なによりどういう理由で会いたいのかが則之は気になっていた。美加子へ返信すると食事が運ばれた。日替わり定食を食べ終えて、お茶を飲みながらもうひとつ文をつくる。
 明日泊まりにくるなら、僕は同僚と飲み会があって遅くなる。そういう内容の文面を夏紀に送って昼は終わった。午後に返ってきたSNSには、模試があるから土曜は行かない、日曜の午後から泊まりに行くと書かれてあった。タイミングのよい夏紀の返事に則之は安心した。
 翌日、退勤するとリラックスした気持ちで指定された場所に向かった。夕方にゲリラ豪雨が一瞬来ていたせいか、妙にむしむしする。地下鉄を経由して、指定駅そばのファッションビルの前で美加子と会った。今日の彼女は、いつもよりも明るい雰囲気のワンピースを着ていた。白地に大きめの紅い花がいくつも咲いている。夏らしい容姿に女性らしさを感じて、則之は自然と彼女を褒めた。似合っていると言うと、美加子は嬉しそうに、バーゲンで買って今日はじめて着下ろしたのだと応えた。
 そして、今日も彼氏との待ち合わせ時刻まで、友人とショッピングをしていたらしい。彼女の荷物を則之は持って横並びになる。会うまで何度もSNSのやり取りをしていて、彼女が今日休みだということを知っていた。
「今から行くところね、前からちょっと気になってた店なの。イタリアンだけど、ノリくんだいじょうぶ?」
「大丈夫だよ。イタリアンか、楽しみだなあ」
 わざわざ予約してくれたというリストランテは、奥まった路地にあって窓からワインボトルがいくつも覗いていた。雰囲気は女性好みで、美加子がウキウキしながら木製の扉を開ける。いつもの外食デートの流れは則之を安心させた。
 リザーヴされていた半個室のテーブル席に座ってメニュー表を見る。イタリア語表記の下にカタカナで読み方が書かれているものの、補足説明がなければどんな料理かあまり想像できない。フランス語ならば大学時代にいくらか学んでいたので則之でも多少わかるが、イタリア語はわからなかった。その点、美加子はイタリア語を少しかじっている。則之は美加子のすすめるがままピアットを選んだ。すぐに白のグラスワインとバケットが来た。
 話はじめるのはいつも美加子からだ。この店を見つけたときのことや、店の印象などを話していると前菜がやってくる。取り分けながら料理の話に移って、海外の話、旅行の話、慶介の話、仕事のことと川の流れのように話は続いた。話題が尽きないことは、カップルとっては大切なポイントだ。しかし、則之は美加子に話をあわせながら、どうもぎこちない部分を感じていた。自分の心情に問題があるのかもしれない。
 ワイングラスとメイン皿が下げられてから、美加子の顔が少し真面目になった。
「この後、……ノリくんのおうちに行くのはダメ?」
 則之は正面の彼女を見つめた。交際して一年半以上経つが、そんなお伺いをたてられたのははじめてだった。部屋に行くということは、愛情を確かめる行為につながる。則之にも欲は生まれたが、いかんせん泊まるとなると夏紀のことが頭に浮かんだ。彼はSNSで、明日の午後までには家に行くと宣言していた。その前夜に美加子が来ても問題はないはずだ。しかし、鉢合わせになるのは恐い。今の則之にはなにか間違いが発生して、それを柔軟に対処する自信がなかった。余計なことが起きそうなものはできるかぎり先に回避したい。
 わずかな間に算段して、今回はお断りすることにした。則之からすれば、恋人の美加子に嘘をつくことにもなる苦渋の決断だった。
「ごめん、実は明日も仕事はいっちゃって……」
 則之の心の内が伝染したのか、美加子はかたい表情になった。しかし、取り繕うように口を開く。
「い、いいの、いいの。忙しいのに時間つくってくれただけでも感謝しないとだよね」
 その瞳は俯いている。店員がデザートを持ってきた。ティラミスだ。美加子の好物なのに、手をつけない。則之はその様子を後ろめたい思いで眺めていた。本当は則之のほうこそ取り繕うように話さなければならないのだ。しかし、なにを話しても地雷になるのではないか、という不安が付き纏っている。ついた嘘のためにまた嘘を重ねることになるかもしれない。
 頭を働かせても出てこない結論に、則之は動作だけでもつけようとスプーンを手に取った。
「実は、先週、ナツキくんに会ったの」
 それを合図にしたのか、美加子が突然そんなことを言った。則之は自分がスプーンを取ったことも忘れ、手を浮かせたまま前へ少し身を乗り出した。
「えっ! 夏紀に? どこで?」
「新宿駅からすぐのとこにある大きい本屋さん。偶然だったんだよ。ちょうど雑誌の発売日で、仕事の帰りに買おうと思ってレジに並んでたら、前にいたの。すぐ気づいて、私が声かけて」
「そっか、偶然。……そっか、」
 胸を撫で下ろすが、ドキドキは止まない。なぜ一度しか会ったことのない夏紀にすぐ気づけたのか。則之が恋人に尋ねると、彼女は「夏紀くん、モデルみたいにイケメンだもん。すぐ覚えちゃうよ」と、当たり前のように答えた。やはり美形は得だ。
「あの子、ノリくんちのそばにある学校に通ってるんだってね。大学生だと思ってたから、受験の本持っててびっくりしちゃった。しかも持ってた問題集が東大レベルとかで、ナツキくんすごく頭がよくない? ノリくん、知ってた?」
 無邪気に訊いてくる美加子。……そんなの、知っているに決まっている。夏休みになってから、夏紀は一度家に来ると二連泊するようになっているのだ。則之に仕事がある日は、リビングを勝手に自習室にしている。
 彼は受験生であったが、夏休みになるまで勉強している様子は一切見せていなかった。家に押しかけられる則之のほうが彼の成績を心配していたくらいだ。しかし、今は則之の家にいる時間が長くなったせいか暇つぶしの一環なのか、夏紀は勉強道具を持ち込んでいる。則之が帰宅してからも、難しそうな問題集を開いて解いている姿を目にする。下を向いて明晰な頭脳を働かせている様子は受験生そのものだ。黙ってシャープペンを動かす仕草は、何かのCMのように様になっていて恰好が良かった。則之は彼のそばで新聞を読んだり、ときどき飲み物をついでやったりして、集中している様子をよく眺めた。
 夏紀がテーブルを陣取っているときのリビングは図書館のように静かで、不思議と居心地がいい。彼が数日前に持参していた赤本は、美加子と会ったときに購入したものかもしれなかった。広げられる問題集は、則之が全力で勉強しても合格できない大学の設問ばかり載っている。彼は少しずつだが受験の準備をはじめていた。輝かしい保障された将来への階段を昇っている。
 その準備として、自習室と性欲を満たす場所を兼ねた則之の家は最高のスポットだったろう。そう考えると、則之の胸にじわりと痛みが広がった。
 夏紀の行為を平然と黙認するようになってしまった自分。恋人の美加子すら欺いて、夏紀を部屋に入れる自分……。
 美加子は夏紀の話を続けているが、気まずい表情を隠すので精一杯だった。




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