* 水曜日【第19話】 *


「栖鳳学園って、すごいお金持ちの子が行く学校だよね。ナツキくんってなんか爽やかっていうか、お金持ちっぽい雰囲気してるもんね」
 そういう話をしながらアイスティーに口をつける彼女も、私立の女学校出身者だ。則之は「そうだね」とあいまいに返事をした。
 夏紀がお金持ちなのは事実だ。夏休みがはじまった頃に、則之の家に行きたがる夏紀に家族の了解を得ているのか、と尋ねたことがある。すると彼の回答はこうだった。
『弟と叔母は一昨日から長野の別荘。父親はいつもどおり広尾のセカンドハウスあたりにいるよ』
 つまり誰も夏紀を干渉する人がいないということだった。いっそ家族で海外旅行とか行かないのか? と冗談半分で訊けば「今回は大学受験があるからパスした。いまさら家族旅行なんてしたくもありませんよ」と、さも当たり前のように答えていた。毎年家族で海外旅行をしていたことは言動から察せた。今年は父親が夏期休暇に入ったら、叔母と弟の三人は北欧のほうへ旅行するらしい。やはり金持ちは違う。
 夏紀はどちらかというと、……日本に留まることを選んだというよりは、則之の家に留まるのを選んだような感じだ。
 ようやく美加子がティラミスを食べはじめた。次に会う日時の話をしてきたので、盆明けにこちらから連絡すると答えた。旧盆は母方の実家へ帰る。美加子は実家住まいだが、親の田舎に行く話をしていた。
 次回、美加子と会うときは、自宅に呼ばなければならないだろう。
 清算時、おごるという則之の手を遮って美加子は折半することを望んだ。
 どうしても会いたいとSNSに書いてきたわりには、あっさりしたデートだった。八月中にもう一度会おうと約束をして、彼女をホームまで見送る。窓ごしに見た顔は笑顔だった。しかし、妙なしこりが残った。

 翌日の日曜日は、SNSで申告されたとおり夕刻前に夏紀が訪れた。難関大模試と別件の試験を二日続けてこなしたせいか、疲れ顔というより精神的にピリピリしているようだった。
 切羽詰ったような色の籠もる瞳に負け、夕陽に染まっていく部屋で則之と夏紀は何度も欲を交えた。若い男の肉体は、何度受け入れても美味しい。彼の体温は、夏という冠名にふさわしく瑞々しく熟れる熱があった。則之は夏紀の買ってきた振動するコックリングをはめて、促されるまま騎乗位になって腰を動かした。
 長いセックスの後、美加子と本屋で会ったのか訊くべきか悩んだものの、結局は止めにした。後でまた夏紀に悪知恵を働かされても困る。それに、彼も則之の男女関係について今のところ詮索する気がないように見えた。刺激すると不利になるだけだろうし、声をかけた美加子のほうもわだかまりがないようだったからいい。則之は楽観的にそう考えた。
 それが判断ミスだとわかったのは、……ちょうど一週間後のことだ。
 インターホンに促されるまま扉を開けると、友人の端辺慶介がいて驚いた。
 翌日曜日の朝のことだった。長い付き合いの友人がなんのアポイントもせず則之の自宅に訪れたというのは今まで一度もないことで、尋常ではない理由からここにやってきたのは確実だった。しかも、熱血漢のある慶介である。すぐに美加子からアクションを受けて来たのだと一発でわかった。
 とりあえず、自分が乱れた服で扉を開けなかったことに安堵した。しかし、夏紀が昨日から泊まっている。表情は平静を無理に保たせた。
「突然、どうしたんだよ。こんな朝早く連絡もしないで」
「悪いな。今、一人か? なか入っていいか?」
 勢いのある慶介の話し方に、則之は焦った。強引になられても困る。リビングに夏紀がいる。
「あ、いや、ごめん。今日はちょっとお客さんがきてて」
「なんだよ。まだ朝の一〇時にもなってないのに、客って、保険屋か? なら待っててやるから」
「それなら、話は聞くから、外のファミレスとかで」
 会わせたくない一心で、外へ出ることを提案した。しかし、彼の顔には「ふざけんな」と描かれていた。
「なんでここまで来てファミレスなんだよ。客置いていいのか? 友達と宅飲みでもしてたのかよ? なら俺も入れるだろ」
 憤りを抑えているようだが、則之にはひしひしと感じる。朝から面倒なことになった。慶介は一度ヒートアップすると、うまく宥めないかぎりどこまでも突っ込んでくる。良い意味でも悪い意味でもお節介なのだ。
 せめて今朝じゃなければよかったのに、とも思った。今の夏紀は大人しく勉強モードになっている。休日の朝から則之を求めないのは珍しい。静かで落ち着いた一日になりそうだと思っていたところで、これだ。 
「……おごるから、ちょっと僕も外に出たい気分なったんだ」
 慶介の言葉に折れず、外がいいと主張する。すると彼は人の悪い顔をした。
「なに言ってんだ。ノリ、おまえなんか隠してんだろ? 女か?」
「それはないよ。誓ってない」
 疑惑に満ちた彼の目から、いっそ家の中へ招き入れようと考えてみたが、やはりダメだ。プレイルームとトイレの卑猥な惨状を片付けようとしていた矢先だったことを思い出した。
「ごめん。どうしても、ダメなんだ。今回だけは、」
 懇願するように訴える。しかし、慶介の視線はとうに則之を通過していた。則之が振り返ると、そこには夏紀がいた。知らない男と則之がもめていると気づいたのか、廊下を歩きながらぎゅっと眉間に皺を寄せている。
 ……まずい。
 慶介を見ると、ああなるほど、という表情をしていた。そのあからさまな様子を見て、途端に則之の心はふるえた。これでは、夏紀を偵察しにきたとしか言いようがないではないか。
 美加子が則之の付き合いの悪さやささやかな素っ気なさを訝しんでいるのは、慶介が電話をしてきたときにわかっていたことだ。しかし今の一瞬で、則之が変わってしまった原因は夏紀にある、と美加子自身が思っていたことが立証された。おそらく、美加子は慶介に夏紀のことを話したのだろう。彼女はとうとう夏紀との関係を怪しんできたのだ。
「きみが、浅宮夏紀くんか。最近ノリと仲良くしてるっていう」
「そうですけど。誰ですか、あなた」
「俺は端辺慶介、ノリと大学のときからの親友だよ。きみこそなんだ? こんな朝から。ミカちゃんは仕事の関係だって言ってたけど、休日の朝までノリを拘束する仕事なんてあんのか」
 則之の感情のふるえを無視した二人は、勝手に自己紹介をはじめていた。それは戦う前に名乗り上げるという戦国時代の戦のようで、則之は慌てて止めにはいった。
「慶介、待って」
 そう言っても、正義感が強く身内に甘い男は止まらない。
「通っている学校の目の前にノリの家があるからって、利用してんじゃないのか。ノリ、お坊ちゃんの金につられて買収されているんじゃないだろうな。もう夏休みなんだろ、子どもは家に帰って勉強してろよ」
 朝からどうしてこんなにもヒートアップしているのか。美加子からよほどのことを吹き込まれているのかもしれないと、則之は青くなった。背の後ろにいる夏紀が、落ち着いた声で返す。
「則之さん、あなたのご親友はこんな朝から、なに意味のわからないことを憤ってらっしゃるんですか」
 その敬語の中身は皮肉たっぷりだ。三人の中で唯一年下で、最も身長の高い美男子にしれっと言われたせいもあってか、慶介は挑発されるがままこめかみに青筋を立てた。
「なんだこのガキは!」
「慶介、待ってくれ。夏紀も黙って」
「まさか、美加子さんになにか言われて、わざわざいらっしゃったんですか?」
「夏紀ッ!」
 核心を突かそうとさせる一言に、則之は強く名を呼んで制した。普段から怒る場面でも淡白な感情しかださない則之が、めったにない大声をだした。その驚きのせいか、キレる寸前だった慶介も留まっている。
 今まで彼の前で温厚な友人を貫いていたが、もうこりごりだった。自分で対処するから、もうかき回さないで欲しい。いきなり来た慶介も迷惑だし、応戦しようとする夏紀も面倒だ。
 一番注視しなければならないのは、不在である美加子の心情であった。則之にとって、夏紀とセックスをする関係だと美加子や慶介に暴かれることが最大の痛手になる。そうなると本当に収拾がつかなくなってしまう。
 この場がしのげるのであれば、則之はたとえ自分に罪がなくても土下座できる。そういう気持ちで、慶介に向き合った。
「慶介、落ち着いて欲しい。美加ちゃんになにを言われたのかわからないけど、別に僕は夏紀に買収もされていないし、無理に拘束されているわけでもないよ」
「じゃあ、なんだよ。仕事とかいって、こいつのせいでミカちゃんと会う時間がなくなってんじゃないのか。こんな朝からいるなんて、こいつは昨日から泊まってるってことだろ。どう考えてもこいつが邪魔してんじゃないか。ミカちゃんはな、本当にノリのことを心配してるし、不安がってんだよ」
「わかってる。ごめん。美加ちゃんにも後でちゃんと会って、僕からしっかり話しておくから」
 則之は慶介から視線を逸らさずに言葉を続けた。芝居じみていても、はっきり伝えることが大切だった。
「夏紀とは……仕事が関係してこうやってうちにいる。それは確かだよ。あとは、彼の勉強を見ているんだ。夏紀はすごく頭がいいけど、フランス語が得意じゃなくて……それは、慶介もわかるだろ? どうしても教えてやってほしいって、彼の親から言われたんだよ。そこの栖鳳学園はフランス語が必須科目に入ってて、どうしても良い点取らせたいからって」
 真剣に口にした台詞の半分は本当のことだった。栖鳳学園ではフランス語を特別必修科目として学習することを知っている。それにはひとつの偶然が重なっていた。則之も大学時代に選択必修科目としてフランス語を学んでいたのだ。フランス語は英語よりも難しい。それは慶介もよくよく知っていることだった。なんせ、慶介も大学時代に同じ言語を第二ヶ国語必修で選んでいたのである。一緒にフランスへ短期研修しに行ったことは、共通の良い思い出だ。
 慶介には特別効く単語を連ねたのが功を奏したのか、彼は少しだけ腑に落ちたような表情になった。則之はとっさに期限をつくって畳みかける。
「でも、それもこの夏休みまでの話だと思うから」
 苦し紛れにそう伝えると、「もういい」という慶介の言葉が聞こえた。どうやら怒りという憑き物がはがれたらしい。慶介の思い込みの激しいところを、どうにか対処できた安心感で、則之は表情を緩めた。盆休み明けくらいに飲みに行こう、と誘えば慶介は簡単にオーケーしてくれた。そのときに詳しい話を問い詰めればいいと考えたのだろう。あっさり引き下がって帰っていった。
 しかし、その目は決して夏紀へ向けることがなかった。慶介にとって夏紀は完全に仮想敵となってしまったようだ。
 朝からとんでもなく疲れた。施錠しながら玄関ドアにため息をかけて振り返る。夏紀が壁にもたれて腕を組み、則之をじっと見つめていた。
「変態の男好きだってバレなくてよかったですね」
 挑発するような言い草だが、すごく嬉しそうな表情をしている。それもそのはず、結果的に則之は夏紀の味方をしたのだ。庇ってもらえて大変満足しているのだろう。
 しかし、その面構えに則之は顔を引き締めた。
「美加ちゃんと、本屋で会ったのか?」
 先週訊けばよかったことを、とうとう口にする。夏紀は則之の問いによどみなく答えた。
「会いましたよ。あっちから、声かけてきたんだからな。偶然ですよ」
 美加子も偶然と言っていたのだから、その発言は確かだ。
「そのときになにか話したのか?」
「本屋で立ち話する程度で、変なことは一切吹き込んでいませんが」
「……ならいい」
 夏紀も疑われていることは重々承知なのだろう。その上で美加子と夏紀それぞれの会った話をつなげてみせる。やはり、本屋のことが決定打になったとは言い難い。積もり積もって美加子に猜疑心が生まれたのだ。
 リビングに戻る後ろから、夏紀の声が響いた。
「あっちが、勝手にナンか考えてるだけだろ。そんなくだらねえ女と付き合っても、疲れるだけですよ」
 たしなめるような発言に、則之はカチンときて立ち止まった。一〇歳年下の人間に、恋人を侮辱されたのだ。
「美加ちゃんは、くだらなくない」
 彼女は真剣に則之のことを考えてくれている。則之の心情の変化を察して不安になってくれたり、友人に相談したりしている。それはある意味で則之が愛されている証拠だ。則之にとっても、いずれ結婚したいとまで考えられる相手は美加子だけだ。
 美加子は、未来に希望を見せてくれる。
 リビングにはカーテンの幕が張られていて、まばゆい朝の光を遮断している。則之は夏紀に向きなおった。
 今、言わなければいけないことがあった。
「美加ちゃんは、僕の良心そのものなんだ」
 そう言って思った。この関係は終わりにしたほうがいい。このままではすべてがダメになってしまう。
 もう、潮時なのかもしれない。
「僕はきみの母親代わりになれないし、僕は幸せな家庭が欲しいんだ」
 凛とした声で、則之は夏紀を見た。伝えたことは紛れもない本心だ。
 これ以上、性処理役は徹せない。どんなに取り繕っても、夏紀の態度を見ればいずれ公になるのは時間の問題だ。
「きみもこんなところにいないで、早く元の世界に」
 戻れ。そう言うまでもなく、則之は床に尻餅をついていた。片頬をおさえる。痛い。無表情で聞いていた夏紀が、いきなり殴ってきたのだ。見上げると彼の腕が伸びてきた。夏紀は本気でキレていた。
「おまえに、母さんの代わりができるわけないだろッ!」




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