* 水曜日【第20話】 *


 強い力で胸倉をつかまれた。苦しいと思う反面、夏紀の歪んだ顔のほうが衝撃的で目が離せない。
「母親の代わり? ふざけてんのか? あんたは男だよな。ついでに性格もゼンゼン違うんだよ! そんな代替するくらいなら、とっくに億でも積んであの世から母さんを連れ出してるッ!」
 そう叫ぶ彼のほうが苦しそうだった。則之も、さすがにマズイことを言ってしまったと思った。それもそうだ。バカなことを考えていたものだ。則之に夏紀の母代わりなんてできるわけがない。
「あんたこそ、あの女を良心とか言って、それでなにを守ろうとしてんだよ! フツーの生活か? 女と結婚して子どもつくって育てて定年して、それで幸せな家庭のできあがりか? それがあんたの幸せだっていうのか!」
 核心をつくような言葉に、則之は今しがた夏紀に放った矢が返ってきたような気がして胸を痛めた。物理的なものより精神的な痛みのほうがダメージは大きい。そして、夏紀の問いかけたものは則之の理想そのままだったのだ。
 他人に言われてしまったことで、則之は自信が萎えたように声をすぼめた。
「……そう思ってるよ。そのほうがいいんだよ」
 そうなりたい。夏紀にとってはくだらないことだろうけど、自分は本当にそうなりたいのだ。
 胸倉をつかむ彼の手が離れる。くだらない幸せに呆れたような仕草だった。則之はそのまま座り込んだ。
 夏紀にバカにされても仕方ない。どうせ彼にはわからないのだ。夏紀は則之以外、女しか手を出したことがないノーマルな人間だ。則之以外の男に興味をもっていないのは確実だ。
 則之は女性よりも、どちらかというと昔から男性に目がいく。肉体としては、女よりも男のほうに惹かれやすいのはわかっている。バイセクシャルだとは思うが、……同性のほうに強く性欲が働くのは長年の経験で薄々気づいていた。でも、若い夏紀は普通だ。男の肉体が好きというよりは、則之の身体が好きなのだ。普通である夏紀に、「普通」であることの贅沢さなんてわからないのだ。
 女性と恋愛して、結婚して、子どもを育てる。社会的にも生物学的にもそれが一番正しい。人間としてそれが幸せのあり方なのだと、則之はずっと信じてきた。
 案の定、くだらねえ、と、夏紀がつぶやいた。
「あんた、男とセックスするのが好きなんだろ。また水曜日に歪んだ性癖を閉じ込めんのか。窓開けてバイブ突っ込んで、そうやって男に掘られながら、普通の家庭築いて……って、その考えがすでに狂ってんだよ。変態は一生変態だろッ」
「子どもじゃないんだ。家庭をつくるまでにコントロールする。昔より……男には興味がなくなっているんだ」
 吐き出すようについた嘘のような台詞を、夏紀は当然のように拾って返した。
「あんた、俺に突っ込まれて散々よがっておいて言える台詞か?」
「セックスに持ち込まれたときは仕方ないよ、男なんだから」
「男は普通、ケツに突っ込まれてよがらないんですよ? 意味わかってます?」
「わかってるよ」
 尋問のような言葉が苦しい。項垂れる則之を前に、夏紀はしゃがんで彼の顔を覗き込んだ。
「じゃあ、あんたのフツーって一体なんなんだよ?」
 その設問の解答は決まっていた。則之は夏紀を見て答えた。
「女性と恋愛して、結婚して、子どもを育てることだ」
 一度心で唱えた呪文を口にする。すぐさま上がった夏紀の手を、則之は反射的に両手で制した。衝動のまま叩こうとする腕だ。強い。則之の細い手を彼は振り払うことこそしなかったが、瞳は明らかな怒りと侮蔑に燃えていた。
「それの、なにがフツーなんだよ! 全部オトナのつくった単なる理想論だろ! くだらねえ! それのなにが幸せなんだよッ、レールにのっかって見え透いた未来のなにが幸せなんだよッ!」
 耳をつんざくような音量で喚く夏紀に、則之は冷静さを取り戻した。
「……見え透いていても、保障されているだけましじゃないか」
 まるで社会に飼われたオトナのような発言をしている、と則之は言いながら虚しくなった。
 しかし、普通で平凡でいれば社会が味方してくれているのだ。それはマイノリティーにとってとても羨ましいことといえた。則之にとっては、一般のひとが当たり前のようにいる地点ですら、なんとか見合うようにしがみついて生きているのだ。
 そして、ようやく出逢った美加子という女性はその片道切符を握っている。
「そんなつまらない幸せにしがみついて、なにが楽しいんですか?」
 則之の想いを読み取るように、夏紀は目を細めてあからさまに見下した。
 楽しいもなにもない。ただ、日本の一般社会の中で生きるためだ。則之は皆と同じ歩みで、安定していきたいのだ。
 それを覆し、暴いて不安定にしているのは他でもない夏紀だった。
 ならば、なぜ夏紀は則之に執着しているのか?
 ……ああ、いろんな意味で都合が良かっただけか。
 則之は胸を痛めた。じゃあ、なぜこんなにも夏紀は自分に執着して傷つけるのか。こんなくだらない人間なんか、もう捨ててしまえばいいのに。
「そんなつまらない僕に、なんできみは執着しているんだ?」
 ため息の代わりに則之は訊いた。途端に、夏紀の表情が変わった。
「あんたはバカか? あんたのことをいつ、ツマラナイって言った?」
「今言ったよ」
「つまらない幸せにしがみつくなって言ったんだよ!」
 哀願するような声色だった。則之は彼を見る。朝なのに、夕方のキッチンの情景が瞳に染まった。梅雨が明ける前。あのときの夏紀の顔は今みたいに真剣だった。
「俺はあんたのことを、」
「都合のいい性処理なんだろう」
 込み上がるわけのわからない感情を蹴落とすように、則之は断言する。胸がますます苦しくなった。でも、夏紀のほうが沈痛な表情を浮かべていた。
「違う」
「性欲も不満も好きにぶつけられる、都合のいい」
 言いながら泣きたくなった。心がギリギリと痛む。自分を傷つけるような発言に、夏紀のほうが叫んだ。
「違う! もうやめろ! なんであんたが、そんなことを言うんだよ。俺はもう、思ってない。そんなふうに思えない!」
 リビングに響いた声は時を止めた。永い間、見つめあう。則之はその間に感情を殺した。
「じゃあ、なんなんだ?」
 真摯な夏紀の瞳が静かに色を変える。彼の感情の変遷が、瞳を見ただけでわかるような気がした。
 感情に振りまわされて、とうとう疲れたように夏紀の口が開かれた。怒りよりも蔑んで、残酷な色に染まっている。
「俺の幸せは、簡単なんだよ」
 夏紀が肩を落として「幸せ」という言葉を使った。その口元を、則之は魅入られたように見つめた。
「好きなひとに、必要とされることだ」
 今までの喚いていた音量が嘘のように、たった一言がぽとんと落ちた。
 則之はその「幸せ」を聞いて呆然とした。彼の幸せはシンプルだった。とてもシンプルで、当たり前のことを夏紀は言ったのだ。
 立ち上がった彼は、もう則之を見てはいなかった。
 ……出て行こうとしている。
 直感的に気づいた則之は、とっさにリビングを離れた彼の後を追った。
 夏紀が、とうとうこの家を出て行こうとしている。きっと、見切りをつけようとしているのだ。表情は完全に則之を軽蔑していた。価値のない人間という判断を下していた。
 それは、則之がこれまで願い続けていた理想的な展開だった。夏紀のほうから縁を切るきっかけをつくってくれたのだ。
 ……これで夏紀が家を出てしまえば、きっとこの関係もおしまいになる。
 そして、また自分は「普通」に徹することができる……!
 則之は、玄関先で夏紀の腕をつかんでいた。自分でもなぜ引き止めたのかわからなかった。
 彼が振り返る。怒りよりも軽蔑よりも悲しい瞳をしていた。それは、まるで絶望の色のようだった。触れた皮膚は冷たい。則之は温めたいと思った。
 理性が知らぬ間に飛んでいた。
 ……もういっそ、壊れたほうが楽なのかもしれない。
 そう思いながら、階段を転げ落ちるような痛みと悲哀を抱え、則之はその熱に縋った。もつれるように身を落とし、衝動の中で壊れて溶けてまざりあいたいと願う。そして、物理的な感覚を失う。どこでなにをして、どう貪ったのかわからない時間を超えて、その熱が果てると気を失うように男のなめらかな胸でくちびるを塞いだ。
 永い瞬間、目を閉じて、そして目を開ける。
 ようやく視界にソファーの柄が映った。則之の汚れた身体の下には、夏紀の身体がある。服を着ていない二人。引き止めた挙句にリビングでセックスをしていたのだ、と、虚しい理性が経過を則之に教えていた。衝動を失った身体の中から、夏紀がほどけていく。
 現実を取り戻すように彼は身を起こした。そして則之を見て、静かに声を発した。
「あんたは、一体なにがしたいんだよ」
 非難というよりも、自嘲するような響きだ。夏紀は途方に暮れたような表情をしていた。
「俺はあんたに幻滅したんだ。もうこんなヤツどうでもいいと思って、……それであんたの望んでた展開になったんだろ」
 そう言った彼が、両手で顔を押さえる。彼は、ちゃんとわかっていたのだ。
「なんで引き止めたんだよ……ッ」
 喉から絞り出すように吐かれた言葉は痛切だった。夏紀は決してバカな子ではない。則之はそんな当たり前のことを思いながら我に返った。しかし、どうすることもできない感情の渦に飲まれて言葉が出てこない。
 なにが正しいのかわからなくなった。
 理性が正しいのか、感情が正しいのか、一般論が正しいのか。
「……なあ、あの二匹、」
 混乱する則之のそばで声がした。両手両脚を投げ出した夏紀が、諦観からなにかを願うような表情をして、リビングの端へ視線を向けている。則之も追うようにその方向へ焦点をあわせた。母親の残した水槽があった。
「俺たちみたいだよな」
 揶揄された二匹の金魚は、珍しく静かに寄り添っていた。いつもは大きいほうが小さいほうをからかって追いかけっこしているのだ。夏紀には、金魚は母親が購入して置いていったもので、代わりに管理しているのだ、と前に話している。彼が時々水槽に目を向けているのは知っていた。元はもう数匹一緒に入っていたが、今は二匹しか残っていない。
「ああやって閉じ込められて、あんたと一生二人っきりになれるんなら、……あんたは普通だのなんだの言わないんだろうな」
 夏紀は諦めたような口振りだったが、わずかな憧れがこもっていた。則之に自分の声はもう届かないと思っているのかもしれない。則之は夏紀に視線を戻した。声はきちんと届いていた。
 二人きりしかいない世界ならば、……きっと自分は、彼の言うとおりこれほど「普通」に固執することはなかっただろう。
「なあ、……常識だの、世間だの、レールだの、そんなもん他人のつくった指標だろ? そんなのに従ったって、どうせ他人は他人なんだ。無理して付き合っても、どうせ置いていくんだ」
 あの、母親に見捨てられた金魚のように。
 夏紀の指が則之の耳に触れる。聞いてほしいように、届いてほしいように撫でる。重なった先に、なにかを待つようような眼差しがあった。
「俺は簡単だよ」
 頬に触る。くちびるが寄る。則之は避けなかった。
「あんたに、必要とされたいだけなんだよ」
 小さく語られた真摯な想いに、則之は返す言葉が出てこなかった。感情を言葉にするより先にくちびるがあわさっていた。則之のほうから重ねたそれを、夏紀は味わうように受け止めた。
 彼と自分のために、抑圧してきた感情があることを則之は思い知った。今ようやく、思い知ったのだ。しかし、それに名前をつける余裕はなかった。
 今はただ夏紀と重なっていたかった。感情の赴くままくちびるから熱をわける。肌に触れる。抱き締められるだけで、猛烈な歓喜が込み上げる。彼の深い熱が欲しかった。彼の強い想いに抱かれたかった。やさしい愛撫に溺れ、媚びるように彼の股に跨る。そして、体内にまたつないでもらう。
 それだけでいい。今はただ、夏紀だけをこの身体いっぱいに感じていたかった。




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