* 水曜日【第26話】 *


 ガサッと大きい音がそばでして、夏紀は抱き締めていた腕を少し緩めた。性から放たれ、ローテーブルで崩れたレジ袋が視界に映る。則之も息を整えながら、りょうり、と、うわごとのようにつぶやいた。
「……そうだ、料理だ」 
 幼子のように復唱する。夏紀が身体を起こすと、則之が笑っていた。
「そうだよ、料理だよ」
 ついなだれ込むようにセックスをしてしまった。互いがストッパーにならないから、予定は色事がはじまると放棄される。夏紀は料理する方向に頭を切り替えなければならなかった。汚れた服はこの家に置いてある自前のものに着替える。ソファーから離れずくったりしている則之に宣言した。
「つくるよ」
「お願いします」
 崩れたレジ袋をキッチンへ持っていって、深呼吸すると調理をはじめた。則之はその間、シャワーを浴びたりソファーを片付けしたり、動作はゆっくりだが食事に向けて動いている。夏紀が食器類について質問すると、キッチンまで脚を運んで教えてくれた。彼は激しい性的な運動の後もタフだ。
 出来上がった料理に、則之は目を輝かせて喜んでくれた。それがちょっとだけ、昨日の弟に似ていた。
「夏紀、うまいよ。本当に料理できるんだ」
「できるよ。嘘だと思ってたんですか」
「そういうわけじゃないけど。なんかうちでこんな健康的な料理食べたの久しぶりだなあ」
 なんで今までつくってもらわなかったんだろう。則之が多めにつくった肉詰めを食べながら呟く。則之のこういう表情ははじめてかもしれなくて、夏紀も食べながら単純に嬉しくなった。二人っきりで、こういうのが幸せだなあと素直に思う。
 二人してお腹が空いていたのか、あっという間に食事は終わった。片付けるまでが料理、という母の格言に習って、片付けると言う則之の言葉を制した。夏紀が皿をすべて下げて、面倒になる前に一気に洗ってしまう。そして、ひと段落つけようとグラス二つとペットボトルの麦茶を持って則之の元へ戻った。
「ありがとう」
 気だるげな雰囲気だった則之が、しゃんと背筋を伸ばしている。真南から、西に傾く陽。昼食ではなくおやつの時間に近かった。飲み物を注ぐと、則之が言った。
「夏紀、聞いてほしいことがあるんだ。いいかな」
 凛とした響きに、先刻の兼次の件を思い出した。少しひやりとしながら、彼の隣に座る。
「……いいけど」
 窓の先は青空だ。この位置からかすかに高校の校舎が見える。来週から、またあそこへ通う日々がはじまる。
 意を決して則之へ顔を向けた。真剣な表情。聞いてほしいこととはなんだろうか? 
「人生は、一度きりだ。僕は、僕自身の幸せを選ぶことにした」
 彼の台詞で、不安が明確になった。則之の幸せのかたちを思い出して、夏紀は硬直する。泣きそうな表情へ無意識に変化していく夏紀を見ながら、則之は静かに伝えた。
「美加ちゃんと別れてきた」
 あっさり言ったものだから、夏紀は訊き返した。聞こえていたが意味がわからなかったのだ。
「え?」
「美加子と、別れてきたよ」
 もう一度、まるで友人の失恋話を伝えるように淡々と言った。しかし、則之本人の話だ。しかも則之のほうから別れを告げたと言うことだ。夏紀は息を止めた。本気で一瞬、息の仕方を忘れていた。
「そ、それ、どういう、」
 かろうじて出した声は震えていた。
「ずっと考えていた。犠牲を伴うこともわかってる。きっと、間違いなく、これから修羅だと思う」
「だ、だから、なんなんだよ」
「きみだけは失えない」
 あまりに淡々としていて、夏紀にはなにを話しているかわからなかった。いや、言っていることは日本語だからわかる。しかし彼の言葉のスピードに追いつけない。
 どういう意味かわからなかった。美加子と別れた? それで、自分を失えないとは?
「それ、どういう意味、」
「好きだからだよ」
「……好き? 誰が?」
 子どものようにわかりきったことを重ねる。理性では、その名前はすぐに出た。でも、信じられなかった。身体をどれだけつないでも、信じられなかった。ずっと言葉では拒絶されていたからだ。身体以外の部分は基本的に則之に拒絶され続けていたのだ。都合よく解釈して、後で傷つきたくなかった。
 則之も言い方の悪さに気づいたのか、不審な表情になった夏紀に、もう一度ちゃんと向きなおった。
「夏紀、好きだよ。付き合ってください」
 改めて言った彼が微笑む。夏紀の頭は真っ白になった。
 言葉が、なにもでてこない。告白された。則之に、好きだと告白された。
 それはずっと、則之を好きだと自覚してからずっと願っていたことだ。彼に愛されることをただひたすら望んでいた。想いを告げて一ヶ月近く返答なしだったから、少し諦めの境地だった。身体だけの関係も正直覚悟していた。
 その則之が知らぬ間に美加子と別れ、夏紀を選んでいた。
 ……自分を選んでくれた。
 これほど言葉にできない気持ちになったのははじめてだ。嬉しいとかではなかった。永く真っ暗なトンネルで視覚も聴覚も塞がれたまま何年も何年も手でもがきながら歩いて、突然外に出た。外は真っ白な光の世界だった。あまりに眩しくて呆気にとられた。……やがて光に慣れると、世界が見えた。そこに則之が居た。そんな感じだった。
 則之を見つけた視界は、すぐにぼやけてくる。伝うものの熱量に、彼の手が伸びてきた。近づいてくる則之の顔は泣きそうだ。彼のあたたかい両手で抱き締められる。しなやかな男の腕だ。同性の身体でも、夏紀にとってはなによりも尊く愛しい則之そのものだ。
 このひとさえ、いてくれればいい。
 言葉よりも先に、夏紀は則之の胴へ両腕をまわす。彼のにおいを深く吸うと、嗚咽が漏れた。せりあがる想いに耐え切れず、彼にしがみつく。則之は夏紀の言葉にならない感情を汲み取るように、ぎゅっと力を込めた。
「ごめん。つらい思いをさせてた。ごめん、夏紀」
 ちゃんと彼はわかってくれていた。その喜びで胸がさらにいっぱいになる。
 同時に、彼の求めていた幸福のかたちがぶっ壊れたことに気づいた。夏紀を選んだことで、則之は自身の求めていた平穏と安定を失ったのだ。今更、大きな罪悪感がやってきた。息ができないほど嬉しいのに、自分を選んだことで則之が辛い思いをするのではないかと不安になる。
 夏紀を愛するということは、則之にとって相当な覚悟だ。彼が美加子と別れたのならば間違いなく本気だ。なのに自分は、簡単な気持ちで彼を脅して犯したのだ。想いまで強要した。則之はやさしいのだ。やさしすぎるから、ほっとけなくて自分を選んでくれたのかもしれない。
 涙を引っ込めた夏紀は、鼻声で訊いた。
「なあ。ほんとに、俺でいいの?」
 恰好をつけるとか、スマートに振舞うとか、そういうのはすっかり彼方へ飛んでいた。
「あんたを犯して、脅して、こんな、全部、ぜんぶぶっ壊して」
 突然ネガティブなことを言い出した夏紀に、則之が呆れたように微笑む。愛しいひとを許すような慈愛のある眼差しだ。
「もう、それは、……仕方ないよね。じゃあ、夏紀は本当に僕でいい?」
 同じように問い返されて、夏紀は慌てた。
「い、いいに決まってるだろ! 俺は、則之じゃないとぜったいに嫌だ」
 逆になると、今の問いが愚問だったことに気づく。子どもっぽいやり取りに則之が笑った。
「本当に夏紀は一途だよ。はっきりしてるし。……だから、僕も、もう迷わない」
 その声は凛として前を向いていた。短い期間だが、恋に時間は関係ない。でも、そう簡単に言い退けられる恋愛ではない。則之はずっと考えてくれたのだと思う。ここまで来たのだ。こちらも絶対に失いたくない。
「ぜったいに迷うなよ。一生俺だけにしろ。誓えよ」
「わかった。……誓うよ」
 無理やり誓わされたような感じだったが、則之は自らすすんでくちづけてくれた。かわいいキスが口許から離れて、至近距離で見つめあう。ありがとう、と、夏紀が思えばそのままそれが声に出ていた。則之がすぐそばでかたどられた言葉に微笑む。
 夏紀はもう一度声にした。
「俺を選んでくれて、好きになってくれて、ありがとう」
 彼の真摯な言葉を則之が受け止めて、頬に指を添える。涙の跡。くちづけた後に名前を呼ばれる。
「夏紀」
 黒く美しい眼が、目の前の男をてらいもなく映し出す。
「僕を見つけてきてくれて、ありがとう」
 則之のしなやかな愛を、夏紀はその瞳の中に見つけていた。





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