* 掌のひかり【第1話】 *


 事務局での書類手続きを済ませると、三池紘明はその脚で向かいにあるE棟のエントランスへ駆け込んだ。エレベーターを横目に大股で階段を昇り、三階の踊り場が見えればとうとう講義開始を伝える合図が鳴る。昼休みを終えた大学内の廊下に人気はなく、大きな足音を響かせながら該当の教室に慌てて入室する。
 そして顔を上げれば、室内はがらんどうだった。拍子抜けしたまま、三池は黒板の白文字に目を向けた。自主学習。腹が立つほど達筆だった。吐いた息は大気に混じった。
「おい、自主学習ってなんだよ。休講なら早く張り出せよッ」
 興味があって選択したはいいが、講義二回目ですでにこの有様だ。先週受けた初回も、担当の准教授がシラバスに書かれたとおりの内容を説明しただけだった。
 出席必須、時刻厳守、レポート提出の三拍子が揃った当講座は、単位がもらいにくい授業として三池の友人たちから敬遠されていたものだが、いまだ本題の講義ははじまらず、それどころかすでに自主学習扱いである。最後までこの調子の可能性は高かった。准教授は定年寸前でどうでもよくなっているのか。
 もう一度大きく息をついて、三池は教室を離れた。今日はあとひとつ講義が残っているのだから、このまま帰宅するわけにはいかない。一コマ空けて次の講義を待つ友人たちは先刻、食堂からカフェテリアに移動して暇を潰すと言っていた。三池はスマートフォンを取り出しながら、あいつらのところへ戻るか、と、仕方なく行き先を定める。
 こんなふうに暇ができても、あまり嬉しくはない。連なる他の部屋ではゼミや講義がはじまっているようで、エアコンの効いた通路は三池が駆け抜けたときから時間が止まったように、シンとしていた。身が振り回される講座を選んでしまった後悔から、また大きなため息をつきそうになって歩き出した。
 カタン。
 響いた音に、暇を持て余す三池は視線を向けた。
 物音は自動販売機がさせたものだった。浅築のE棟は、各階段横ごとに小さな休憩スペースを設けている。販売機に向かってかならず備え付けてあるのは長椅子だ。
 その椅子の部分に、男子学生が一人きりで座っているのが目に入った。誰もいないと思っていた三池は、脚を止めて凝視した。
 自動販売機の音に気づかなければ確実に通りすぎていた。しかも、壁にもたれて一点を眺めている男子学生の容姿にとても見覚えあった。午前中にも見た服装だ。間違いない。
「なんだ、合澤かよ。こんなとこでなにやってんだ?」
 三池の呼び声に、彼がゆっくり視線を向けてきた。
 大学から親しくしている友人の一人、合澤晴巳だ。同級生で希望専攻も同じ、E棟の活用頻度は三池と変わらない。来年度はゼミも一緒になるだろう間柄だ。今日の午前中も、必修の講義で隣席に座っていた。そのときは普段と変わらない様子だったが……今は、なにか違うように見える。
 彼はどうにも浮かない表情をして、口を開いた。
「ああ、三池」
 視線がわずかにさまよっている。ぼんやりしているのはまるで合澤らしくなかった。
 彼は用のないときまで大学にだらだらと居残り続ける性格ではない。大学から徒歩圏内のアパートに一人暮らしをしているのだ。講義を合間に挟んだ空き時間に帰宅することもあって、三池自身も彼の一時帰宅に同行したことはあるし、合澤宅に酒を持ち込んで友人たちと飲み会を開いたこともある。
「おまえ、もう家帰ってると思ってたけど。なんかあんのか? 教授待ちとか?」
 そう問いかけながら、三池は軽い気持ちで合澤の横へ座った。先々週の後期ガイダンス前に、合澤と仲良くシラバスとにらめっこしていたから、互いの時間割はある程度把握している。三池の記憶が正しければ、合澤はすでに本日の全コマを消化させているはずだ。
 しかし、彼はここから動く気配がない。ただ横に首を振る合澤を覗き込む。俯きがちの視線に、ピンッと綺麗に揃った睫毛が映えている。横顔はまるで女のような造作だ。彼は三池と同じくらいの背格好だが、顔の印象で雰囲気は大きく異なる。合澤は間違いなく仲良くなった大学の友人たちの中で、一番女受けする柔和な顔立ちをしていた。
 合澤と親しくなったのは入学して少し経った頃だ。必修科目の語学授業で、電子辞書を忘れた三池に手を貸したのが、そのときたまたま隣に座っていた合澤だった。彼とはそれをきっかけに会話を交わすようになり、あっという間に仲良くなった。
 ただ、三池は親しくなる以前から、かわいい顔をした男がいると思っていた。同性の顔を見て「かわいい」と称するのはおかしいかもしれないが、共通の友人たちも同じように感じていたらしい。二年に上がった今でもその印象は変わらない。
 それに、合澤本人もそれなりに自分の見てくれの良さを自覚していた。過去に酒の席で合澤が話してくれたのだ。高校時代の話題が挙がったときのことだった。
 男子校に通っていた合澤は、何度も在校生に告白されていたという。やはり男に告白される決め手は顔立ちだったようで、合澤は男子校に行ったのは失敗だったとため息まじりに語っていた。その顔は、異性にも人気がある。学内でもすでに女子から数度告白されていた。一番はじめに大学でカノジョをつくったのも合澤だ。いわく、付き合うのは簡単だが長続きはあまりしないらしい。三池にしては羨ましい話だ。
 そして、高校のときも外部生のカノジョがいたというが、男子校だったせいか女の飢えている友人が多かったらしい。カノジョとキスしてるんだろ、なら女と間接キスさせろ、と友達に因縁をつけられ、無理やりキスを強要されたことも聞いた。不憫な爆笑ネタとして、仲間内で殿堂入りしてしまった話だ。
 かわいい顔立ちのわりに自分をネタにできるし、気取ったところもない。別に女々しくもないし、物怖じしない面もある。三池は合澤のそうしたギャップを出会った当時からを好んでいた。
 そんな彼が、珍しく浮かない表情を他人に見せている。挨拶しただけで俯く合澤から、いつもどおりの言葉のキャッチボールを期待していたものの、それはやってこなかった。奇妙だった。
「なあ、帰らねえの? カフェテリアんとこに柳瀬たちがまだいるけど」
 カフェテリアに居座っているはずのメンツは、合澤と共通の友人たちだ。大学は二年目の後期になって、それぞれ受講講座は噛み合わなくなってきているが、大学で会えば話すし、サークルをしていない友人ばかりだから、集まるところも食堂かカフェテリアで定番化されている。合澤は友人たちの中で聞き役に回るタイプだが、特別一人が好きというわけでもなく、大学にいるときは三池同様友人たちといることが多かった。
 それに合澤が一人になりたいときは、大抵帰宅を選んでいることも三池は知っている。だからこそ、E棟にいるのは誰かを待っているのかもしれないと考えたのだ。
 三池の言葉に合澤がようやく、うーん、と小さく唸った。意識が此処に在らずと言わんばかりの反応だった。
 単純に、人知れずここで考えごとをしていただけなのかもしれない。三池はそう思い返して、すぐに立ち上がった。
「なんか考えごとなら、邪魔しねーけど」
「あ、いや、ごめん」
 合澤がハッとしたように、顔を上げて三池を見つめた。少し困った表情をしている。
「そういうわけじゃなくて」
 また、視線が下に落ちた。合澤の様子に、三池はいよいよ普通ではないと感じて、もう一度彼の隣に座りなおした。
 そういえば、と三池は思い返す。合澤が悩みごとや愚痴を口にした場面に、今まで遭遇したことがない。いつも自分のほうが聞いてもらってばかりだ。合澤の話を聞こうと思って、率直に投げかけた。
「つか、おまえ、なんかあった?」
 彼は小さく頷く。そして、神妙に視線を合わせた。良い話ではないと三池でも察せる仕草だった。
「あのさ、……三池だから言う話なんだけど」
「ん、」
「父親が病気で入院したって、いまさっき電話があったんだよ」
 合澤が躊躇いがちに話しはじめたことに、三池は目を丸くした。予想を上回る悪い内容に声が洩れた。
「ま、マジ?」
「……うん、マジ。しかも、けっこうヤバイ病気らしいって」
 そう答えた彼は壁に背を当てて息をつく。これは気軽に聞ける話ではない。合澤に振りかかった事態の深刻さから、三池は抱えていたバッグを横へ置いた。
 そして、合澤がこの場所から立ち上がれなくなっているのもすぐ理解した。学生身分で親の大病を知らされたら、頭は真っ白になるだろう。彼の実家はここからかなり遠い県だったはずだ。年に二回帰省するのは金銭的に厳しいし、アルバイトのやりくりが面倒になると言って、この夏の合澤は帰省していなかった。
 しかし、この状況では一度実家に顔を出さないといけないはずだ。
「それじゃ、今日にでも実家帰んねーとヤバくねえか?」
「うーん、……でも、今日帰るのはさすがにキツイ。入院したのも昨日今日の話じゃないって、……母さんも急ぐことはないからって言ってくれてる。でも、オレに連絡してきたくらいなんだから、顔は早いうちに見せたほうがいいってことなんだろうなあって」
 とても思案している表情だ。柔和さが薄れるほど考え込む合澤を見たのは、三池もはじめてだった。彼の内情に首を突っ込んだのもはじめてのことで、なんと言えばいいのか悩む。
 男友達たちとの雑談で、時おり個人個人のバッググラウンドは話題に上がるものの、好んで家族の話をする者は少ない。それに、ここは東京都の隣県に位置する国立大学であることもあって、友人知人には他県出身者も多く、一人暮らしをしている友人も合澤だけではなかった。
 逆に、三池のような東京生まれ東京育ちで、大学だけ東京以外を選んだほうが珍しかった。周囲にどうしてこの大学にしたの、と、言われても、偏差値を加味して行きたい学部のある国立大学がここしかなかったのだ。仕方がない。三池は無難に言葉を返した。
「まあ、どう考えても帰省したほうがいいだろ」
 目の前の彼は福井県か石川県か、そこらに実家があったはずだ。関東から向かうには少々面倒な位置にある県だが、親御さんが入院したのであれば交通手段もお金も関係ないだろう。
 病名を訊く気はないが、三池の知る限り合澤のヤバイという単語は、基本として重いのだ。
「うん、……バイトのやりくりができれば週末だけでも帰省できないか、今ちょうど考えてた……ところで、三池が来たんだよ」
「あー、そっか」
「うん……」
 大学の後期がはじまったばかりで、この展開が悩ましいのはよくわかる。夏休みであればもっと融通が利けたと思っているところなのだろう。
 三池は合澤の家庭環境をよく知らない立場で言えることも少ない。しかし、友人の危機に手を差し伸べるのは当然ことだ。三池は口を開いた。
「手伝えることあれば、手伝うぜ。なんかあるだろ?」
 特に合澤は専攻が同じこともあって、レポートや勉強関係で何度も手を借りている。カフェテリアに居座っているはずの友人たちにもそれは言えることで、三池の助力に及ばない部分は周りの仲間に頼ることもできる。珍しく合澤が悩みを打ち明けてくれたのだから、三池もできる限りのことはしたいと思った。
 合澤は三池の申し出に、ようやく表情を緩めた。
「ん、助かる。帰省するときは、講義のプリントとか出席とか、悪いけど頼むことになるかもしれないけど」
「いいよ。俺らけっこう講義かぶってるし、行く曜日とかわかれば連絡くれよ。むしろ、いつもは俺のほうがノート見せてもらったりしてるんだし、こんくらいしねえと」
 思っていることをそのまま話すと、合澤も安心したようだ。まあそうだけど、と三池の台詞につぶやいて、決心したように頷いた。
「今日中に確定させるよ。帰省から戻ってくるときは、土産も買ってくるから」
 合澤の気遣いできる面が早くも戻っている。三池は彼のこうしたところを見て、これが女にもてる要素なんだろうな、と、ふと思い、すぐ心の中でかぶりを振った。先日、友達の柳瀬が言っていたものだ。そのときは合澤も同席していたが、意味を理解していないようだった。気遣い屋はもともとの性分なのだろう。
「気にすんなよ。おまえは親父さんの心配だけしとけって」
 そう言うと、合澤は少し笑顔になる。
「……やっぱり、人に話すと、少し楽になるな」
 彼の独り言のような台詞に、三池は大きく頷いた。
 友人の中には、合澤のことをちょっと秘密主義なところがあると言うやつもいるけれど、彼は単に自分の話をするのがあまり好きではないようだ。それに、借りをつくるのが好きではない、と言っていた記憶もある。しかし、今回のようにそれどころでないときもある。
 三池は比較的思ったことを口にしてしまうから、合澤のことを羨ましいと思う反面、もう少し気持ちを表に出せばいいのに、と思うことがあった。だから三池は言った。
「溜め込まねえで言えよ。あんまアドバイスはできねえと思うけど、聞くだけなら俺でもできるし」
 この件も訊かなければ、合澤は一人でどうにかしようとしていただろう。
 そうならずに済んだのも、元は講義が自主学習になってこの廊下を歩く羽目になったからだ。そう考えると、今日は休講になってよかったのかもしれない。立ち上がった合澤は、足元に置いていた荷物を拾った。
「うん、大丈夫。でも、みんな心配するだろうから誰にもいうなよ」
 釘を刺すところも三池が推測していたとおりで、合澤らしさに、おう、と答えた。同じように椅子から腰を浮かして、彼のそばに並ぶ。脚は自然と階段に向かっていた。
「俺は次も講義あるからカフェテリアに行くけど、おまえどうする? 帰る?」
「今日は帰るよ。バイトは休みなんだけど、ちょっと寄って事情を説明する。バイトの振替とか、調整しないと。明日は三池って来る?」
「大学? ああ、明日は一番ハードな曜日だぜ。二限の講義は必修だから一緒だよな?」
「うん。それ、柳瀬たちも一緒だった?」
「ああ。合澤って、朝は一限からいれてたっけ?」
「ううん、明日は二限から。一限んときは寝てるか、家でなんかやってる時間」
「マジか、家近いのってのんびりできていいよなあ。俺なんか一限からみっちりある日だぜ。早起き辛え日だよ」
「でも、通勤と電車は逆方向だから、まだ楽じゃん? オレも二限からきっちりはいってるし……ってことは、明日は三池とずっと一緒になるんだ」
「イヤなのかよ」
「違うよ。帰省のこと考えると、木曜はパスしないと三池がかわいそうになるなあって」
「それかよ。そんなん別に気にすんな」
「でも、ノートなんてきっちり取れないだろ?」
 三階分の段を下りながら三池は合澤の問いに詰まらせる。講義中にうたた寝しているところも、面倒になるとノートになにも書き写さなくなるところも、合澤にはよく知られている。
「出席とプリントもらうだけでいいから」
 苦笑をまじりにそう言われてしまい、三池は苦し紛れに、ノートは俺が力尽きてもコピーさせてくれるやつ探すし、と言い返した。彼は呆れたように笑った。
「探すって、……まあ、いいけど。じゃあ、とりあえず明日までにはどうするか連絡するから」
 エントランスに辿り着くと、外からの生暖かい空気がぶつかり合って温度を上げている。
 夏の名残を感じながら自動ドアを追い越して、三池は彼の瞳を見た。重い話を聞いて心配したが、合澤はなんでもスマートにできる男だ。悩んでいた表情はもう消え失せていた。
「でも、ま、なんかあったらメールでもしろよ」
 それでも、彼の性格を知っている三池なりに念押しした。
「わかった。そっちも授業がんばれよ」
「おまえこそ、無理すんなよ」
「うん、ありがとう」
 合澤がそう言って背を向けた。足取りは軽そうだ。三池は彼の様子に安心感を得て、残りの時間を有効に潰すべく正門の反対方向にあるカフェテリアへ歩き出す。
 カフェテリアには、案の定いつもの友人たちが揃っていた。合流した三池は、合澤と会ったことを話さず、自主学習になった講義の顛末をネタにして友人たちと盛り上がった。

 合澤からメールが届いたのは、翌朝のことだった。




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