* 掌のひかり【第3話】 *


 翌日の三池は、何度も合澤の姿を探していた。二コマあった午前の必修講座にとうとう合澤は現れることなく、仕方なく今回も彼の代わりに出席を取った。彼の体調と事情の悪さを知っているせいで余計に不安は募る。授業終了間際、三池はたまらずスマートフォンを触って生存確認のメールを送った。すると、思いのほか早く返事が来た。寝坊してまだ家にいるという。午後の講義には出ると書かれてあって安心したと同時に、早くメールしておけばよかったと思った。
 もう一度メールを返して、一緒に講義を受けた沼田とともにカフェテリアへ向かう。事前にコンビニエンスストアで買ってきた昼食をひろげた。次の講義は昼休憩の後すぐにはじまる。三池は悠長に残り二人のようにのんびり雑談しているわけにはいかなかった。手早く食事を済ませると、タイミングよく名を呼ばれた。
「三池」
 合澤の声に、振り返ってつい笑顔になった。沼田も、来訪者に気づいて手を挙げる。
 ようやく大学にやって来た彼は、少し眉を下げて空いている席に座った。
「珍しいなあ。寝坊なんだって?」
 同じ一人暮らし仲間である沼田の問いかけに合澤は苦笑して頷く。沼田の住んでいるところは、大学から五分の低層マンションだ。立地がよすぎて友人たちの出入りも激しく、合澤くらい大学と家が離せばよかったと前に嘆いていた。その合澤の部屋も、同じく大学の徒歩圏内にある。だから自主的なサボタージュや寝坊をほとんどしてこなかった合澤の行動を、沼田は珍しく感じたようだった。
「合澤、昨日調子悪かったんだよな。今日は良くなったんじゃねえ?」
 事情を知る三池は、フォローを兼ねて口を挟んだ。そして合澤の顔を見る。造作に合った柔和なものになって頷いた。三池はそれを見て安心する。
 顔色も昨日に比べて良くなっていた。十二分に寝られたのだろう。沼田も納得がいったのか、あんまり無理するなよー、と言葉をかけて、最後のサンドウィッチを頬張った。
「もう大丈夫。次の講義は、E棟?」
「そうだぜ。あと、午前のやつのプリント、合澤の分も一応もらっといたから後で渡す。ついでに出席も取っといたから」
「マジ? ありがとう。……なんか、このところ立場が逆になっちゃってるな」
 昼食中の三池と沼田を眺める合澤のつぶやきは、自戒の念が籠もっていた。
「いやいや、どっちかっていうと、正しいあり方だよ合澤。ミイちゃんがこれまで合澤に頼りすぎてんだから」
「おまえ、出席はちゃんと自分で取ってるからな! 俺は!」
「出席って、そりゃ当たり前だろ」
「……オレはここのところ、出席すら自分で取れてないけど」
 合澤のため息に、三池は沼田をにらんだ。これではフォローになっていない。しかし、沼田には響いていなかった。
「気にすんなよー。この際、三池に今までの借り返してもらえばいいんだってば」
 いけしゃあしゃあと言われ、三池は黙って冷やし中華の蓋を閉めた。今年の食い収めだ。
「あのな、俺はやればできる男なんだよ。だから合澤、俺をあてにしろよ」
 胸を張って言えば、それを柳瀬が聞いてたらなんて言うんだろう、と、合澤は含みのある言い方で返してくれた。隣の沼田が笑い出す。想像が容易かったのだろう。
「そんなん聞きたくもねえよ。あ、E棟行く前に、売店寄っていい?」
「いいけど、またなんか食べるんだ?」
「食べるって言うか、」
「食べるんだよなー、プリン。売店にしかないやつ」
「……ああ、そうだよ、買って食うんだよ、それを」
「おまえが言うと、なんかガキっぽいよなー」
「すっげー、ムカツくなテメエ」
「三池って、食べ足りないときってかならずプリン選ぶよなあ」
 しみじみと合澤が言うので、沼田もふと思い返したのだろう。確かにそうだな、と、同意する。言われなくても、三池は自分の大好物だからわかっている。
「一番満足するんだよ。しかも焼きプリン系な。プリンっていろんなタイプがあるんだよ」
「へえ。つまり、ミイちゃんになにか借りつくったときはプリン渡せばチャラになるのか」
「おい、なんでそうなんだよ」
「なら、それ奢ろうか?」
 変化球の切り返しをしてきた沼田の向かい席で、合澤が律儀に訊いてくる。このところ三池に借りをつくっているという気負いがあるのだろう。いつもなら聞き流す合澤も、この一週間だけはどうも冗談の通じない男になっているのだ。
「いいよ合澤、気にすんな」
 三池は咄嗟に答えた。時計を見て立ち上がる。
「もう時間ないから行こうぜ」
 早く売店に行って、E棟の教室でゆっくり食べるのだ。食事を終えた沼田は、ゴミを片付けながら、三池の動きにあわせる合澤へ声をかける。
「じゃ、明日二限で」
「うん。また明日」
 なかなか講座が合わない合澤と沼田だが、唯一明日の二限目は二人揃って同じ講座だ。一方の三池は、合澤より村尾と時間割が重なる曜日にあたる。
「なんかさ。けっこう後期になって、皆バラバラになってきてるよな。ほんと、専攻違うと会わねえし」
 売店へ向かう最中、三池は思ったことをそのまま口に出した。前期まで五人で昼飯をとることが多かったし、他の友人も集まりやすかった。しかし、秋がはじまって如実にそうしたことがなくなっている。夏期休暇を終えてこの変化は大きい。
 隣を歩く合澤も同意するように頷いていたが、上の空のように見えた。だが、三池の視線に気づいたのか、彼はすぐに視線をあわせて表情を変えた。
「あ、うん、そうだね」
 取り繕った返事だった。三池は無理に会話を続けなかった。合澤の家庭状況を考えれば、他に思うこともたくさんあるだろう。売店で好物のプリンを買い、教室で食べた後授業をこなす。
 合澤が隣に座っている間も、数度彼の様子を見ていたが、ホワイトボートに書かれたものをノートへ書き写す作業に徹していた。むしろ、書写を半分放棄している三池に時々呆れの混ざった眼差しを向けてくる。三池はそのたびに口許を上げた。いつもと変わらないことが、少し嬉しかった。
 合澤は、教室前で別れるついでに、書き写したばかりのノートを貸してくれた。おそらく代理出席の件を気にしているのだろう。三池は明日返す約束をして次の講義に向かった。
 夕刻に一人で受けた本日最後の授業では悩ましい課題が出され、それについて考えながら帰宅する。最寄り駅の改札を出て、ノートのコピーをとるためにコンビニストアへ向かうと、合澤からメールが届いた。
 スマートフォンで内容を確認すれば、明日の夜は空いているか、夕飯一緒にどうか、という誘いだった。三池は快くOKの返事をだした。それから数度やり取りを重ね、彼の部屋に泊まることが決まる。
 翌日は荷物を少し多めに持った。時間割どおり、午前の講義を村尾とともに消化してから、図書館にいる合澤と合流した。
「夕飯は、うちにする?」
「おう。そっちのほうがだらだらできていいだろ。酒はキープあるよな?」
「うん。前に、皆が置いていった焼酎が一本残ってるよ」
 正門を抜けて、スーパーへ行くという合澤の言葉に付き合う。今回は彼が休んだ講義を手伝った礼を伴っているらしい。本人は外食で奢るつもりだったようだが、三池は奢ってくれるなら家で食べるほうがいい、と、先にメールで伝えていた。単純に外食より宅飲みのほうが好きなのだ。
 それに、合澤が自炊できる人間であることも知っていた。本人はレパートリーが少ないというが、料理の一切ができない三池にとって自炊する意識があること自体、尊敬に値する。一人暮らしすれば否応なしにすることになるから、と、合澤に言われても、同じく一人暮らしの沼田は大の自炊嫌いであると知っている。
 合澤と連れ合って、最寄りのスーパーマーケットへ入店する。平日の夕刻は女性客が多い。合澤は、できるかぎりリクエストに応えてくれると言う。三池は迷わず、しょうが焼きをセレクトした。自分ではなかなか行かないスポットへカゴを持って彼に従う。材料を迷いもせず選んでいく合澤を興味深く眺めた。しょうが焼きが食べたいと言って、その材料がすぐ思い浮かぶ合澤はやはり尊敬できる対象だ。
「やっぱ、すげーよな、おまえ」
「え? なにが?」
「しょうが焼きって言ったら、すぐ材料わかってんじゃん」
「え、そんな、名前のまんま、この豚肉としょうが使うだけじゃん」
「あー、あの肉って豚肉なのかー」
「……三池」
 なんの肉だと思ってたんだよ。
 そう言わんばかりの呆れた表情をされ、食事は生まれたときから母親頼みであることが露呈される。しかし、一切料理に興味がないのだから仕方ない。
「いいの。なんでも、うまけりゃいいんだよ」
 そう調子よく返して、おまえの料理はけっこう好きだし、と、本音を続けた。彼は少し拍子抜けしたような表情をしていたが、結局なにも言わず豚肉のパックをカゴの中に入れる。
 次の棚に向かう合澤から、はぐれないように三池はついていった。飲料関係の冷蔵棚に差しかかって、好物のプリンコーナーを見つけると、思い出したように合澤が振り向いた。
「あ、デザートのプリンなら、うちにあるよ」
「それって、俺用?」
「というか、おいしそうにプリン食べてる三池見てたら、オレも食べたくなって昨日帰りに買ったんだよ。あとまだ二個残ってるから。三池の好きな焼きプリンのやつ」
 早い申し出に、昨日のプリン話を気にしていたのかと思ったが、どうやら違うらしい。ただ、しっかり人の好物を覚えているところは合澤らしかった。
 二人で店内を軽く一巡して、ペットボトルのウーロン茶とロックアイス、枝豆、スナック菓子に明日の朝食を追加する。レジで清算する合澤に、三池は礼を言った。借りが返せたと思ったのだろうか、合澤は少しホッしたような表情を見せた。
 ビニール袋に食料を詰めてスーパーを離れれば、斜陽の空は色濃くなっている。雑談をしながら、歩いて一〇分のところにある彼のアパートに到着する。大学からは徒歩で二〇分近くかかる場所だ。駅と反対方向でもあるから、彼の家まで訪れたことのある友人は少ない。
「もう、つくったほうがいい?」
「そうだなあ。おまえに任せる」
「わかった」
 電灯をつけた玄関から、合澤はそのままキッチンへ移動した。夕食の準備に取りかかることにしたようだ。
 この家の勝手をよく知る三池は、スニーカーを脱いですぐ室内に入った。液晶テレビの近くに荷物を置いて、キッチンまで焼酎を探しに行く。三池の行動をわかっているようで、家主はすぐ酒の保管棚を教えて、グラスをひとつ差し出した。
「これ」
「ありがと。合澤も飲むだろ?」
「うん。これも。つくって置いててくれると助かる」
 もうひとつ出してきたグラスに買ってきたロックアイスと焼酎を入れ、ウーロン茶で割る。目分量でもうひとつ分、ウーロンハイをつくってから三池は先に部屋へ戻った。
 一口飲んで息をつく。本格的な夜を前にアルコールを楽しむのは楽しい。合澤に許可を求めることなくテレビ電源をつけて、フローリングに腰を落ち着けた。
 約二ヶ月ぶりに訪れたが、合澤の部屋はなんら変わりない。ベッドにローテーブル、唯一高い棚には本やディスク関係が収まっている。物の少ないシンプルな一間だ。棚のそばに漫画が数冊積みあがっているのを見つけて引き寄せる。飯待ちの暇で表紙を確認すれば、沼田の家にあったものだとすぐに気づいた。彼から借りたのだろう。
 普段、飲み会や麻雀で使われるのは沼田の家だ。大学と駅に近いことが一番の理由だった。逆に駅から遠い合澤の部屋へ、足を運ぶ友人たちは少ない。大学の通学へ駅を利用する三池にとっても、合澤の家に行くより沼田の家のほうが楽だ。
 しかし、ゆっくりするならば合澤の家のほうがいい。人の出入りも少ないし、沼田は物を溜め込む男で、部屋には漫画やフィギュアなどが壁の棚にこれでもかと詰まっているのだ。その点、物が少ない合澤宅は広く感じられて好きだった。合澤いわく、この部屋は収納スペースが大きく、そこに物をおさめられるだけおさめているらしい。確かに、室内に無駄なタンスや棚は置かれていない。
 暇つぶしに漫画をパラパラとめくっていると、いいにおいが鼻腔をくすぐった。グラスの中身を一気に飲み干して、三池はキッチンへ再度顔を出す。その動きに気づいたのか、合澤がこちらへ顔を向けた。
「もう、あと少しでできるから」
「ん。うまそうじゃん」
「まあ、……うまいといいんだけど」
「大丈夫だろ」
 不安物言いをする合澤に、そう答えながら三池は屈んで冷蔵庫を開けた。食料の少ない内部に、三池の好物であるプリンが鎮座していた。それだけでも嬉しい。
「こうやって、自分の冷蔵庫があるのっていいよな」
「え?」
 フライパンを扱う合澤が訊き返す。三池は冷蔵庫のドアを閉めた。用があるのは冷凍室にある氷だった。二杯目のウーロンハイをつくりながら、横目で合澤の手元を見る。いい音がしていて、夕食が一層楽しみになる。デザートはプリンで決定だ。
 三池は合澤の隣で調理の様子を観察しながら、口を開いた。
「だって家だと、いろいろ妹に食われるんだよ。買ってきたプリンとかアイスとか」
「え? 妹?」
 合澤は元々大きい瞳を見開いて、三池を見つめた。
「姉じゃなくて?」
「あれ? おまえに言ってなかったっけ?」
「いや、今はじめて聞いた。妹は意外。上は?」
「上なんていねーよ。妹一人」
 合澤がガスコンロを消した。余熱でまだジュージュー音が鳴っている。三池は用意された皿には野菜らしきものが乗っていることに気づいた。
「……じゃあ、三池が一番上? 意外だ」
 二回目の「意外」から、なにがどう意外なのかと首を傾げるが、前にも誰かから言われたような気がして記憶を掘り起こす。以前、三池ってパッと見、弟キャラじゃない? と、言われた覚えがあった。たぶん高校のときの話だ。 
「そういや、けっこう前に、上にねーちゃんいそうとか言われたけどな」
 その言葉に、合澤は同意するような相槌を打った。
「それで、妹はいくつ下?」
「俺の妹? 小六だよ。昔はかわいかったのに、いまはマジとんでもねーよ。中学受験でぴりぴりしてるし」
「そうなんだ。けっこう下だなあ。オレのとこは弟と妹だよ。両方、いま高校生」
「合澤んとこは歳近いんだな。二人もいるのか……じゃあ、妹かわいい?」
「え? 普通だと思うけど。ほら、できたよ三池」
 合澤の言葉どおり、気づけば二つの皿にかなりの枚数の肉ともやし炒めが盛ってある。これだけでも、けっこう満足できそうだ。
「お、マジうまそう。つか、別に野菜とかいらねーんだけど」
「……いらないなら、オレが食べるよ。まさか味噌汁とかいらないよな? 米は炊いてないし、枝豆はあるけど」
「米も味噌汁もいいよ。焼酎とウーロン茶はあっちに持ってって、と、」
「これは持っていくよ。あと、箸と小皿か」
 食器類を用意する合澤が座るのを待って夕飯がはじまった。皿を寄せて、律儀に野菜と肉を交換する彼の横から、しょうが焼きを一枚すくって食べる。うまい。二杯目の濃いウーロンハイを飲んだ三池は、ローテーブルに乗る手料理を食べながら、妹の話を思い出して続けた。
「やっぱおまえの妹なら、かわいいんだろうなあ。俺の妹ほんっとかわいくねえし」
「どうしたんだよ。だから普通だって」
「でも、おまえに似てるんだろ?」
「うーん、確かに弟より妹のほうが似てるかな」
「したら、やっぱ妹はかわいいだろ」
 箸を置いて枝豆に手を出した合澤が、どういう意味だ、と、三池を見つめた。まんま言葉のとおりだ。
「だっておまえ、顔かわいいじゃん」
 当たり前のように答えて、じっと見つめる。合澤の印象は変わらない。小さな顔に二重のぱっちりした瞳。どう見ても女顔だ。面と向かって言ったのははじめてではないが、合澤の動きは止まっていた。
「……ああ、男子校で男に迫られたことがあるくらいは、ね」
 だが、すぐ意味がわかったらしくシュールな切り返しをして、動きを再開する。
 三池は破顔した。合澤のおもしろいところは、本人が自分の見てくれの良さをわかっていることであり、それを武器にするのではなくネタにしているところだ。いつもの冗談が通じる合澤に戻っていて、三池はつい嬉しくなる。
 本当は、ずっと引っかかっていた。彼の表情に、終始隠し切れないわずかな憂いが混ざっている。
 合澤は、大学に通いだしてから知り合った最も親しい友人だ。それもあって、父親が深刻な病で臥せっているという不穏な状況の進展を三池は知りたかった。しかし、気安く尋ねることはできない。合澤はよほどのことがないかぎり訊けば話してくれる男だが、この一週間で起こった件は、その、よほどと言える部類だった。
 弟妹話と高校時代のことを話しながら酒を飲みつつ、テレビを時おり見て、だらだらと食事を平らげる。軽く酔いをまわらせて三杯目をつくりはじめれば、合澤が不要な皿を片付けに行った。三池は目に留まったもうひとつの空いているグラスにも、同じように液体を追加する。
「合澤、氷ない!」
 そう叫ぶと、すぐに冷蔵庫を開閉する音が聞こえた。
「はいはい。あと、プリンも一応、」
 戻ってきた親切な家主から両方を受け取る。氷を入れて、すぐプリンの蓋を剥いだ。
「で、どうなったんだよ」
「なにが?」
 問い返してきた合澤と見つめあう。三池は、無意識に自分の発していた言葉に気づいた。同時に合澤もなんの話題か悟ったようだ。
 彼は座り込んで沈黙した。うっかりした自分を諌めるように、三池はグラスを呷った。テーブルに置けば、氷がカランと鳴る。
「オレ、大学を辞めるつもりだった」
 小さな声がした。合澤のものだ。台詞の重さに三池は瞠目した。
「は? マジで?」
 詰め寄るように顔を覗き込む。彼の反応はない。不安に押されて手を掴めば、驚くほど冷たかった。三池の肝が冷える。
「おい、辞めんなよ!」
「……辞めないって」
 焦ったような大声に、合澤は俯け気味だった顔を上げた。とても困った表情をしながら、ゆっくり言葉を落とす。
「親から、大学は頼むからでてほしい、って、言われてる」
 それを聞いて、ホッとする。しかし、突然出てきた退学の二文字で完全に酔いが醒めた。合澤が時々心あらずで考えごとをしていたわけが、これでわかった。状況はすこぶる良くないということだ。
「でも、あと二年通うなら、もっとバイト増やさないと」
 独り言のように呟く彼を見ながら、先ほど話したばかりの弟妹話がよぎる。まだ高校も卒業していない弟妹がいる状態で、大黒柱の父親が入院してしまったのだ。長兄として大学どころではないと思っているのだろう。特に彼の律儀な性格からして、そう考えるのは当然のように三池は思えた。しかし、現状をしつこく掘り下げて訊ける雰囲気ではなく、気楽なフォローもしにくい。
「この前、立ちくらみしたばっかだろ。無理するなよ」
 彼の一言ですっかりアルコールも飛んでしまったが、こう言う以上に良い言葉は見探せなかった。
「これからも、講義とかいろいろ手伝うからさ」
 そう重ねれば、合澤の口許が緩んだ。
「それは逆だろ。自分のためにやれって」
 好きなもの以外に根気がない三池を、合澤はよく知っている。
「でも、おまえに辞められるのは嫌なんだよ。あ、ノート借りるとかそういうのじゃねーからな」
 自分の気持ちを率直に伝えると、硬い表情に柔らかさが戻る。
「わかってる。辞めないって」
 合澤は決意したように、三池へ言い聞かせた。その声の響きに、三池は詰めていた息を吐く。とりあえず、合澤が黙って退学するようなことはないだろう。そう信じたい。
 三池に新たな不安をもたらした合澤は、逆に少し吹っ切れた様子で、実はバイト仲間から、新たなバイトの話を受けているのだと話しはじめた。
「なんだよ、早いな。それ、どんなんだよ」
「週末の週二で朝までバーってやつ。ちょっと前から誘われてたんだけど」
「それ、オミズ系じゃねえの?」
「違うって。普通のバーだよ」
「でも、突然じゃねえ? なんでおまえ指名なんだろうな」
「顔じゃん?」
 悪びれず即答する合澤に、三池はごもっともだと頷いた。バーの採用条件に容姿が加味されるか知らないが、合澤の顔は女にもてる部類であるし、柔和な雰囲気は客も呼び寄せられるだろう。
「深夜だから時給はいいよ。あと、カクテルとか、酒覚えられるのはいいなあって」
 メリットを持ち出す彼は、けっこう酒が強かった。重い話の後に響く、おいしい単語に三池は目を輝かせた。
「それは、いいな。すげーいいじゃん、」
 手のひらを返したように賛同する。また焼酎をウーロン茶で割りながら、話題は完全に酒一色となった。互い悩んでいても仕方ないのだ。
 合澤も、深刻な話をそれから一度も出すことはなかった。




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