* 掌のひかり【第5話】 *


 その翌々日から、合澤は大学に来なくなった。  最後に会った日の夕方から、連絡が取れない。はじめの二日間は、大学に来ない理由もメール返信がないのも、また家の事情だろうと思っていた。
 律儀な合澤が、自分を無視して退学することはありえない。そう高をくくっていたが、三日目に合澤と講義が被る沼田から、彼が来ていないことを聞いてさすがに心配になった。何度電話してもメールしても返事は一切来ない。一緒にいた村尾にも合澤へメールしてもらったが、同じく反応はなかった。
 沼田と村尾もこの状況に心配こそしていたが、風邪を引いたんじゃないか、一人暮らしの風邪って過酷だぞ、と、沼田が経験者らしい結論をつければ、村尾もそれに賛同して終始した。
 しかし、三池は納得できなかった。合澤の現状は風邪程度の生易しいものではない。退学を考えるくらい不安要素を抱え込んでいるのだ。ただ、合澤本人は三池以外にこの件を知られることを望んでいなかった。気になるのならば、三池が自分の足を使って確かめに行くほかなかった。
 三池は大学の講義をすべて終えてから、合澤宅の道筋を辿った。幸い彼の家は何度も出入りしていて馴染みがある。彼が本当に風邪で家に閉じこもっているだけならば、顔を見るだけで帰宅するつもりだった。留守であれば、また明日にでも立ち寄ってみればいい。それまでに連絡がつけばなんら問題はない。
 基本的に、合澤は大学を休まない性分だ。やはり実家へ急遽帰省したのか、単に体調不良なだけか。三池は一番近い可能性を考えながら、彼のアパートを見つけて敷地へ入る。そのまま階段を昇り、部屋のドア前に立った。
 遠い空の端で鳥の声が響く。陽は翳りはじめていた。静かな住宅街だ。三池が目の前の部屋に耳を澄ませても、特別変わったところはない。物音もしていないようだった。やはり外からだけでは状況はわからないと踏んだ三池は、インターホンを押した。内部で軽快な音が響いたものの、何も反応はなかった。
 次に、スマートフォンを取り出して電話した。つながらなかった。これまでコール音は響いていたのに、電波のないところにいるか先方の電源が切れているというアナウンスが流れている。
 ここ数日ではじめて聞いたアナウンスに、三池は妙に不安を増幅させた。どう考えてもおかしかった。もう一度インターホンを押すが、やはり応答はない。
 業を煮やして、三池はドアノブを握った。とりあえず引いてみようと思ったのだ。
「あれ?」
 玄関ドアは簡単に開いた。つまり、鍵はかかっていなかったということだ。彼が鍵をかけ忘れて外出することはありえない。合澤は中にいるのだ。そう考え直して三池は声を発した。
「合澤? いるのか? もう入るからな!」
 断りを入れれば不法侵入にはならない。返答のない室内に足を踏み込む。あいかわらずシンプルで片付けられた部屋だ。人がいる気配はない。訝しく感じながらスニーカーを脱げば、なにかの音が断続的に響いていることに気づいた。
 隣室から聞こえているものだと思っていたが、すぐ近くから流れている。水音だ。キッチンと向かいにあるユニットバスの奥から聞こえている。三池は掠りの入ったドアに近づいた。目を凝らしてみても、電気がついていないせいで状況はわからない。しかし、水音は断続的に続いている。蛇口を締めずに外出しているのは異様だった。
 確認のため、三池は閉まっている扉を躊躇いなく押した。空間が開放されるとともに、湿気った空気と確かなシャワー音が広がる。なにもないように見えたが、なにかを感じて、ふと視線を落とした。
 暗いバスルームに、動かないものがあった。
 三池は驚いて、室外にあるバスルームのスイッチをつけた。肌色のものがバスの中で半ばうずくまっている。灯りに照らされたのは人間の身体だ。容赦なく温い水が背中一杯に当たり、それはどうみても合澤の裸体だった。異常な状況に三池は声を張り上げた。
「おい、合澤!」
 バスルームに大声が響いても、彼から反応はない。緊急の事態かもしれない。三池はシャワーを締めて、裸で座り込んでいる合澤に手を伸ばす。深く項垂れた彼は動かない。ずぶ濡れになった髪から滴が幾重もこぼれ、寒々しさは増す。三池は異様な状況から抜け出そうと、腰を曲げて彼の肩をつかもうとした。
 指が皮膚に触れた瞬間、合澤がビクッと大きくわなないた。振り払うような仕草に、手が反射的に止まる。戸惑う三池をよそに、合澤が身を壁側に寄せ、三池が触れようとした皮膚を手で強く押さえた。
 過剰な彼の拒絶を、三池は呆然と見つめていた。
「合澤」
 居たたまれず名を呼ぶ。合澤は声の主にようやく気づいたのか、少しだけ顔を上げて三池を見た。しかし、すぐ顔を伏せる。三池は、彼が怯えているように見えた。風呂途中で体調がおかしくなっただけかと思ったが、そうでないことは明白だった。様子がいつもと違う。
 だが、この状況に説明を求めるより、彼をバスルームから出すことが先決だった。このままでは本当に風邪を引いてしまう。合澤の身体を拭いて着替えさせてから、状況の経緯を訊くことにして三池は上体を起こした。
「ちょっと、タオル取ってくるからな」
 そう宣言して、バスルームを一度出た。たびたび訪れている家だから、タオル置き場もなんとなくわかる。バスルーム周辺に拭くものが用意されていないと知って、三池はベッドのある室内へ足を向ける。ベッドの下も収納スペースになっていて、タオルなどがしまってあったはずだ。
 しかし、タオルを見つけるよりも先に、目に留まるものがあった。
 ベッド横にあるローテーブルになにかが無造作に撒かれてある。地味な紙切れの色だが、その枚数に三池は凝視した。
 一万札だ。
 十枚以上も散らばっている。
 ……とても嫌な予感がして、三池はタオルを手にすることなく踝を返した。狭い1Kの中を駆けてバスルームへ戻る。合澤は三池が出たときから一ミリも動かず縮こまるようにして俯いていた。そのバスの縁に両手をかけて、曝け出された肢体をじっくり見る。
 鬱血に近いような赤い痕が、彼の肌に点々と散っていた。その色づいたものが、三池には信じられなかった。
 嘘であってほしいという思いのまま、声を荒げた。
「なんなんだよ、あの大金」
 裸の彼に言っても反応はない。三池は込み上げるものを理性で制しながら、核心をついた。
「おまえ、マジで……身体売ったのか、男に、」
 頼むから嘘であってほしい。
 数日前に聞いた話は、冗談だったのではなかったのか。
 合澤の肩が、ビクッと震えた。あからさまに怯えたような反応だった。真意を聞かずとも、それだけで三池はわかってしまった。
「最低だ」
 無意識に言葉が洩れた。それを皮切りに青ざめていた感情が容赦なく溢れる。止めようのない怒りがはらわたに渦巻いた。
「おまえは、最低のバカだ!」
 動かない合澤へ激昂して、三池は部屋を飛び出た。
 耐えられなかった。テーブルに撒かれていた一万円札と、彼の裸体の痕がフラッシュバックする。振り切るように走った。
 太陽の沈んだ空の下で駅を見つける。滑り込んできた電車が、タイミングよくホームで口を開いた。三池は救われたいと身を押し入れる。一秒でも早く、この土地から離れたかった。しかし、知ってしまった事実はどこまでも三池の脳内を這い回る。硬いドアにもたれて目を閉じた。
 揺れる地面にあわせて、次駅のアナウンスが響く。
 なにもかもが白々しく聞こえた。今さっき見て知ったものすべてを投げ捨てたい。痛烈に思いながら詰めていた息を吐く。眩暈がしそうだ。言葉にできない感情を、三池は押し留めるだけで精一杯だった。




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