* 手の中のひかり【第6話】 *


 週が明けてしまった。月曜日という名前の一日に、気が滅入ったまま玄関の扉を開ける。これから掃除をはじめるという母親と家に居ても、後でなにか愚痴を言われるだけだ。しかし大学へ行く気は起こらず、今日も反対方面の電車に乗って繁華街へ繰り出した。気分は最悪なままだ。ため息とともにスクランブル交差点を通過する。
 新しい朝がきても、目ぼしいものや面白いことは全部心からすり抜けてしまう。土日は友人を誘って遊んでやろうと思ったが、あいにくの雨で閉じこもった。深夜の時間しのぎに自室でゲームをしても気は紛れず、漫画を読んでも実に入らない。いつまでも切り替えができない自分にも腹が立った。家族にも機嫌悪く接していたほどで、今も自分がどうしたいのかもわからない。ただ、合澤のしたことが許せない。
 ……合澤が簡単に身体を売るような人間だと、思いもしていなかった。
 当たり前だ。しかも、男に対して売ったのだ。
 確かに先週、援助交際という少し古びたような売春用語をたまたま合澤の口から聞いてはいた。でも、あのときは本気になって受け取らなかった。三池にとってそれはあまりに現実味がなかったのだ。だから、くだらねえ質の悪い冗談だと吐き捨てた。彼も、あのときは三池の意見に同調していたはずなのだ。
 今でも、あの目にしたものが信じられない。合澤は大学に入ってから毎日のように会って親しくしてきた相手だ。三池とは専攻も同じ、受ける講座も半分以上が一緒、そばにいて最も気楽な相手が合澤で、彼のことはよく知っているつもりだった。尊敬できるところもあるし、とても好ましい人柄だ。
 そんな彼にたいして、今は嫌悪感よりも怒りが先行している。合澤のことを考えるたびに、ずぶ濡れになって動かない姿ばかりが脳裏に何度も再生される。紅い痕は血の気の引いた裸体に映えていた。思い出したくないのに思い出す。そして心が暴れる。
 街をいくら徘徊しても無駄だと思いながら、三池はただひたすら人通りのある道を渡り歩いた。大学の講義を放棄しても、他にしたいことはない。食欲すらわいてこないのは、我ながら異常だと三池は感じていた。
 好きな音も、耳から抜けていってしまうだろう。そうわかっていながら、時間潰しにレコードショップへ立ち寄った。平日のフロアは人もまばらで快適だ。一棟が丸々音楽で埋め尽くされる店内を物色して、三池は気になるアーティストを見つけることに意識を割いた。紹介欄を見ながらヘッドホンをつけて、大音量の新譜に集中する。少しだけ音色が琴線に触れた。その調子で音に没頭したい。合澤の件を忘れたい。そう念を込めながらバッグを抱えなおす。すると、タイミングよく中身が振動した。
 メールだと気づいた三池は、バッグからスマートフォンを取り出した。あの日を越えたきり、合澤からメールや電話は一度も着ていない。三池が安心してこの通信機器に触れられるようになったのも昨日からである。それまではスマートフォン自体を遠ざけていた。合澤からの連絡が届くことを恐れていたからだ。しかし二日経つと、彼の性格から電話連絡をしては来ないだろうと冷静に判断できるようになった。
 そもそも合澤からすれば、誰にも知られたくないことを三池に暴かれてしまったのだ。合澤があの件で話したいことがあるとすれば、面と向かって三池に伝えようとするはずだ。
 スマートフォンが受信したメールは、同じく大学の友人である村尾からのものだった。三池は肩に張っていた力を抜いて中身を見た。
 文面には、大学に来ないのか? と書かれ、合澤がおまえを探してる、との一行が続けられていた。
 三池は即座にスマートフォンをオフにした。
 ふざけんな。
 どのツラ下げて言ってやがんだ。
 合澤の動向など知りたくもないのに、油断していた。自分のことを探している合澤を思えば、また腹立たしくなる。気を逸らせてくれたミュージックはもはや意図を解さなくなり、三池は叩きつけるようにヘッドホンを元の場所へ戻す。憮然としてフロアを降りた。
 埒が明かない。
 でも、大学へは単位の関係上どうしても行かなければならない。
 だからといって、合澤にはどうしても会いたくない。
 ぐるぐると気持ちがせめぎあう。子どもじみた感情かもしれないが、同性へ身体を売って大金を手にしたやつと話をしたくもなかった。しかし、そのままでは大学に行けない。単位習得も厳しくなってしまう。
 三池は、夕方になってようやく考える内容を切り替えた。講義の大半が同じ合澤に、どう接触せず受講するか。それは最も考えなければならない重要な事柄だった。日が暮れるまで街を歩き、その解決法を模索した。
 その翌日から、講義をきっちり受けはじめた。単位が取得できるギリギリのラインを計算して、遅刻や欠席をフルに利用することにしたのだ。出席さえ取れればこっそり退散できる授業はラッキーだった。講義の開始、終了直後に教室を出入りすればどうにか合澤に会うことはない。そうした大学生活を数日続け、時々ニアミスのようなことはあったものの三池の目論見は大方成功した。
 その分、いつもつるんでいる友人と会う機会も減っていた。
「あれ、……なんか、ひっさしぶりに顔見た気分なんだけど。おまえ、今週大学ちゃんと出てた?」
 席に座ると、隣の村尾が少し驚いた表情で三池に声をかけた。
「でてたぜ」
 三池は複雑な気分をたたえて苦笑する。彼が言うとおり、面をあわせたのはほぼ一週間ぶりだ。
「講義全部はいなかっただろ?」
「全部じゃねーけど、ほとんど出席は自力で取ってるよ。つか、水曜の午後はちょっと会ってただろ」
「まあな。でも、挨拶程度ですぐ帰ってたじゃん」
 そう言った村尾は、理由を訊くことなく目を教壇へ向けた。タイミングよく、彼の贔屓にしている若い女性講師が入室してきたのだ。三池は村尾の横でこっそり息をつく。この曜日は村尾とほぼ講義がかぶる一方で、合澤と会う確率が最も少ない。気楽に大学へ行けるのは嬉しく、今日はいつもより早く家を出たのだ。
 本当、変な毎日送るようになってしまった。
 三池は黒板を眺めながら頬杖をついた。毎回タイミングをはかって教室へ出入りするのも、さすがに面倒になってきている。合澤の時間割を鑑みて、計算づくで行動しなければならないのは本当に面倒だ。合澤も三池の時間割をある程度把握しているだろうが、三池の授業を待ち伏せるほどしつこい性格ではない。おかげで遭遇は免れている。
 秋は最中にあった。窓の外を見れば、霧のような雨が続いている。先週に比べ一段と気温が冷えてきた。暑いのより寒いほうが苦手な三池にとって、これから起床し辛い季節を迎えるのはどうにも憂鬱だ。
 こうして少しずつ冬が近づいてきても、三池の抱えている心情はなにも解決していなかった。授業を終えてから食堂へ向かう。今日は合澤が午前中のみの講義で帰宅すると知っているから、これからの時間はのびのびできる。
 昼食中も、村尾はありがたいことに合澤の話を持ちださなかった。早々に込み合う食堂を離れ、いつものように売店、カフェテリアへと移動する。村尾と共通の趣味で盛り上がっていれば、沼田がやってきた。
「あ、ミイちゃん久しぶり」
 三池は視線を上げて頷く。しかし沼田の視線は食べかけのプリンに向かっていた。またプリン食べてる、というような表情も癪に障った。
「んや、久しぶりでもないだろ。水曜も会ってんじゃん」
「そうかあ? 確かに水曜会ったけど」
「ちょっとだけだよなあ?」
 スナック菓子をあさる村尾が同調する。その隣に沼田が座った。
「なんかさあ」
 思わせぶりな口調で、菓子パンの袋を開ける。そして、大きな一欠けらに千切った。
「合澤がミイちゃんに会えていないって嘆いてたよ」
 そう言ってパンを食べはじめる沼田を、三池はにらんだ。のんきなものだ。その横で、村尾が眉をひそめた。
「でも、合澤と三池って講義かなりかぶってんじゃん。ずっと会えないってことはないだろ」
 視線が渦中となった三池に集まった。間髪を入れずはじまった合澤ネタに口許も曲がる。二人はすぐ気づいたのだろう。三池が会わないように仕向けていたのだ。
 それを、知らないふりして三池は言い返した。
「会いてーなら、別に今来ればいい話だろ」
 いない本人へ挑発するような言葉にしたが、本当にやって来たら逃げるつもりだった。沼田は三池の発言に頷いた。
「まあな。でも、合澤すんなり帰っちゃってたけど」
「……っていうより、おまえらさ」
 箸で三池を指した村尾に眉をひそめるが、彼は気にしていない。
「マジ、なんかあったんだろ? 会ってないとか会えてないとかおかしいだろ」
 おまえらなんなんだよ。
 そう突っ込んで訊かれる前にけん制する。
「あいつが悪いんだよ。も、この話振んな」
 二人をきつくにらんだ。ここまで身近な人間にたいして拒絶感を見せる仕草を三池はほとんど見せたことはないが、今回に限ってはやむを得ない。三池のきつい言い方に、顔を見合わせた二人は意向に沿ってくれた。その日は、それで収拾した。
 今の合澤に関して知りうるすべての事情を曝け出すほど非道なことをしないだけましだった。友人たちも、合澤の現状を知れば唖然とするに違いない。
 翌週はじめの必修授業は、合澤とよくつるむ友人が全員集まっているため、出席カードを渡しただけで教室から逃げ出した。心臓に悪い場所からカフェテリアに行き着いて、提出が迫るレポートの資料を広げる。午前中のこのフロアは、雑談可能な図書館みたいなものだ。勉強やレポートに集中している学生が多く、三池も数十分間は面倒な作業に集中した。それにある程度のめどがつくと、気分転換にスマートフォンをバッグから取り出して時刻を確認する。誰かの着信があった。
 合澤の名前が、最新の履歴に載っていた。三池は、それを目にして動けなくなった。
 とうとう合澤が連絡を入れてきたのだ。バイブが振動していたことに気づかなかったのはよかったのかわからない。三池は画面に表れる名前を凝視し、すぐ広い室内を何度も見回した。合澤が授業を捨てて自分を探しに来るのかもしれない。そう思って覚悟した。
 あのできごとから、すでに十日が経過している。さすがの三池も、少し落ち着いて合澤のことを考えられるようになってきていた。確かに、合澤のしたことはいまだに気に食わない。しかし、彼と同じ大学で専攻すら同じならば、逃げ回ったところで限界は来るのだ。いずれ対峙しなければならない、と、冷静に判断できるようにはなっていた。
 ただ、感情が追いつかない。自分からリアクションを取る気にはまだなれなかった。面と向かったとき、合澤になにを言ってしまうかわかったものではないのだ。
 またぐるぐる考え出した自分にうんざりして、三池はテーブルに突っ伏した。目の前にあるレポートも、もうやる気が起きない。締め切った窓から秋の日差しが柔らかに注いでいる。首の当たる心地よい陽の暖かさに、気づけば三池は眠っていた。
 聞き慣れた雑音で意識が戻った。慌てて顔を上げると、自分の周りに村尾と沼田と柳瀬が座っているのに驚いて、声を上げた。
「な、うわっ!」
「なんだよ。おまえ、マジでよく寝てんなー」
 村尾呆れた声とともに、それぞれに広げている食べ物で昼時になったのだと気づく。
「え? マジもう昼?」
「昼だよ。おまえ、いつから寝てたんだよ」
 目を眇めた柳瀬が訊いてくる。それは三池自身も考えたくなかった。おそらく一時間半は寝ていただろう。大学で見境なく爆睡したのははじめてだった。この土日も考えごととゲームで終始してしまい、あまりよく眠れなかったせいかもしれない。自室に籠もるのならば、中学受験で忙しい母妹も文句は言わない。先週まであからさまに不機嫌を態度に出していたせいで、疎ましがられていたのだ。
 今は冷静になってきている。それでも、合澤のことを考えると胸がざわつき出す。
「午前の必修は出てたから、いいんだよ」
「ミイちゃん、出てたんだ? 合澤ちょー探してたのに」
 売店の弁当をつつきながら語られ、沼田を見た三池は黙る。着信が入っていたから知っている。訊くべきか訊かないべきか考えたが、この場に合澤がいない理由をやはり訊くことにした。いつもならば、彼も午後は授業があるから大学で昼食を摂るのだ。
「で、あいつは?」
「用があるんだって帰った。午後の授業は出たいけど仕方ないとかなんとか言ってたような」
「だから次のやつ出席手伝ってやるよって約束してやったんだよ。俺も、まあけっこうノートとか世話んなってるし」
「つか、合澤って最近マジ講義休みすぎなんじゃねえ?」
「そうだよなあ。本当に忙しいとかって言ってたけど」
「ありえねえよな。授業は律儀に出るやつなのに。あいつ、なんかあったの?」
 柳瀬と村尾の会話を聞いていれば、最終的に三池に視線が集まる。合澤のことは三池が一番よく知っていると言わんばかりだ。確かにそれは間違っていないだろう。しかし、話したくもない。
「知るかよ」
 憮然として返した。柳瀬が、あ、こいつ知ってるな、という表情をしたのですぐ立ち上がった。
「俺も昼飯買ってくる」
「食う時間ねえぞ」
「先、教室行って食ってるよ」
 三人に合澤とその事情を問われてもきつい。退散するようにカフェテリアを離れた。どうせ、彼らとはまた次の講義で会うのだ。学内にある売店で焼きそばパンを買って教室に行く。人気のない室内で黙々とパンを食べていれば、学生が少しずつ集まってきた。三人も早い段階でカフェテリアを離れたらしく、室内へ入って三池のところに集まる。そして再開した雑談に、合澤の話題はなかった。
 年配の講師がプロジェクターでDVDを準備する間、隣席の沼田から、三池が以前より借りたがっていた漫画の話を持ち出された。前に貸していた知人から一式返してもらったということで、すべての講義が終わると彼の住むマンションへ寄った。
「そろそろ、ここで飲み会したいよなあ」
 沼田の家は大学の最寄り駅に近い。立地的に使い勝手のいい彼の部屋を見ると、すぐ念頭に上がるのは飲み会だ。居ついてしまうからという理由で玄関口に立つ三池へ、漫画の詰まった紙袋を手にしながら沼田が苦笑した。
「そうだよなあ。あっちゅー間に冬になるし、これからだとやっぱりうちで鍋ってのが一番いいか。まあ、別のメンツではちょいちょいここで飲んでるけど。ミイちゃんたちと最近飲んでないもんなー」
「だよな? まあ、飲みなら俺も中高一緒のやつらとかと行ってるけど」
「ミイちゃんって、聞くとそういうのけっこう多いよな。地元がそばだとそういうのもできていいよなあ」
「地元ってか、俺んとこは中高が私立だったから家の場所はすげーばらばらだぜ。そのまま付属の大学あがったやつも多いし、学校の近くならすぐ集まりやすいっつうか」 「おまえの話聞くと、ほんと都会っ子だなあって思うよ」
「なんだそれ? つか、中学から大学までエスカレータ式ってのはすげー楽だけど、ずっと同じメンツってのは正直飽きるぜ? それより、一人暮らしのほうが断然いいだろ。それに外で飲むより家飲みのほうが一番楽しいって。だらだらできるし。中高のやつらは全員実家住まいだから、そういうのできねーの」
 三池の発言を沼田に聞いて不思議そうな表情をする。
「っていうか三池の基準ってなんかさ……」
「なんだよ?」
「なんか独特っていうか……いや。まあ、いいや。じゃ、今度皆の予定聞いて決めるか、飲み会の日」
 沼田の言葉は首を傾げるものだったが、彼自身が話を変えたので三池も頷く。今回の用は、沼田が目の前で手にしている紙袋の中身なのだ。
「だな、飲み会のことはおまえに任す」
「はいよ。で、これ。けっこう重量あるから紙袋が途中で破けるかもしんないけど」
「そんときは抱えて持ってくよ。って、この漫画、連載はじまったの最近なのにけっこう出てんだな」
「週刊のやつだから、刊行ペース速いんだよ。……それでさ、ミイちゃん、」
 声のトーンが少し落ちた。軽く首を傾げた三池に、沼田が一度咳払いをした。
「こんな話するのもあれだけど、言っとく。合澤がさ、おまえに謝りたいとかって言ってたんだよ。おまえが先週、合澤が悪いのなんのって言ってたじゃん。それ、うっかり俺口にしちゃって。そしたら、すんごいショック受けた顔したんだよ。あんな合澤見たのちょっとはじめてだったから、なんかなあ」
 三池は沼田を見つめた。当の本人に三池の「合澤が悪い」発言は伝わっていたようだ。しかし、彼が一体なにを謝るというのだろう。
 そもそも、合澤が三池に謝る必要性はない。
 そのことに、三池はたった今気づいた。ならば自分は合澤になにを求めていたのだろうか。なぜここまで怒りを覚えたのか。合澤は単なる友人だ。それ以上でもそれ以下でもない。身を売ろうがなにしようが、彼が決めたことに本来介入する権利はない。
 沼田は、合澤が心配だ、とまでは続けて言わなかった。しかし、そう言っているようなものだった。野暮な台詞を口にしたという表情をする彼の気持ちを三池は汲みとった。
「わかったよ」
 返答の言葉を探すよりも先に、無意識に言葉を返していた。沼田は黙ったまま頷く。
「じゃあ、これ借りてくな」
「うん、気をつけて帰れよ」
「おう。また明日な」 
 互い深入りせず玄関先で別れた。
 三池は帰路を急ぎながら、合澤の境遇を思い返した。身体を売る以前の話だ。大病で入院しているという父親の件はどうなっているのだろう。沼田たちからそれについて一切話題に上らなかったことを踏まえれば、いまだ合澤の事情を皆知らないはずだ。すると、やはり今も合澤のことを一番知っているのは三池なのかもしれなかった。
 次に、自分が合澤から逃げている理由を客観的に考えた。
 ……単純に彼を前にして冷静でいられるかどうか自信がないせいで、会いたくないのだと気づいた。しかし、合澤のしたことに怒っていても仕方ない。第一、彼自身が決めたことに三池が憤る資格はない。ならば、なぜ腹が立つのか。自分でもよくわからなかった。理不尽な怒りを見せつけたことは、……合澤に悪かったかもしれない。
 三池は決心した。
 帰宅中の電車内で、合澤晴巳のメールアドレスを探す。そして、「明日、話がしたい」とスマートフォンから送信した。自宅に着いてすぐ、彼から返信がきた。
 明日なら夕方、家に来てくれると嬉しい。
 文字の羅列がそうかたどっていた。簡潔な彼からのメッセージに、三池は少し肩の力を抜いて了承した。
 とりあえず、身を売ったことについては脇に置く。それで合澤と会う。軽く段取りを考えると、気持ちは幾分落ち着いた。だが、なぜ夕方指定なのだろう。大学の講義には出ないつもりなのだろうか。
 疑問を抱きつつも、翌日になればわかることだと思い直す。母親に夕食だと呼ばれ、スマートフォンを机に置きリビングへ足を向けた。
 当日、思ったとおり学内に合澤の姿はなかった。彼が受講しているどれかに顔を出していたかもしれないが、少なくとも三池と被っている講座には現れなかった。単位を本気で落とすつもりなのか、と、三池は首を傾げながら、久しぶりに彼の出席を代理で取った。これには、会ったときの話題になることも念頭に入れていた。
 昼になって、スマートフォンが振動した。合澤からの時間変更願いのメールだった。
『夜の八時になる、泊まってもいいから、ごめん。』
 その旨を三池は承諾した。毛頭、泊まるつもりはない。大学に来なかっただろ、代わりに出席取っておいた、とメールを打つ。本当にいつもありがとう、とすぐにメールが返ってきた。
 三池は合澤のために夜を待った。大学で空いた時間を提出必須のレポート準備に回し、先に寄って買った売店のおにぎりで腹ごなしもする。そして、彼のアパートへ向かった。待ちぼうけするのは好きではないが、大学の図書館が閉まると勉強場はなくなる。スマートフォンの電池もギリギリで不用意に使えなかった。
 これから少しずつ増えていくテストやレポートのことを考えながら、彼の部屋の玄関先にしゃがんで待つ。見上げれば、夜空がとても綺麗だった。秋の空は異様に澄んでいる。電灯に打ち勝つ星の光を、闇の中でいくつも見つける。
 階段を上がる足音がした。隣人が来たのかと目を向ける。合澤だった。待ち合わせ時間より少し早い登場だった。三池は立ち上がった。
「三池、待たせた。ごめん」
「いいよ。思ったより早かったな」
 謝る彼を落ち着いた声で制す。久しぶりに面と向かって彼を見た気がした。長袖のトップスにカーディガンという、季節のわりに少し厚着の恰好だ。柔和な顔立ちのせいで、ラフな服装をすると三池より年下に見える。
 バッグから鍵を探す合澤に近寄ると、妙に甘い香りがした。少し焦ったように、彼が開錠した。
「部屋入って。本当に待たせて、ごめん」
 もう一度謝って彼がドアを開ける。三池は、合澤が一度も目をあわせていないことに気づいた。あの気まずい出来事の後で久しぶりに会ったのだから、さすがに気が引けているのだろう。
 ……しかし、それだけではないような気がする。三池は直感で動いた。
「おい」
 少し強い声で引き止めてみる。すると、彼の肩が途端に、ビクッとわなないた。悪事が見つかった子どものようだった。あからさまな反応に三池は表情を失った。
 問答無用で合澤の腕をつかむ。玄関口に押し込み、彼を自分の正面に立たせた。ドアは勝手に閉じていく。壁のスイッチに触れて電気をつける。鋭い眼光で見つめれば、合澤は気まずそうに目を逸らした。
 その首筋に隠しきれていないひとつの痕があった。妙に鮮やかで綺麗な色だ。三池は彼の服をつかんで引っ張り、首許を曝け出す。鬱血する情痕がいくつもあった。
 ……自分を待たせておいて、これはなんだ。
「おまえ、帰ってくるまでなにしてたんだよ」
 三池は怒気をはらんで尋ねた。答えるわけがないとわかっている。わかっていても、信じたくない。
 壁に押し付けられた合澤は、ただ目を伏せる。目蓋を閉じて黙っていれば済むと思っているのか。猛烈に怒りが込みあがった。
 自分の殻に籠もるような、卑怯な真似はさせない。
 バスルームで呆然としていた合澤が、目の前のものと重ならなくなっていた。男に身を売ったことを後悔していたのではなかったのか。あのとき、確かに彼は心から傷ついていたではないか。三池はあの事実を知って傷ついたのだ。
「ふざけんな! 俺を見ろよ、合澤!」
 怒声に合澤が震える。綺麗な二重の目は三池の言うとおりに動いた。暴かれることを恐れるような表情だった。
「時間変更させて、おまえなにしてた? 言えよ! 言えるだろ!」
 容赦ない視線で彼を射抜く。そして、沈黙をつくる。わずかに合澤の頭が横に揺れた。言いたくないという意思表示だった。ブチン、と、三池の頭の中でなにかが切れた。地を這うような声を出していた。
「……そりゃ、言えるわけねえよな。俺を待たせて、また男とヤッて金取ってたって」
 合澤の呼吸が止まった。身体が硬直するのが、強くつかむ腕からわかる。
「なあ、身体売って、いくらもらったんだ? 今日とかこないだだけじゃないんだろ?」
 瞠目したままの彼に畳みかける。絶句している合澤を見れば、そうなのだとわかる。カマをかけたことが真実だったと知り、三池は目の前が真赤になった。
「おまえ、最ッ低だ! 自分でバカなことしてるって、わかんねえのかバカ!」
 侮蔑よりも裏切られた猛烈な怒りで支配される。壁を叩いて罵った。
「きったねえ金にすがって、クズみてえなことしてんじゃねえよ! バカ野郎!」
 息を荒げて合澤を強くにらむ。どうしても許せない。しかし、くちびるを噛んで三池を見つめる彼に、三池はすぐ目の色を変えた。
 彼の頬を伝ったものが、ぽたりと玄関に落ちる。
 合澤の瞳から大粒の涙がこぼれていた。
 三池はショックのあまり呆然とした。静かに泣きはじめた彼から手を離す。力を失った合澤は壁にもたれてずるずるとへたり込んだ。
 合澤が泣いている。……泣くとは思わなかった。
 いや、泣かせるつもりはなかったのだ。
 そう思うのに、まだ罵声を吐きたい衝動がくすぶっている。もっとひどいことを言いたい。怒りをぶつけたい。激昂する自分に、コントロールが利かない。
 三池は部屋を飛び出していた。混乱がおさまらない。胸軋んで苦しい。あんなことを言うために会ったわけでも、あんな事実を知るために会ったわけでもない。なのに、結果的にまた合澤を傷つけていた。同時に自分も傷つけられていた。
 もう本当に会わないほうがいいのかもしれない。そんなことを真剣に考えた。自分でも本当に、どうすればいいのかわからない。苦しくて胸が痛い。
 宛てなく歩く。ただ理性を取り戻すために、ただひたすら歩いた。
 夜道を翳す人工の灯火は脆い。人の心も、脆い。
 気づけば彼のアパートの側に戻っていた。時間隔はなく、スマートフォンで現実を確かめる。一時間以上経っていた。三池は合澤が留まっているはずのアパートを見上げた。
 冷静さを少しだけ取り戻す。一番はじめに、合澤を泣かせてしまったことがとても気にかかった。
 彼の泣いた姿を見たのははじめてだ。しかも、彼が勝手に泣いたのではなく、三池がなじって泣かせたのだ。大きな瞳から転がる水滴は、ショックをとめどなく生む。胸の奥が軋み、そこに不安を根付かせる。
 三池は敷地内に足を踏み入れ、階段を昇った。そして、彼の部屋の前で立ち止まる。なんの物音もしていない。深呼吸をひとつして、玄関ドアを開けた。
 つけっ放しの電球の下に、合澤がうずくまっていた。ひとつも動かず、震える肩がかろうじて呼吸していることを教えている。三池は玄関に入ってドアを閉める。そして、合澤の目の前に立った。
 この状況を受け入れようとするだけでも、膨大な理性の力を必要とした。三池は目を閉じて律する。そして、目蓋を押し上げて身を屈めた。
「言い過ぎた。悪い」
 謝って玄関から移動させようと、合澤の二の腕に触れた。その途端に、強い力で振り切られた。それはバスルームのときと同じだった。
 ただ違っていたのは、拒絶した彼が三池をちゃんと見上げていることだ。充血して紅く染まったくちびるが開かれた。
「じ、自分が汚れてるって、わかってるよ!」
 はっきりした口調だった。自分で言いながら、深く傷ついたような表情を見せた。頬に新たな涙が転がっている。一時間以上もの間、ずっと泣いていたのか。三池はそうした彼を見下ろした。
 嗚咽を殺して泣く合澤が、あまりに惨めでかわいそうに思えた。
 三池は彼の目線まで腰を下ろした。
「合澤」
 名前を呼ぶと、涙を止められない彼は怯えたように俯く。バスルームで裸体を見つけた場面がフラッシュバックする。それと結局、今もそう変わりはないのだと改めて三池は気づいた。
 合澤が、これほど追い詰められているとは思ってもいなかった。
 親が大病で倒れたと話したとき、大学を辞めようと話したとき、彼は懊悩する様子を見せていたが、気丈に解決策を見出そうとしていた。
 でもそれは、見せかけだったということだ。三池がいつもと代わり映えない日常を続けている近くで、合澤は自分の不幸な境遇をさらに貶め続けていたのだ。
 彼の哀れな姿を、三池はこれ以上見たくもなかった。
「もうすんなよ」
 そう言葉にして三池は近づき、そっと腕に触れる。合澤はもう抵抗しなかった。慰めになるかわからないまま、衝動に任せて我が身へ寄せる。
 項垂れたままの合澤の頭が、三池の肩にあたった。つかんでいた手を滑らせて、抱きしめるように彼の背中を押す。そっと撫でれば、合澤の両手がゆっくり三池の胴に回った。ふわりと香料のにおいがして、甘く主張する香りを三池は吸った。彼の身体は明らかに痩せていた。
 嗚咽をこらえながら、三池の腕の中で泣く。それは合澤の弱さそのものだった。心も身体も貶めてしまったのだ。
 三池は泣き止まないに彼に肩を貸して、もう一度口にする。
「絶対に、もうするな。……頷けよ」
 震える身体をもっとそばに抱き寄せる。腕に力がこもった。彼は三池の望むように、小さく何度も頷いていた。




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