* 白線マグノリア *


 はらりと落ちたものに際だった白さを見留めて、邦智は頭上右に立ち並ぶ木々へ視線を向けた。薄く消えゆく日光を背に枝を伸ばす樹木は節を張り、桜にしては大振りの花弁が何枚も身を寄せるようにして反っている。一面に咲くというよりは、点在してその美を主張しているようだ。
 その種は木蓮か辛夷か、そうした系統のものだった。歩みを止めない自身の足は、いつのまにか桜並木を通り抜けていたようだ。いつ桜からそれらへ花の類が移ったのか。邦智は覚えていなかった。無意識に視界に入れてしまう対象が目の先にひとつ、あれのせいで焦点が絞られているせいかもしれなかった。気づけばただひとりの人間に眼が向いてしまうのだ。
 足元を見れば、湿ったアスファルトに落ちた白い花弁が汚れていた。昼前まで降り続いた雨にやられ、桜だけでなく木蓮の開花も収束しようとしている。
 少し前へ視線を戻せば、邦智の手前を歩く眞弓が汚れた花びらをスニーカーで踏んでいた。『車道を通るんだったら、少し迂回して公園突っ切ろうぜ』。夕刻を過ぎたときに彼がそう口にして、この道を歩いている。
 公園の出入り口にはまだ人が多く残っていたが、サイクリングコースとして定められた奥の道に人影はなかった。道を進んだ突き当たりにある左手の坂を下れば、大きな公園の裏門が構えてある。そこから各種の交通手段が利用できた。それぞれの帰宅ルートへ分かれていく。
 暮れていく空にも、木に咲く白地の花はよく映える。ここらの花見は、あと一度雨に降られれば見納めになるのだろう。出入り口付近にあった屋台も規模が縮小されるはずだ。通過するだけのささやかな花見を演出するように、邦智の手には屋台で見つけた物珍しい銘柄の瓶ビールが握られていた。見たことのないラベルは国内産の地ビールだ。そして、邦智より数歩先に歩く彼の手の内にも瓶ビールがあった。
 地域限定生産のビールを売る屋台を見つけたのは邦智で、ビールが飲みたいと言い出したのは眞弓だった。しかし先に購入して飲んでみたのは邦智だ。彼は邦智の様子を見て買うことに決めたのだ。眞弓の手にしたラベルは、邦智と色が違う。彼はヴァイツェンを選んで、邦智はピルスナーを取った。双方で味が微妙に異なる。
 花冷えの時期らしく、空気は冷たく凛としている。眞弓は清涼な空気を好むところがあった。幼い頃に喘息もちであった名残か、なるべく空気が澄んでいそうなルートを選ぶ。都心でそうした部分を求めれば必然的に遠回りな道中となってしまうが、邦智は彼のちいさなワガママを毎度受け入れていた。近くの公園にはまだ桜が残ってんじゃねえか、と、言い出したのは邦智のほうでもある。
 先ほどまでは彼も邦智の隣を歩いて、桜の様子や初めて飲むビールの味の感想を、ああでもないこうでもないと話していた。二人連なって歩くことはよくある。眞弓の提案を嫌がらないのはいつも邦智で、気づくと眞弓のストッパー役に仕立て上げられていた。邦智は眞弓のはっきりした性格が憎めない。
 それに、最近は彼を見留めるたびに、邦智の胸の内には形容しがたい感情が生まれるようになっていた。細身の後ろ姿は散々見ている。勘が良く頭の回転も良い。好きな傾向もよく知っている。
 彼のビール瓶を持つ反対の腕が動く。丸められたスポーツ新聞を握りしめた手が、トントンと自身の肩を叩いた。持ち物も仕草も男臭さを演出する以外の何物でもないというのに、邦智の心に、またしても、もやもやした気持ちが生まれる。
 ささいなところからも、妙にかわいげを見いだすことができるようになるとは、自分でもどうかしている。
 そう邦智が思った矢先に、彼が歩みをゆるめて視線を向けてきた。ほぼ同じような目線の高さは、先ほどの会話を続ける調子を保っている。
「なんか、においするよな? 香水っていうか、花っぽい感じの」
 確認するように眞弓が尋ねてきた。においに敏感な彼らしい発言だった。花っぽいのならば、邦智のつけている香水とは違う。花といえば、前方にまた木蓮の樹が見える。
「そこに咲いてる花のにおいじゃねえか?」
「花? あ、そうか。あれか」
 邦智の回答をあっさり受け入れた眞弓が、視線を少し落とした。
「なあ、それまだ残ってんの?」
 指しているものは、瓶ビールだ。少し前に、それはどんな味がするんだ、と、訊いてきたのだから味が気になるのだろう。邦智は眞弓に魅せるために中身を持ち上げる。瓶の中には残り四分の一ほど残っているようだった。断定できないのは、情景と瓶の色が暗すぎるせいだ。
「あとちょっとしかねえけど」
「じゃ、それと交換」
 有無を言わさない眞弓の発言は、多少想像できていた。邦智は差し出すことで了解を伝え、歩調をゆるめたままの二人は瓶を交換した。眞弓の瓶も軽い。飲んでみようとしたところで一瞬、間接キス、という、中学生が考えそうな初々しい単語が頭に浮かんだ。しかし、すぐ別のことに気をとられた。中身が入っていないのだ。
 眞弓はその数歩先を歩いていた。首をビール瓶とともに上げた後、こっちのほうが味が軽いんだな、と、つぶやいている。
「おい、入ってねえじゃん」
 邦智の呆れたような声に、眞弓が外灯の下で振り向く。邦智のビールを飲み干したらしい彼は、企みが成功したと言いたげな微笑みをたたえていた。彼が立ち止まるから、邦智も歩みを止める。上目遣いでビールを押しつけられた。
 眞弓の目元が、アルコールで少し紅い。さわりたくなる衝動が、邦智の懐にふわりとあらわれた。
「駆け引き上手になれよ」
 眞弓の声で我に返る。邦智はひそかに点る感情と、投げつけられた言葉に視線を落とした。彼の足下で横断歩道の白ラインが映えている。邦智の立つアスファルトに撒かれた木蓮の花は薄汚れている。
 邦智の言葉を待たず、眞弓は踝を返してまた歩き出した。二瓶を抱えた邦智は、その姿に想いを白の内側に留めて彼を追った。後少しで公園の裏門に行き着く。眞弓はまた、とりとめもなく話はじめる。
 そんな彼をチラチラと見ながら、越えてはいけない線をはかる。彼のあの一言を反芻する。邦智は目線を道に戻した。瓶を握りしめる。
 無邪気に白線を踏ませようとする眞弓が、少し憎らしく思えた。




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