* 日常エクストラ *


 午前0時。
 ちょっとやっべーかもなあ、と思いながら友実はバッグを自転車のカゴに押し込んだ。
 いつもならば部練が夜遅くまで続こうと、よろよろになって帰宅しようとも、睡魔に即ノックアウトするようなことはないのだ。それが、今日は思いっきり爆睡していた。
 約束の時間まで一時間くらいあるからと、リビングでゴロゴロしていたのがまずかったのだろうか。母親が叩き起こしてくれなければ、このまま朝を迎えていたかもしれない。携帯電話を慌てて見ると、眠っている間にかけてきたと思われる不在着信とメールが一件ずつはいっていた。泊まりに行くといっていた人間が、日付の変わる間際になっても来ないとなれば気にかかるだろう。メールには、『友実、寝ちゃった?』という文字が打たれていた。
 さすがに「寝ていた」と素直に返すことはできず、自転車を片手で押しながら友実は半巡した末に『今から行く』と簡潔なメールを送った。日付は新しい日を指していたが、相手は最近一人暮らしになったから迷惑にならないだろう。高校の後、バイトのヘルプを頼まれたとかなんとかいってたから、今頃風呂にでも入ってるかもな、と推測しながら携帯電話をポケットに突っ込む。見上げれば星が点々と瞬いた。
 住宅地といっても田園地区があるくらい緑も豊富で、人の気配の代わりに虫のざわめきが夜の世界を鮮やかにしている。風の抜ける緑地から、ときどき肌寒さを感じる大気が通り過ぎる。
 そういえば今日の部活で、「もうすっかり秋だな」と呟いたのは誰だったろうか。練習が一区切りつくと、滑り落ちていた汗は涼しさを呼び込むようになった。野外で活動する部活は、一番に四季の移り変わりを体感する。
 秋が深まるほど澄んでいく星の世界。辿るように道を進めば、すぐ彼の住むアパートが見えた。ここまで着てメールの返信がないのであれば、風呂に入っていると考えるのが妥当だろう。
 友実は自転車を所定位置に置いて荷物を掴むと、迷いもなくドアの前に立った。ひとまず律儀にチャイムを押す。予想通り反応はない。自分の的中を確信して、友実は小さく笑んだ。
 片足を、躊躇うことなくドアに振り当てた。ダンッ、と大きい衝撃音が髄まで響き渡る。思った以上にこのドアは大きい音が鳴るんだな、と思いはしたものの、友実は容赦なくドアをガンガン蹴りつけた。
 途端に室内でどたどたと物音が聴こえてきた。携帯電話のメールを見ていないのは瞭然で、来訪者に慌てているのだろう。まもなくして、ドアが開いた。
 かろうじて下のジャージだけは履きました、という出で立ちの由徳が、眉間に皺を寄せて息を荒げている。そのくちびるから、「てめー」という言葉がでてくる前に、友実は我が家のように玄関をあがった。
「風邪引くぜー」
 その一言から、友実が風呂にはいっていると見越した上で、ドアを蹴っていたのだと由徳は勘付いたらしい。濡れぼそったまま、友実を羽交い絞めにした。
「と〜も〜み〜!」
「わ、つめてえ! 早く拭けよっ」
「てめーがドア蹴ってたんだろーがっ」
 友実は咄嗟に手にしていたスポーツバッグを投げ、後ろに張り付く一回り以上大きい由徳の身体を、そのまま自身ごと布団の上に崩し落とした。どうしても体格的に負けてしまう友実は、いつも迷いなく大技を使って由徳から勝ちを得ていた。今回も躊躇いなく押し倒されるとは思っていなかったようで、由徳は簡単にバランスを崩す。それでも即座に、友実の身体をかばうように抱きしめて布団へ沈み込んだのだから始末が悪い。
 いってー、とぼやいた由徳の腕を抜けて友実がのそのそ移動しようとすると、服を掴まれた。振り返れば由徳の目尻が下がっている。
「いたかったじゃねーかー」
「そりゃオメーのせいだろ。濡れたじゃねーか、服」
 目を細めて友実が返す。由徳が何かに安堵したように手を離した。自分の行ないから気分を害したとでも思ったのだろうか、かばったことを本人なりに何か感じとっていたのだろうか。どれともとれて、友実はTVの前で座り込んだ。触れた部分が、微かに熱い。
 後ろで、携帯電話の液晶を覗きながら「あ、友実メールしてたんだ」と今更なつぶやきが聞こえてきた。真っ黒なTVに反射したその姿は、電源スイッチが呼んだカラフルな別世界に飲み込まれる。やはり家で一度寝てしまったのが失敗だったかもしれない。由徳の家でなんとなくハマってしまったRPGをするにも、時間が中途半端すぎる。
「ゲームしねーの?」
 ゲーム機を見つめたままセットする様子のない友実に、由徳はタオルで髪を拭きながら起き上がった。
「今何時」
「今? 0時半」
「ハンかあ」
「なんだよ、友実のセーブなら次のイベントすぐ終わるやつだぜ。先進めとけば? その後は、やたら時間かかるけど。オレもちょっとやることあるし」
 一度クリアした者として助言すると、友実はまた少しだけ考えてから、吹っ切れたようにゲーム機をセットしだした。TV画面が瞬く間に、ファンタジー一色となる。
 友実に何か考えさせることを与えただろうかと由徳が背中を見つめていると、うっとうしそうにコントローラを持ったまま当人が視線をあげてきた。
「早く服着ろよ」
 由徳がきょとんとしたまま今夜の行方を問おうとする。その仕種に、視線を画面のフィールドに戻して友実はもう一度繰り返した。
「ヘンなこといわせんじゃねーぞ。早く服着ろよ」
 ……あ、わかっていらしたのね。
 由徳のほうは、口にしようと思ったものを呑み込んで、洗面台のほうに脚を向けた。不意に、反芻した友実のことばの行く末が、羽交い絞めしたときの温かい肌と呼応する。本気でヘンな会話をするところだったと、動揺した由徳は、足の小指を角にぶつけて友実に笑われた。


「友実、一時になった」
「んー、今セーブポイント行ってる」
 由徳が家事をあらかた終わらせると、友実もリモコンを動かしてセーブの手続きをした。トップ画面からセーブ状況を確認する友実を横目に、由徳は布団へ潜り込んで深い息を吐く。いつもこの時間であれば、友実の動きに少し鈍さを感じるものだが、今日はそれが一向にない。おそらく家で一寝入りしてきたなと由徳は推測する。それならば、家に来るのが遅れてきた理由と合致する。
 ゲーム機を無造作に片付けた友実が、立ち上がって電気を消した。途端に真っ暗になる視界から、微かに光の帯を探して夜目を利かす。閉じたカーテンからわずかに洩れた月光が友実の存在を捉えた。友実、というより目線は友実の脚だ。
 片足が、布団越しの由徳の胴体を的確に踏んだ。
「うげっ」
「あ、わりぃ」
 カエルが轢かれたような声に、友実の声色が弾んでいる。由徳はがばりと身体を起こした。
「てめーわざと踏んでねーか!」
「んなわけねーって、気のせ……うあっ」
 勝ち誇ったようにとぼける友実を無理やり倒すと、片手の指と指を絡め押し付ける。一瞬にして友実の自由を奪った由徳は、してやったりという表情で見下ろした。
「さっきから黙ってりゃー」
「黙ってはねーだろ」
「こ、このやろ、減らずぐちはこのくちかっ」
 あまった右手で友実の頬をつねれば、嫌そうにその手を振りほどこうと腕をつかんでくる。しかし、うぜえ、とか、やめろという言葉のわりに先程のような荒業を繰り出してこない友実は、由徳の肢体を意識していた。由徳もそれに気づいて力を緩める。友実の手が彼の二の腕を掴む。
 友実にとって由徳は幼稚園の頃から親しい幼馴染だ。彼の複雑な家庭事情も知っているし、昔不運な事故で片方の肩に後遺症をおっていることを知っている。彼は親に引きずられ何度もこの地域内を引越ししていた。そのたびに友実は由徳の家を見つけて遊びに行ったものだ。
 だから友実は思う。今の状態になって、むしろよかったのではないか。少なくとも、友実は由徳に触れるたくさんの機会ができた。
 由徳のつねる指が、やさしくなぞる熱になる。友実は由徳の代わりに微笑んだ。
「辛気くせーカオしてんじゃねーよ」
 ひどい顔をしていた意識はあったのか、由徳は友実を抱きしめる。頬を寄せた。まだ緩い大気の中で男の発する体温は熱い。けれど、それが身体を和ませる作用になる。
 明日も学校はある。部活もある。由徳もなんとか同じ高校に行けていて、その後にかならずアルバイトがある。そのぶんだけ深夜は自分たちのものになる。
「友実」
 由徳がささやくように紡ぐ。少し顔を上げた彼と重なる出逢ったときから変わらない瞳。
「なんだよ」
 同じように甘くささやくように応えて、友実が目を伏せる。その響きは静かに飲み込まれて、友実の掴む指が強くなる。由徳はくちびるに触れた。
 特別な日常のはじまりを感謝するように、二人はくちづけた。




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