* 地底湖 *


 信じられなくたっていい。


 細い手指が掴んだそれは、どうしようもない程の感情の激しさを理性的に押し殺した果てに現れた執念だった。俺の開こうとしたくちびるをふさぎ、言葉で全てを覆い尽くして、やがて自らも応える効力を失った。
「イッ、は、……ぅ、ん、はっ」
 白くよれたシーツに吐き出される息遣いは、絶頂に追い詰められる間隔を密にする。制御出来ない恐怖が渦巻く。慣れない情交は痛いはずなのに、彼はいつもやせ我慢をする。慣れた素振りを見せる。そして望んだくせに与えられる快楽に恍惚を見出さず、喘ぎを殺して泣くように空気を貪る。
 濱崎、という年下の男。知り合いのバーでたまに見かける、やけに線の細い男だった。俺が気になったのは、バーで見かけるたびに目があっていたからだ。身だしなみのよさで、濱崎が良い身分の子供だという直感が働いた。
 ある日、アルコールの酔いとあいまって隣にいたところを話しかけた。そのとき、とてもうれしそうに微笑んだのを俺はよく覚えている。年齢は八つも違っていた。成人していたところで、俺にしたら子供と変わらない。
 子供の分際は数回酒を飲み交わして、ふと胸の奥にあった闇を見せた。それはまるで恋と言うには暗い闇だった。男が男を求める。それは単純に嫌悪感をもつべきはずのものだった。しかし、俺にはその彼の愚かさがとても好ましかった。だから、彼の希望通り抱くようになったのだ。
 約束はバー、ホテルは金を払うのは濱崎。上等だ。嗜虐心をあやす道具のように彼を扱った。
 言葉はいらないのだろう。濱崎自身が、一番恐れているのは俺の言葉そのものなのだろう。俺を求めるナンセンスな感情を、濱崎も尋常でないとわかっている。しかし、皮膚が裂けて血を出しても、濱崎はここでだけは自分の想いを貫きたいのだ。身体だけでも、せめて俺に愛してもらいたいのだ。
 肉体と肉体がただ求めているだけという理屈で、俺はその快楽を承諾した。この関係は九ヶ月目にはいる。そして彼を貫きながら、俺は不思議な想いを抱くのだ。
 濱崎の意思の強い澄んだ瞳は、いつも罪だった。俺を引き込む罪深い罠だ。
「……っん、ぅ……ぁ、クッ」
 いつもの様に張り詰めた息を無理やり飲み込んで、後ろで貫く相手に追従しようとする。彼の仕草に溺れ切れない冷静さを感じて、俺は押し進めた身体を止めた。でも、すぐ相手に悟られるのを恐れてもう一度突いた。その刹那にびくりと揺れた細い痴態は、また慣れたように深呼吸を繰り返す。繋がるプロセスに一時の終焉を迎えた。
 それは幾度も闇を迎えど変わることはない。この行為の行方を、濱崎は気づいているのだろうか。彼の望んだ艶めかしい事実は、今の彼の瞳に映ってないことは確かだ。果たされて抜かれてしまえば、空洞が生まれる。夜を越えるほど、空洞は広がる。俺がいない間、濱崎はまた一人でこの闇を抱えるのだ。
 少しだけ安定した呼吸に、それでも繋がっている箇所は熱い鼓動を感じる。理性を打ち壊してくれる吸い付くような甘い感触は、俺自身がそのように濱崎を造り上げてしまったからだ。軽くゆする。彼が居所を調整するように腰を振るわせる。熱がフィットしたように少し弛緩する。
 幾度も情事を重ねている所為でわかる。彼はこの瞬間が一番好きなのだ。この男はたった一瞬のために生きている。それが俺の雄としての支配欲を駆り立てる。
 しなやかに曲がる後ろ姿しか得られない位置で腰を抱き揺さぶる衝動は、嗚咽に似た息を生む。細い腕は身体を支えシーツに拳を埋める。
「ん、……は、……はっ、ん、っ、」
 男の身体を扱うようになってから、彼は従順な人形だ。
 濱崎はずっとこのままでいいのだろうか。
 自己主張もなく抵抗もなく、ただ漠然と受け入れる。生きているのに生きている形の見えない、望まれているはずなのにその匂いを一切見せない男。ここまで皮膚も熱も暴かれとけあっているというのに、完全なものは何一つ見えやしない。
「ん、っ、は、は、あ、っ、ん、」
 憤りにも似た込み上がる感情は理性を凌駕して止まれない境地に達することは知っている。快楽を貫こうとする気持ちではなく、逆の感情が原始的な行為の末路へと押しやっている。怒りの衝動と絶頂感。そのふたつはとても似ているものではないだろうか。彼と繋がってそう思うようになった。
 身体を闇雲に突き上げる想いには、どんな名が付くのだろう。俺の心を巣食うようになった昏い闇は、どれだけ俺自身を支配しているのだろう。
「イッ、ぅ、ん、ん、ッ……ッ、ン、ッ、んッ」
 極限まで追い詰められた営みは、想いの重力を越えてやがて、一瞬だけの光とその後の残酷な仕打ちを寄り添わせて投げ込まれる。がくんと重心の失った身体を背後から抱き留めて芯を抜く。羽をもがれた鳥のように力を失った男の背中を、俺はただ眺めた。
 もがれた後のような鋭い肩甲骨に触れようとして、躊躇った。


『信じられなくたっていい』

 そう言って、胸にくすぶる闇を見せた彼の指先。俺の思考を止めさせた両眼の強さ。それはすべて濱崎の見事な罪の演出だ。受け入れてしまったがために崩壊した何か。月光でたわむシーツ。
 日常に戻った俺を目覚めさせるように、ときどき夜の濱崎が脳裏に現れるようになった。それは負の代償だ。
 平穏な昼の世界で、この東京という大都会で、彼は何をしているのだろうか。ふと、考えてしまう。考えている自分に戦く。情事は身体に残ってもかたちには残らない。肉体は繋がったはずでも平行線だ。全部曖昧だった。はじめは濱崎が望んだ罪であり闇だった。俺は何も悪くなかった。身体を提供しただけだ。利害は一致していた。そして、俺は胸の内に闇を宿した。
 摘み取ることができない感情。月光がかすかに映る青白い背中。
 濱崎が用意したホテルで、俺は声帯をもがれた虫けら同然だった。濱崎は俺が抱く意味を知らない。おそらく濱崎は俺の闇が「俺に抱かれる意味」と一致しなければ救われないのだ。そして救われない方法で、肉欲だけでも満たされようとした。どちらに転んでも濱崎にとっては地獄だ。心の闇を認めた瞬間に、堕ちるところまで堕ちてしまいたかったのかもしれない。
 充分、ここは地獄だった。ともに堕ちていける道へ俺自身が加担したのだ。
 濱崎は言う台詞を間違えていたのではないだろうか。
 本当は、『救われなくたっていい』では、なかったのだろうか。そして、彼はそんな不幸をこの先もこのまま続けていくのだろうか。それを誰が許すのだろうか。気付かぬ振りをしている俺を、誰が許し続けてくれるのだろうか。
「新東、さん」
 不安に満ちた掠れた声は唐突に心音を響かせて、俺は視界を開いた。
 両手で無意識に覆っていた顔を、見上げていた濱崎は呼び声以上に不安げな表情をしていた。乾きはじめた体液をそのままにして、男の仕組みを隠そうとする。濱崎にとって、俺を愛した時点で身体は不具なのだ。同性であることが苦しみなのだ。
 こんな感情になったのははじめてだ、と言っていた。隠して生きることもできたのに、彼はそれを選ばなかった。
 今思えば、あの言葉は自分が使うべき言葉になるのかもしれない。
 身をよじる濱崎へ込み上げる感情をどうすることも出来ず、不安を拡張させようとする身体を塞いだ。唐突にのしかかられて口付けられたことに、濱崎は動揺した反応を見せる。それでも彼は俺の想いを嗅ぎ取るようにペースをあわせた。
 深いキスに没頭する中で、俺はこれが自分が仕向けた初めてのキスだということは分かっていた。だから、その行為の後の濱崎の表情も、検討がついていた。
 離れがたいように離れたくちびるに、名残おしく瞳が揺れる。やがて視線を上げた濱崎は、嬉しそうな微笑を浮かべた。この闇に似つかわしくない表情が胸を軋ませる。想いの量に気付かない振りをして、情交を再開する仕草をやってのける。知らない振りで、それでも少しでも濱崎の生きた表情が見たくて、優しく抱いた。



 もう、永くはないとわかっている。猛るような感情はなんなのか。それがどんな意味を宿すのか。信じ切れていないのは俺自身だ。それが本物なのか。その力が及ぶ範囲は、どれだけ彼と同等の位置にいるのか。
 濱崎のように、まっすぐな瞳で信じられるような力が俺にはない。
 それでも、波のように寄り添っていくほど想い知らされる。濱崎がかけた魔法をほどく瞬間はいずれ訪れる。俺は俺に決着をつけなければならない。
 どんな想いで君を抱くのか。伝えられたそのときは、信じられなくたっていい、と、あのときの君と同じ台詞を言うんだろう。




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