* 愚直なテンプレート *


 近くにあっても遠い肌、というものがある。
 最も無性に触りたくなる瞬間が訪れる際に、それを強く感じる。いつもすぐ触れられる位置にいるというのに、生半可に触れてはならないという暗黙の了解が成り立っているのも原因のひとつだろう。禁止されると、逆に触りたくなってしまう。でも、他人の目と本人の精神的なガードはそれを許さない。過剰な抑圧は、いざ触ってもいいと言われたときにいつもより増して勢いがつく。結局は愛しさゆえなのだ、と、嶺二は最近そのように自己分析していた。
 しかし、その自己分析は、行動に反映しなければ意味がない。
「……ッ、おまえ! ガッつきすぎなんだよッ」
 今宵もまた、くちびるが離れた途端、楓が怒気の孕んだ声を振りかざした。実際は嶺二が楓を組み敷いている状態なのだが、鋭い言葉は上から突き刺さってくるようだ。そもそも楓に受け入れ側を下手に要求してから、完全に精神的ヒエラルキーは確立している。
「眼鏡もあたるし、息苦しいし」
 嶺二は彼の言葉で身体を静止させた。現状はというと、一応合意の上の、ベッドの上の話である。
 勢いがあることは嶺二自身も自覚している。しかし、ガッつくも何もそれは今にはじまったことではない。まして今は無闇にひん剥いたわけでもなければ、局部をわし掴んだわけでもない。現に二人ともまだ衣服を身につけたままだ。だが、嶺二の腕を掴んできた楓の手をねじ伏せようものなら、おそらく倍の力で顎でも掴まれて痛い目に遭うのだろう。楓も細身なわりに握力はある。
 とはいえ、わざとつくったとしか思えない白けた目線に、嶺二はどうしても応酬したくなった。
「ガッついちゃいけねーのかよ」
 ムッとした声色でトーンを落とす。俺の心情を汲み取れってくれよ、という嶺二の願いは甘かった。嶺二の素直な返答に、楓は呆れたような表情を浮かべた。
「おまえ、女のときもこんなガッついてたのか? こんなやり方じゃ、普通逃げるだろ」
 バッサリ。
 そんな擬音が付随した二言目の威力を、嶺二はまともに受けて絶句した。この状況で、この言いようはない。しかも、すでに嶺二が食らっていたダメージを慰めもせず、容赦なく畳み掛けている。
「じゃあ、そっちはどうだったんだよ!」
 つい、ショックを冷静に対処するより先に口が出た。
 言われっ放しも大概慣れているが、この手の発言は聞き捨てならない。ムキになるのも当然だった。なぜこんなところでいきなりそんなことを言われなければならないのか。
 ……あまりに挑発的だ。
 そう嶺二は思ったそばで、ふと冷静さを取り戻した。このやり取りに見覚えがあったのだ。
 そういえば彼は、元々デリカシーが欠如している人間ではない。今の言葉でこそデリカシーの欠けらも感じられないが、ここまで険のある言葉を好んで使う人間ではないのだ。バッサリ言いたいことを言うタイプではあるが、揉めなくてもいい内容をいちいち意地悪く持ち出してくるタイプとはいえない。
 つまり、この状況でこんなことを言い出すのは、意図があるということだ。
「俺はこんなガッついたりしないし」
 楓は組み敷かれているという状況にも関わらず、涼しい眼で嶺二を見返した。
「毎回こんな調子じゃ女も嫌がるよ。こんなんだからカノと別れたんじゃねーの?」
 ついで、しつこく嶺二のツボをついて挑発する。嶺二は、言い返したい衝動を全力で耐えた。
 ……そうだそうだ。楓がこんな言い方をするのは、萎えさせるための防衛手段だった。
 不思議なもので、楓という人間は、こうした関係を持って何年経とうが、この状況になると、どうも時折何か躊躇に似たものを感じてしまうようだった。いざセックスの段階になると、嶺二を試すような言動をとったり、無理やり萎えさせるような態度にでる。これは、彼がひじょうにノリ気ではないときも同様だった。楓側が積極的なときは楽だが、逆の場合はセックスに持ち込むまでが一苦労なのである。
 最近は割合気苦労なく最奥まで辿りつけていたから、嶺二もすっかり忘れていた。このところ楓は文句ももらさず嶺二のやり方を受け入れていたのだ。しかし今の状況を考えれば、それはたまたま彼がそういう気分が続いていたからだけ、だったらしい。
 その中でも、特に忘れてはいけないことがあった。現状のパターンである。このパターンは、一番タチが悪い。ここで言い合いになってうやむやのうちに夜が終わる、というのが……今までこのパターンのオチになっていた。しかし、今日の嶺二は幸いだった。9度も同じ轍を踏まないと学習している。
 大体、毎度こんなんではないと、楓も知っているだろうに、わざと言っているのだ。寸でで冷静さを取り戻している嶺二には、楓の感情回路がある程度読める。
 ……これは、罠なのだ。
「そういや、前の前は違ったっけ」
 楓の台詞がスコンと嶺二の耳に入った。独り言のように追加された言葉。このどさくさに、前の前の彼女の件は知っているとまで、楓は暗に言いだしたのだ。
 駆け引きに飲まれずにいた嶺二でも、さすがにはじめて耳にした内容には、開きかけた口をそのままにして、楓を凝視した。
 先ほど以上に、聞き捨てならない言動なのである。何より、前の前というのが、リアルすぎる。当時を思い返してみれば、楓の言う通り別れた原因は確かに違っていた。この手のものではなかった。楓は、本当に当時の事情を知っているのかもしれない。
 ……って、いやいや動揺している場合ではないだろう。楓の常套手段にハマッてはいけない。よく考えてみろ。
 嶺二は自分に訴えた。楓とは長い付き合いなのだから、何かの拍子に知っていてもおかしくはない。楓を見つめたまま、嶺二は最大級の冷静な対応とそれに見合う台詞を考えた。だが、楓のせいで当時の記憶が蘇り、妙な気分に包まれていく。第一、あまり思い出したくもない過去なのだ。次第に、嶺二の胸には憂鬱な気持ちが芽生えてきた。
 この調子では、本当に楓が仕向けているように、嶺二のヤる気は萎えるだろう。ここまで言われ、言い返す言葉が見出せないのならば、本日はこれにてお開きしたほうがいいのかもしれない。でも、こんなことであれば、現恋人のはずの楓にいっそのこと慰めてもらいたいくらいだ。
 嶺二が本来の衝動から、限りなく弱気な思考に移りだしていると、また楓から声が上がった。
「まあ、オレぐらいのレベルじゃないと」
 改めて楓を見下ろす。視界に入れていたはずなのに、考え事で一杯になっていたようだ。嶺二は、楓が発した言葉に瞬きをした。眼下にいる楓は少しだけ人の悪い顔をしているが、声色に今さっきまでの棘が消えている。
 もしかしたら嶺二の表情を察してくれたのかもしれない。
 さほど待つことなく、次の言葉が続いた。その楓の目尻が不意に緩む。
「おまえを受け止められるのは、オレくらいだもんな」
 明らかに、言葉のニュアンスが変わっていた。それはまるで、遠まわしなOKサインのようだった。
 ……というか、どう考えてもOKサインではないか。
 唐突に、現状のベッドシーンに見合った雰囲気が広がっていく。嶺二がうんうんと頷いて訴えると、楓が仕方ねえなあと言わんばかりの表情で細い指を伸ばしてきた。
「とりあえず、眼鏡取って」
 どうやら、嶺二の望む夜がはじまってくれるようである。




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