* 宵になる前 *


 ブーツを脱いで玄関のたたきを上がる。明かりがなくても視界が利く宵になる前、腕時計を見れば一九時にたどりついていなかった。最近は仕事を終えて連日のようにバーやパブ、居酒屋へ繰り出しているわけだが、特に明日は一日中何もないオフの日だ。朝まで遊んでも翌日たっぷり寝られるのは嬉しい。しかも、今日は早上がりできたからラッキーだ。今日も家に少し寄って軽く休んだ後に、ネオンの輝く繁華街へ赴くつもりである。
 透耶(とうや)は仕事仲間と飲みでかけることがないかぎり、面倒でも一度自宅に立ち寄ってから外出するようにしていた。それには理由があった。三か月前から一人で住んでいないせいだ。
 リビングから聞こえる人の声と洩れる光。その出入り口から、すぐに声がした。
「透耶さん? おかえり」
 開けたドアの手前で飲み物を手にした成章(なるき)がひょっこり顔を出す。家主の帰宅を物音で察したのだろう。実は透耶も玄関ドアを開けた瞬間からテレビの雑音を耳にしていて、成章が居ることはわかっていた。居るのはいい。彼がやんちゃなこともせず学校から帰宅していることは、預かっている身の上としては優秀といえる。しかし、透耶はなんともいえない気分を拾って成章をチラと確認するとすぐ目を逸らした。
 まだ夏をはじめる前の寒さが舞い込む不安定な季節で、廊下はやけに涼しい。成章の視線がしつこく刺さるせいかもしれないと思いながら、透耶は応答しないまま彼の立つリビングの前についた。私服の成章は背の高い兄貴分を見上げている。
「きょうは早いんだね」
 そこにどんな意味が内包されているのかわからない。透耶は脳裏で働こうとする大人の無粋な詮索を遮断して、リビングへ足を入れた。
「まあな」
 家のリビングは普段どおりだ。ここは数年前から透耶の住居で、調度品も自分で少しずつ買い足してきた。そこテーブルには、成章の宿題と思われる紙切れや厚い本が散乱している。
 そしていつも成章は十五センチ差のある透耶を見上げる位置に立っていた。金魚のフンのように透耶の行動をなぞる。この親戚の男子高校生は悪巧みをしないぶん、透耶にやたら懐いていた。
 ため息をつきそうになって、透耶は成章を見下ろした。大昔会ったときからの面影が残る幼い顔立ちである。いつ見ても彼の父親より美人な母親に似ていると思う。その彼の手元にあるグラスを透耶は見つけた。中身は半分以上残っている。喉が渇いていたことを思い出した。
「その飲みもんは? 喉乾いてんだよ」
 ぶっきらぼうな言い方をしても成章は気にせず、グラスを差し出した。
「これ、ジンジャーエール。いいよ、飲んで」
 それを当然のように受け取って飲むと、透耶は大きな息を吐いた。炭酸はスカッとする。空梅雨といっても、六月はなんとなくじめじめした気分になる。
 ジンジャーエールを自分で買った記憶はないが、おそらくペットボトルか瓶であるはずだ。さらに喉を潤そうとキッチンへ進路を変えた透耶に成章が次の行動を予測したのか声を発した。
「オレも、もっと飲む」
 成章の言い方的には1.5リットルタイプがあるのだろう。冷蔵庫を開ければ、そのとおり上棚に大きいペットボトルが横向きに押し込まれていた。明らかに透耶が買ったものではない食品もある。むしろ、大半がそうであるといえた。成章の侵食率を目の当たりにして、ペットボトルを抜き取るとすぐ閉じた。
 もうひとつグラスを用意する成章は、のん気なものだ。
「ロックアイスあるよな?」
「下にあるよ」
 また屈んで冷凍庫から取り出すのが面倒、という透耶の態度を察したのかどうかわからないが、成章がロックアイスを取り出してくれる。彼がそれぞれのグラスに氷を入れると、透耶は手早くジンジャーエールを注ぎ込んだ。これにアルコールを突っ込めば、モスコミュールもどきにでもなるだろうが、酒はまた家を出た後でも楽しめると思い直す。
 透耶が居間にあるソファへ回り込んで腰をおろせば、あたりまえのように成章が隣を座った。この三ヶ月、ずっとこの調子だった。家に居れば成章が離れない。
 はじめは、これが特別嫌ではなかった。現在も嫌ではないが、外出と帰宅を頻繁に繰り返すようになったのは間違いなく成章のせいだ。最近は極端に家の滞在時間が減っている。元来、透耶は毎晩遊び歩くほどの性質ではない。
「透耶さん、さあ」
「なんだよ」
 成章も何かを感じているのか、二ヶ月目を過ぎた頃からこうして躊躇いがちに会話を重ねるようになった。毎日のように繰り広げられる台詞の続きを、透耶はすでに知っている。
「きょうもどっか行くの?」
「行くよ」
 思ったとおりの問いかけに、透耶は当然のように答えてグラスの中を飲み干した。今度は無性に煙草が吸いたくなる。しかし手元の箱は空で、買い置きしているカートンは寝室にある。取りに行くのが面倒だ。
 視線をテレビへ向ければ、これからキックオフとなるサッカーゲームの解説がはじまっている。成章はサッカーが大好きで、今日は帰宅してきてからずっと見ていたのだろう。その彼は、透耶の返答を受けて黙っている。
 三ヶ月前、透耶は親戚の成章を預かることになった。透耶と成章の年齢差は五歳程度で、高校二年生男子を『預かる』と称するのも妙な話だが、……成章は、壊滅的に家事ができなかった。海外赴任になった彼の両親が、息子を一人暮らしさせようとしたことは透耶も知っている。しかし、その家事を教わる段階で家電をいくつもダメしたらしい。ある意味すごい才能だ。壊した洗濯機と炊飯器を通じて、本人いわく「もう扱えるようになった」らしいが、透耶もその伝説を聞いてから、怖くてそれらを彼にまだ触らせていない。
 つまり、成章が一人で生活するかぎり、周囲は終日ハラハラしなければならないのだった。成章を知る者からすれば、彼を一人にすること自体が不安の種であり、ある種の苦行だった。透耶ですら、成章の動向を気にして帰宅するくらいである。確認すると安心できる。彼の母親もそんな感じで彼が生まれてからずっとヒヤヒヤしていたのだろう。今回も結局、旦那の海外赴任に付き合うのは半年だけで、彼女は息子のために日本に戻ってくる予定なのだ。
 その間の成章の管理として白羽の矢がたったのが、また従兄にあたる透耶だった。成章のことは幼いときから知っている。期限も半年間だけで、成章分の生活費は彼の親が出すという話から透耶は気軽に引き受けた。
 半年など、あっという間に過ぎるものだと思っていたのだ。しかし、まだ三ヶ月しか経っていない。
 ……半年って、こんな長くねえよなフツー?
 外で友人知人に会えば、透耶は無意識にこの台詞を出すようになっていた。何度も繰り返されるフレーズに透耶の周囲も近頃は、「おまえどうしたんだ?」と呆れた顔を見せる。
 早く半年が過ぎることを待つ日々だが、残り三ヶ月の間にプチッとなにかが切れるかもしれない。透耶は他人事のようにふと思うようになっていた。
 ……何がプチッと切れるのかは、正直、考えたくねえ。
 透耶は悶々とするのが嫌いだ。気ままに生きるのが好きなのだが、成章のせいで妙にペースが乱されている。そもそも、家に居ると終始隣くっついてくる成章は、透耶の数倍上回って自分の世界を生きている。まさに天然と言われる部類だった。それに妙なところで融通が利かない。
 ……とりあえず、風呂だ、風呂。
 透耶は、ジンジャーエールを飲み干した。成章が隣にいると、本当に成章のことしか考えられなくなる。透耶はその意味を、彼が居候しているからだと簡潔に処理していた。
 腰を浮かそうと透耶が身じろぎすれば、成章の手でシャツの袖を引っ張られた。すぐ嫌な予感をおぼえた。
「オレも行ってみたい」
 いつか言い出すのではないか、と、思っていた言葉が彼の口許からこぼれた。成章の言う場所は、透耶が繰り出すことを予定している繁華街のことだ。透耶の一人飲みをする縄張りに成章が踏み入れたことはない。第一、彼は未成年だ。
 とうとうはじまった、と、心の中でつぶやいた透耶は、引き止められるがまま横目に彼を見た。
「風呂場にか?」
 今から向かうのは風呂場だ。返答は間違っていない。しかし、はぐらかされたと思ったのか、成章が眉を寄せた。
「違うよ! その後で、行くところ。居酒屋とかバー」
「行ってどうすんだよ、酒飲めねえだろ」
「ノンアルの、飲めばいいじゃん!」
 成章が声を大きくして言うことは、とても簡単に実行できる。私服を大人っぽく仕立てれば、どうにか童顔のハタチくらいには見えるだろう。あと三年経てば本当にハタチだ。それに行きつけになっている飲み屋は多少融通が利く。しかし、まだ学生の身分で知るような世界ではない。
「別に、友達と行けばいいだろ。飲み屋以外にもファミレスとかゲーセンとか、俺は夜中に帰ってきてもかまわないぜ。自己責任だからな」
 風呂へ立つタイミングを奪われた透耶は、イライラを隠すように年長者らしい台詞を使った。しかし、成章は言葉の文に気づかない。
「友達はいいよ、行きたいときに行けるもん。透耶さんの行ってるところがいいんだよ」
 はっきりと気持ちを伝えてくる成章に、透耶はため息をつきそうになった。成章は言い出したら聞かない性格だ。今日のところはうやむやにできても、またいずれこの押し問答は繰り返されるはずだ。
 ……ってことは、これから残り三ヶ月の間に、何度もこの手のやり取りが起きるってことか。
 それを考えるとウンザリした。成章の無意識にもほどがある挑発を、これからさらに受けなければならないのか。家に帰るのが本当に嫌になりそうだ。
「透耶さんの行ってるとこに行きたい」
「今日は行かねえ。風呂はいって寝る」
 透耶は立ち上がった。成章の頼みを逆手にとった。外へ出にくい状況ならば、とりあえず寝るしかない。そして成章が寝静まった頃に外へ出ればいい。朝まで営業しているバーも近所で何軒か知っている。
 キッチンにグラスを置けば、成章も立ち上がって同じ動作をする。彼のグラスにはジンジャーエールがまだ残っていた。透耶の行くところへすべてついていくつもりのようだ。頑固さにコメントする気も失せて、居間を出る。
「そんなこと言って、どうせ後で行くんじゃんか」
 脱衣場に足を踏み入れると、後ろで責めるような成章の口調が響いた。成章も透耶の性格をある程度わかっているのだろう。透耶はとうとうため息をついて、風呂場を背に成章と向き合った。狭い空間に逃げ場はない。
「なんでそんな一緒に行きたがるんだよ?」
「じゃあ、なんで連れてってくれないの? 未成年だからっていうのは、ナシで」
 問いに問いが返される。成章に再度一緒に行きたがる理由を訊いたところで、透耶と一緒にいたいから、と、言い出すに違いない。それは透耶の求めている正しい理由になっていなかった。質問がソノ気を試す駆け引きなのだ、と気づくのはオトナの思考だ。つまり、成章はまだまだコドモなのだ。
 彼は何も気づかず、透耶を見つめる。
「どうしたら、連れてってくれるの?」
「……オトナになったら、な」
 透耶の回答は、半分が冗談で半分が本気だった。実際に彼は未成年なのだ。しかし、それをいうなら高校時代から酒や煙草を知っていた透耶自身を否定しなければならない。親戚に頼まれた子だといっても、高校二年生はさすがに自己責任もわかる年頃だ。成章の素行は悪くない。
 台詞どおりの言葉を、成章がそのまま受け止めたことは明白だった。ムッとした表情をする。
「なんだよそれ! 子ども扱いしやがって、」
 未成年なのだから子ども扱いにはなるだろう。ただ、親戚ふくむ周囲は成章を実年齢よりだいぶ低い子どもを見る瞳で彼を助けていた。得意なものはすこぶる得意だが、壊滅的なところは恐ろしいほど壊滅的なのだ。主に日常生活は冷蔵庫と電子レンジと電気ポット以外触らせたくないくらいひどい。だから透耶も複雑な想いを抱きながら、最低限のことは手伝うのだ。成章が幼いときから人の手助けがないと生きていけないタイプだということは、彼に身近な親戚全員が知っている。
 さっさとむくれて罵声でも放って、テレビのところに戻ればいい、と、透耶は切に念じた。面倒な親戚の子なのは最初から知っていたからいい。しかし、そこにきて、まさかのこの感情だ。透耶も三ヶ月で心の余裕がなくなってしまった。
 ……これから成章の好きなサッカーがはじまる。それでこいつの機嫌はカンタンに戻るだろう。それで落ち着いて宿題でもして寝床に行く。それで、俺は飲みに出る。
「じゃあ、透耶さんがオトナにしてよ!」
 透耶の何かがプツッと切れた。
「おまえさ、」
 ……どういう意味か、わかって言ってんのか?
 そう問う前に成章がまくし立てる。にじり寄る彼の目は真剣だ。
「どうやったら透耶さんの言うオトナになれるの? 透耶さんなら、オレをオトナにできるんだよね?」
 その必死な言い草は、挑発なのか天然なのかはわからない。透耶は成章を見た。純粋な瞳だ。触りたくなる肌だ。ずた袋にぎゅうぎゅうと積めて、胸の奥に押し込めていた下心が全部ぶちまけられた。もう、この際どうでもいい。
 成章が、どうしようもなく可愛い。
「そんなになりたいんなら、風呂場でオトナにしてやるよ」
 何気のないように口にした透耶の言葉に、成章はキラキラと瞳を輝かせた。彼の中で、オトナにしてもらえれば、透耶行きつけの飲み屋へ連れて行ってくれるという計算になったのだろう。
 現実は、それほど簡単なものでない。透耶は脱衣場で、無垢すぎる成章に苦笑する。
 オトナになるのは、そう甘いものではないのだ。
「どうすればいい?」
 瞳を輝かせて訊いてくる彼のくちびるに、透耶は人差し指をあてた。艶やかな色を足した透耶の眼を、成章は黙って見つめている。やがて、彼も透耶の求めるものがわかるだろう。
 透耶は吹っ切れた。どうせ残り三ヶ月間も鬱々と成章を見ていれば、いずれこうなる。今は風呂場にはいってからが楽しみになった。その後のことは宵の後で考える。
 ……どうやって成章をオトナにしよう。
「とりあえず、服脱げよ」
 愛しい想いで血を沸点へ押し上げながら、透耶は軽く頷く彼のくちびるを指でゆっくりなぞる。そして、成章が服に手をかける様をじっと見つめた。




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