* mellow talk *


 ガラス張りのドアが室内の温度差を際立たせるように曇っている。一人で使うには広く仰々しいバスルーム。バスはジャクジータイプが備えつけられ、二人くらいで仲良く使えといわんばかりのレイアウトである。
 嶺二はタオルで髪を拭きながら、もう一度豪奢なバスをじっくりと眺めていた。今回は結局使われることのなかったシロモノだが、やましい気持ちを抜きにしてこの浴槽は極楽を生み出すだろう。湯船というものは、広くてジャグジー付きが気持ち良いに決まっているのだ。
 バスルームの色合いも、赤と黒と白が上手に使われていた。タイルやシャワー付近のラインは黒と赤、バスは白。取っ手やジャクジーの噴射口はゴールドだ。バスルームはガラスで囲われ、室内から見えないように、ブラインドのような具合で目張りされている。開放的だが中は見えず、けれども部屋の光をうまく取り込めるような設計だ。
 こういうバスルームもいいな、と、嶺二は真剣に思いながらバスローブを羽織った。バスローブなぞ好んで着る類のものではないが、衣服は部屋においたままにしてある。わざわざ湿気の溜まるところで身支度を整えたくはなかったからだ。
 バスルームと室内を隔てるガラス扉は、厚いガラスなだけに重みがある。嶺二が引けば、普通のドアのように軽く開いてくれるものだが、腕力のない子どもが開けようとすれば逆に挟まれてしまうかもしれないくらいの重さがあった。とはいえ、子どもが来るべきところではないスポットではある。……女性でも少し重いかもしれない。
 嶺二が軽く力を込めてドアを引く。一気に冷気がバスルームへ舞い込んできた。それを心地よく感じながら、梅鼠色のカーペットに足を踏み出す。
 その途端、部屋中央から甲高い女性の嬌声が聴こえてきた。耐え切れないように甘え喘ぐ声だ。それはすぐ掻き消えて、次はパシンッという音が何度も響いた。やだやめてと呂律のまわらない女性の声がする。鞭のような音と、やめてと怯えたように泣く声の場面は違うはずだ。
 嶺二は何も言わず、爛れた世界が繰り広げられている場を視界に入れた。
 女性たちがすすり泣いて男を受け入れているシーンが、黒に縁取られた画面いっぱいに広がっている。すべては液晶テレビの中で行われている出来事だ。嶺二が目にした場面は、またすぐに色を変える。次はディルドを手にした女が自慰に耽っていた。
 画面を切り替えている人物は、キングサイズのベッドに寝転がっていた。枕側に脚を投げ出して、面白くもなさそうに頬杖をついて液晶テレビ一点に集中している。嶺二がバスルームから出てきたことについて一向構う気はないらしく、片手で持ち上げたリモコンを頼りに、また画面を切り替える。興味のそそられるAV女優に出会えていないようだ。着崩れたバスローブからは骨ばった肩がこぼれ、そこから蚊に刺されたような痕がはっきりと浮きだっていた。
 こんなシーンは今にはじまったことではない。互いを満たすセックスの後は、よほどのことがない限り暗黙の了解で、嶺二が何もかも後の扱いだった。そして、嶺二がバスルームから出てこようが身支度しようが視線すら寄越さない。だからといって、嶺二もそんな彼の態度に文句を言うつもりはなかった。
 それだけ、楓とは長い付き合いなのだ。また彼自身も、そう思っているから今のような態度ができるのだろう。
 嶺二は黙ったまま、テレビとベッドの間を横切って、サイドテーブルのシガレットケースを手に取った。隣には眼鏡が置いてあるが、今日はコンタクトレンズを入れているので伊達眼鏡である。日中は眼鏡的なものをかけていないと落ち着かない。
煙草を一本抜いて火をつける。傍にある灰皿には、いくつかの吸殻が役目を終えていた。嶺二がシャワーを浴びている間に気が済むまで吸った楓の跡だ。時折ぱたりぱたりとシーツを叩く脚と、リモコンと画面の行き来でちいさく動く頭を見つめる。やがて楓は単体女優モノの番組に決めたようで、リモコンを手放すと頬杖の手を離して突っ伏した。
 うつ伏せのままシーツに埋もれたということは、眠いということなのだろう。こういうことも珍しくもない。起こしてやるから少しくらい寝ていればいいのに、とその度思うのだが、楓が嶺二より先に眠ることは滅多になかった。まして、今日のようにご休憩で部屋を借りたときは、絶対に寝ない。それは、山ほどある彼のポリシーの中のひとつなのだろう。
 液晶画面の中では、ロリ顔のAV女優が二人の男に組み敷かれ、あらぬところをまさぐられていた。濡れる音とおおげさなまでの嬌声が耳に届く。自宅でじっくり見るのであれば多少興奮する内容でも、今は嶺二の心にまで響かない。画面はエロさを増したところで、すぐ近くで寝そべっている男と先刻までしていた行為のほうが印象強く残っているのだ。
 嶺二はAV女優の熱演を眺めながら、楓が魅せた先刻までの痴態を反芻した。いつものことだが、楓はセックスの最中と事後で大きな差異がある。その差異は、セックスの回数にあわせて広がっているようにしか思えなかったが、嶺二は早い段階で気がついていた。楓が、自分に気を許しているからこその差異なのだ。
 脚を掲げ押し入ったときの、甘さを孕んだ苦悶の表情を思い浮かべる。短くなった煙草を揉み消すと、同時にドォンという低音が聴こえ、嶺二は顔を上げた。
 それはホテルの外から流れてきている。突然はじまった打楽器のような音に、嶺二はシガレットケースと楓を置き去りにしたまま、部屋唯一の窓へと向かった。この音を鳴らせる理由が直感的にわかったからだ。
 外界をつなぐ窓は、ほとんど窓としての機能を必要とされないまま、装飾の内に閉ざされていた。ホテルのあり方から考えても、清掃のときに開ける程度の扱いだろう。厚い紅地カーテンの奥が窓だと気づいたのも、今はまだ窓が自然光を拾っている時間だからかもしれない。それもじきに夜が隠してしまう。
 その夜の空をキャンバスにする音だと、嶺二は窓の柄をつかみながら確信していた。すりガラスの窓は、下から上にガラス戸を持ち上げるタイプのようで、硬い戸口を力を込めて上げると、ガタガタいわせながらもなんとか持ち上がるようだった。夏の冷め切らない風が、冷房の効いた部屋を抜けていく。その間に鳴った低い破裂音は、より大きく大気を振動させた。嶺二のやかましい行為に対する、楓の反応はいまだない。
 半分まで上がった窓の戸を、一息で持ち上げる。すると、ビルとビルの間に遠く色のついた花が咲いた。紛れもなく花火だ。しかも、大輪が建造物に邪魔されることなく咲いている。
 嶺二が思っていた通りだったが、この部屋から見えるとまで思っておらず、二、三度目で確認した。古びたビルが乱立するところではあるが、奇跡的にうまい具合で花火が見えるようだ。
 ここがまさか穴場だったとは思いもよらず、嶺二はその感動とともにベッドで突っ伏したままの楓を呼んだ。
「楓、花火が見えるぞ」
 テレビ画面の中は、すでに真っ暗になっていた。嶺二が窓を開けることに気づいて、楓が沈黙のまま気を利かせたのだろう。呼ばれるまで反応しないつもりだったのか、嶺二に呼ばれ、楓は寝そべりながらもようやく顔を窓側に向けた。
「本当に見えるのかよ」
「キレーに見えてんだよ」
 半信半疑の楓に、手招きまでいれて嶺二が応えると、仕方なくといった風情で起き上がった。ずり下がったバスローブを整え、もうひとつのシガレットケースから先ほどの嶺二と同じように煙草を抜き出して火をつけた。嶺二が花火を見つめつつ楓のほうを見遣れば、灰皿をもった楓が煙草を喫いながら窓の外に視点をあわせ寄ってくる。ぶれずに咲く、花火の存在を目にしたらしい。
 嶺二の隣まで来た楓は、窓の縁に片手をかけた。
「あ、本当だ」
 そうつぶやく表情はうれしそうだ。スケジュールをこちらからあわせなければ、出逢うことのできない生の大輪。嶺二が事前に知っていてこのホテルを選んだわけではないことくらい、楓にもわかるだろう。大体このホテルに決めたのは楓なのだ。
 無防備に軽く身を乗り出す楓の素振りは、周辺のビルがこちらを望める造りになってないからこそできるものである。ほぼ特定の用途のために存在しているこのホテルの窓は、厳重に内部が見えないかたちをとってはいるものの、元々外からは死角になっていたようだ。
「ここは穴場ってことか」
 楓が身を戻して、しみじみと呟いた。大輪は時折ビルの外壁で欠けてしまうものの、見れないものではない。ほぼ無風という好条件も幸いしている。
「今日、花火大会があったんだな。知らなかったぜ」
 夕暮れの淡い蒼が、時間をかけながら花火の映えるキャンバスへと移り変わっていく。打ち上がるたびに揺れる低音は、夏の都会に彩りを添えた。
「ここから見えるの知ってるヤツ、従業員にいないみたいだな。もったいないことしてるなあ」  花火の美しさというよりも、商売的な観点の独り言を耳にして、嶺二は少し呆れたように楓を見た。そもそも、花火の音だと気づいても、厳重に閉ざされていた窓をわざわざ開けるようなことをする客は、よほどの物好きでしかない。
「こんなとこの窓なんて、普通開けようと思わねーだろ」
「それを開けたオマエがいうな」
 紫煙が生ぬるい外気に溶けていく。口では勝てないと悟った嶺二が沈黙を選ぶと、楓の口許が何か言いたげに緩んだ。しかし、続く言葉はない。花火は幾重も昇りつめ、夕空に一瞬の光を与えていく。
 寄り添うような位置に、黙ったままの嶺二の腕が動いた。その手は、ゆっくり楓の腰にまわる。腰を抱かれた楓は、すぐに嶺二へ視線を向けたが、何を言うことなく灰皿に煙草を押し当てた。そして俯いて、静かに微笑む。嶺二の腕にこもってしまったわずかな躊躇いを楓が察したのかもしれない。
「……思ったよりもいいかもな」
 俯いたままの楓が、ポツリと声にした。思いもかけない言葉に、嶺二は何に対してかわからないといった疑問符の表情で楓を眺める。楓は、嶺二の反応が見ずともわかっていたようで、笑みを浮かべながら眼を向けた。
「ハ、ナ、ビ、が」
 そのわざとらしさに、嶺二もすぐ合点がいった。
「花火だけじゃねーだろ」
 訊き返せば、楓はまた俯いて破顔する。その笑みに、嶺二は腰を抱く指先に力を込めた。
 花火の咲く景色は、なおも続いていく。




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