* 朝顔は咲く *


 ラブホテルから一歩外へと踏み出せば、如何わしい喧騒から醒めたパノラマが広がった。夜とまったく異なる風景に妙な感覚を持ち合わせながら、楓は世話になった建物を見やることなく歩きだした。
 晩夏を思わせる肌寒さが、時おり少し湿った髪をくすぐる。早朝の風が人影のない路地を爽やかに清掃する。
 ……こんな感じなら、長袖を着てきてよかったな。
 そう思いながらジーパンのポケットに手を突っ込んで楓は気づいた。そういえば煙草はベッドサイドで吸った一本が最後だった。空になったパッケージは、中身がないとわかった瞬間にゴミ箱の中へ投げ入れたのだ。そのついでに直前までの出来事を無駄に思い起こして、うずうずと主張しだす腰をトントンと叩く。
 あの時ヤリすぎた腰の負荷に負けて、投げたパッケージはあらぬ方向に飛んでいた。それが八つ当たりのようなスピードだったらしく、バスルームから出たばかりの相手は、タオルで髪を拭きながら少し困ったように空箱を拾って所定のところへ入れてくれたのだ。「身体、大丈夫か」という言葉とともに。
 大丈夫なんてものではない。ただ、今回はじめに馬乗りになったのは自分だったわけで、あの快楽とぬくもりを引き換えにしてこの程度の痛みなら耐えられると思った程度だ。実際は相手に「全ッ然、大丈夫じゃない」と答えてさらに相手を困らせたわけだけれど。
 猥雑、という単語が似合ってしまうこの通りに、煙草を売る販売機がないわけがないと楓は周囲を見渡した。そういえば、時間差で後から部屋に着いた彼は煙草を買ってきていた。ならば使ったこのラブホテルの側面にでもあるのかもしれないと、横手の路地を覗き込んだ。
 視点をあわせた途端、飛び込んできた青に楓は大きな瞳をしばたたせた。路地で不釣合いなほどに映える青が、建物に寄りかかり鎮座していた。楓の視力は決して悪くない。しかし、それが何か特定できず、見定めようと路地を曲がる。まるで何かを思いださせるように、ひどく澄んで映るものに近づいた。
「あ、朝顔か」
 光を乞うように開かれた花を前に、楓はつぶやいた。植物は自生できる場所ならばどこにでもあるし、珍しいものでもない。それでも楓は見入られたように立ち止まっていた。
 花は信じられないくらい真っ青だった。紫がかった青い花はあっても、真っ青な花はないとされるこの世界に、文字通り空のように真っ青な朝顔がいくつも咲き乱れている。どこを見ても造花のように朽ちた部分はない。これは造花なんじゃないか、と楓が疑って花に触ってみると、生きている植物特有のしっとりとした肌触りが指を滑った。
 似つかわしくない場所に誇らしげに咲いている朝顔は、いかがわしい建物の側面を器用に這って蔓を伸ばしている。成長著しい蔓の先端はくるくると巻いていて、繋がる先を求めている。楓は若い茎に指を絡めた。
 ……昔、学校の授業で朝顔を育てたよなあ。
 朝顔のまつわる夏の思い出を楓は探し当てる。それは十何年前の話だろうか。思いだすだけで気が遠くなるような記憶の破片だ。
 あの頃の自分は、もちろん勉強なんか嫌いで、遊ぶこととリトルリーグで野球をすることと、そして朝顔を育てていたときは何色の花が咲くのだろうかと、ワクワクしながら日々を過ごしていたのだろう。そのときはまさか自分が重い腰を引きずりながらラブホテルの外壁で咲く朝顔を眺めているとは夢にも思わなかったはずだ。
 ……あたりまえか。ガキのときからそんなことを考えてたら、それはそれで怖すぎる。
 そこまで連想すると少し笑えてしまって、そっと花の一房に顔を近づけた。朝顔はどんな匂いがしたのだろうと記憶を手繰り寄せながら息を吸う。しかし、想像したような甘い香りはなかった。
 その代わりに、雑踏を忘れるような優しい自然の匂いがした。


 そろそろ出てもいい頃だろうとチェックアウトを済ませ、嶺二は雑然とした通りへと出た。楓は自分のつくったルールには厳しい。密室で二人きりのときくらいしか可愛くない楓だ。こうして人目にさらされる場に戻れば、嶺二に対して口やかましい男に戻る。
 涼しい風が舞う秋の気配を感じながら、ホテルに入る前に買っておいた煙草を一本抜いて火をつける。と、吐きだしてすぐに足が止まった。
「おい、」
 低い音程で投げかけた言葉を掬い取った相手は、我に返ったように振り返った。嶺二はついで、呆けたように突っ立っている先に何があるのだろうとちらりと目をやる。楓は大人しく嶺二のそばまで戻ってきた。嶺二に一瞥がくると同時に二人は歩き出す。目指すは駅だ。ラブホテルが軒を連ねるスポットで早朝男二人で歩いていれば怪まれても仕方ないシーンである。
「あんなとこで待ってたら、なんの意味もねぇんじゃねえか?」
 ホテルを使う時は互いの関係を悟られないよう、嶺二に『時間差』チェックイン・アウトを求める。そうした楓が使ったホテルのそばで嶺二を待っていて、嶺二の隣を歩いていては意味がない。いつもならば、駅の改札前かホームで再度落ち合うものだ。
「いいじゃん、べつに」
 軽く非難した嶺二を、楓はあっさりと何てことはないように応えてくれる。
 ……おまえがいつもすっげぇ気にしてるんだろ。
 そんな不躾な視線を向けると同時、嶺二の挟んだ煙草が抜き取られた。ちらりと楓は嶺二を見て悪戯っぽく微笑む。どうやら大変機嫌がよろしいようだ。
「それ、キツイぞ」
 反論するよりも、楓が愛用する煙草よりも重いタールだと警告した。すぐに白い煙とともに返ってくる。
「知ってるよ。……ん、クラクラする」
「言わんこっちゃねえな、ほら」 
 呆れたまま腕を掴んで支えてやる。嶺二の手におさまった腕は細いが、庇護されるようなものでもない。大体さっきまで、しなやかな筋肉がしなやかに動くことをラブホテルの中で散々見てきているのだ。
「ん、」
 楓は嶺二に促されるまま歩調を緩めた。寄り添うように歩いても、まだ眠っている路地は何も気づいていない。
 ……そういや、あれだけ運動すれば小腹も空くな。
 そう思って口を開こうとした矢先に言葉が聞こえた。
「そうめん食べたい」
 楓らしい、突発的な注文だ。しかも難易度が高い。
「ソーメン?」
 嶺二ははじめて聞く単語のように復唱して、該当のメニューをもつ飲食店を脳内で検索した。そもそもそうめんを出すような店などあるのだろうか。そうめんを焼きそばのように調理したものを出すところは知っているが、楓が食べたいのは流しそうめんのようなそうめんだろう。流しそうめんみたいなの好きそうだよな楓は、と余計なことまで考えだして、言葉の趣旨を思いだした。
「やってる店が思いつかねぇんだけど」
「じゃあ、冷やし中華でいい」
「朝から?」
「寝起きに激しい運動させたのは、どこのどいつだよ」
 楓の一言に嶺二は大人しく脳内で店を検索しはじめた。冷やし中華冷やし中華しかもおいしくてここから近い店。自分の知っているかぎりの飲食店リストをかき回す。その間に、楓の持つ煙草が摂理に合わせて短くなっていた。クラクラすると言いながら、ゆっくり愉しんでいたらしい。
 ようやく楓から渡された煙草は、もう吸い殻寸前だった。最後の一吸いを嶺二は愉しんだ。そして、息を吐きだしながら、冷やし中華の季節もそろそろ終わりかと、しみじみ思った。


 そうめんと冷やし中華という注文に翻弄されたらしく、悶々と悩む嶺二が切りだした。
「そういや、あんなに青いあさがおはじめて見たな」
 紡がれた言葉に楓は少しだけ驚いた。
 ……たまに、ヘンなところで気が合うんだよな。
 そう思うと自然に頬が緩んで「オレも」と呟く。そして、遠い日を思いやった。
 もしも今、咲く朝顔の色を心待ちにしていた自分が目前にいるとすれば、どんな言葉をかけてあげられるだろう。そうしてたくさんの言葉を引き出して、その言葉たちがどれも温かなものばかりであることに気がついた。
 そろそろと、朝顔の咲く夏は逝く。けれども、種は落ちまた来年も鮮やかに花開く。
 それはとても素敵なことだな、と楓は早朝の空を仰いでしみじみ思った。 




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