* 飼い猫の法則 *


 磨かれたカウンター、アンティークなデザインが施されたチェアや革の張ったソファー、それらほぼすべて黒で統一されたカフェバーの半個室で、涼雅は男友達の一人と向かい合っていた。
 ここは、涼雅の知り合いが経営しているバーだ。店内は薄暗い照明を宿し、きらびやかな大人たちが映えている。男性ブランドが大本になるバーということもあって、雰囲気はダークだ。カウンターには髑髏のクリスタルが置かれ、センスの良い客が身につけるシルバーやゴールドのアクセサリーが淡い光をキラリと滑らせる。
 イベントにも利用されるくらいそこそこスペースがあり、営業時間も長いことからそれなりに繁盛はしているらしい。芸能人も気軽に訪れる理由のひとつは、今涼雅が座っている半個室だ。薄いカーテンの間仕切りがあって、外からは見えないようになっている。この半個室は数スポット設けられ、リザーヴもできる。
 プライベート空間が保たれるこのバーを、涼雅は開店当初から気に入っている。そもそも大本ブランドの専属モデルをしているのだ。今いる半個室は、涼雅が連絡を入れると優先的に涼雅専用になるくらい、ここでは顔が利いていた。
 ……最近、よくここを活用しているからな。
 スマートフォンから来た通知をサッと見て、素早く返答すると涼雅は画面を閉ざした。
 文面は『涼雅、来てる?』という友人からの簡単な確認だ。同じモデル友達のグループが別の半個室かカウンターか、ダーツスポットか、どこかにいるらしい。顔を出したいが、『いるけど、打ち合わせなんだ。またあとで。』と返した。
 なんせ今は、目の前にいる人物の話を聞かなければいけない。
 涼雅は、友人の慶介に向き直った。彼もスマートフォンを触って、誰かに返信しているようだ。慶介の様子を見つめながら、涼雅はここ三ヶ月間のことを思い返した。
 デザインの仕事をしている慶介とは、数年前に共通の友人を介して仲良くなった。比較的オープンで明るい性格の彼とは好きな洋楽アーティストが同じで、一緒にライヴへ行ったり差し飲みしたりしている。ただ、お互いベッタリ仲良くするタイプではないので、半年に一度のペースで会う仲だった。
 それが、このところよく慶介と会っている。理由は恋愛沙汰だ。
 これまでの慶介は、音楽のことや小難しい話、おバカなネタなど当たり障りのない話題をすることが多かった。深刻なのは仕事の悩み相談くらいで、デザイナーらしい見た目の割に案外女の話をしないところが少し面白いと感じていた。潔癖なのか純情なのか硬派な性格なのか、そのどれかだな、というくらいにしか思っていなかった涼雅だったが、その慶介が最近、恋愛の話も持ち出すようになったのだ。
 聞き上手な涼雅は、普段から人の相談を受ける役にまわることが多い。慶介にたいしても聞き役ぶりがあまりに良かったのか、涼雅の深入りしない大人な態度に相当気を許したのか。はじめはさりげなく軽い恋愛ネタが世間話の一環で差し込まれていたが、やがて恋のお悩み相談と化し、もはや今ではただの暴露話になっている。
 無論、暴露話であるからして、この頃の話のエロさも容赦がなくなっていた。しかも、アダルトな話題でも、本人はなまじ本気で悩んで涼雅に相談している節もあるのだから、相談されている涼雅もなんだかんだで拒否権を発動させずにいた。信用されている良い証拠でもあるといえるし、自慢話を延々と聞かされているわけではないから、この友人の相談相手は苦ではない。
 それに、慶介が出してくる特定の人物も気になる。「実は、ほんとに秘密にしててほしいんだけど、」と、三ヶ月前に彼が言い出した相手。名前は知らない。付き合っているようだが、恋人だと慶介は言わないから、微妙な関係なのだろう。ますます興味深い。
 それに、涼雅は相手の話を聞く中で、なんとなく近隣の業種の人間のような気がしてきているのだ。業界は案外狭い。慶介の特定の相手に引っかかりを感じてしまうということは、涼雅を密かに楽しませている。澄まして相談を聞きながら、ちょっとした探偵気分なのである。
 さて、これから慶介の恋愛相談だ。
 スマートフォンをおさめた慶介が、「ごめん、またせた」と言って涼雅を見る。互いの手元にあるウィスキーグラスはやさしい琥珀色をテーブルに反射されている。慶介は少し躊躇っている表情だ。相談前の一呼吸が終わるのを、涼雅は「いいよ」と返して和やかに待った。
 慶介も込み入った話をしている自覚があるのか、恋愛ネタはカフェバーの半個室でしか出さない。それもそのはず、彼の相談はこのところ深刻なのだ。
「こないだの話、覚えてるか? 」
 涼雅に視線をちらりと向けて、慶介がようやく切り出した。
 前回の話はよく覚えていた。慶介が特定の相手に『バック以外でしたくない』と言われて、ものすごく真剣に悩んでいたのだから、涼雅も忘れるはずがない。
 はじめ耳にしたときは、何のバック? と涼雅は素で問いかけてしまいそうになったのだ。バックのイコールが後背位であるとすぐに気がついたものの、ド直球な相談に聞き役のこちらが驚いた。そこまでリアルでエロい相談を、慶介の口から今まで聞いたことがなかったからだ。
 今回はその後日談のようである。涼雅が頷くと、慶介がため息まじりに続けた。どうやら躊躇いがなくなったようだ。
「アイツと、あのあとまたそういう機会がつくれたんだけど、」
 そうして、慶介とアイツの会話でのやり取り話がはじまった。涼雅は相づちを打ってまた思う。
 涼雅が不思議に思う点のひとつ。
 慶介の『アイツ』呼ばわりだ。慶介は、話題に出す特定の相手のことを『アイツ』と呼んでいる。
 今はじまった慶介の話も、特定の相手の仮名は『アイツ』だ。はじめの頃は『あのひと』だったが、いつの間にか『アイツ』になっていた。友人関係にあった相手と、そのまま付き合うことになった感じだろうか。フランクな女性なのか。
 しかも、『アイツ』と呼ばれる相手の性格も、これまでの話を聞くに、相当のキャラだと涼雅は思っている。『あのひと』と呼んでいた頃は、あまり性格が読み取れるような話し方をしていなかったが、あれは慶介が相当オヴラートに包んで話していたのだということに、後で気がついた。
 『アイツ』は慶介の発言から読み取るだけでも、ものすごく意思が強い人間で、慶介に投げる言葉が容赦ない。そんなキツイ言い方をされて、よく別れ話にならないな、と涼雅が思うほどだ。
 しかし、慶介は槍のようなアイツの言葉に激昂することなく、ただただ真に受けて悩んでいる。それどころか涼雅が『その子の言い方、かなりキツイよね』と返したとき、逆に慶介はアイツのことを懸命にフォローし出した。お互いの性格をよくわかってるから、アイツもそう言うのだ、と涼雅にのたまったのだ。慶介は、アイツに対して完全に弱みを握られているか、ゾッコンなんじゃないかと、そのときに涼雅は本気で思った。
 また、身体面の印象をいくつか聞いているが、それらを総合すると骨自体が華奢な、ひじょうに細い子らしい。そして身体の筋が柔らかい。体温は慶介より低めで、慶介は暑苦しいとよく言われると語っていた。セックス中に相手をうざがる、とは相当いい神経をしている。しかし、慶介本人はあまり気にしていないらしい。かわいそうに、言われ慣れてしまったのだろう。
 さらに、こぼれた話を拾うと、セックスに持ち込むまで妙に時間がかかるらしいが、アイツ本人は慶介とのセックス自体を嫌っているわけではないらしい。相性が悪くないことは確実だ。
 セックス込みの関係になったのは、長くて数ヶ月前からだろうと思っていた涼雅だが、アイツとの話を聞き続け、ニ年は付き合ってるな、と印象を修正していた。慶介が言う『昔はもうちょっとアレだったけど、昔のほうがアレだったもんなあ』の『昔』が、どう考えても月単位ではないのだ。
 それと同時に、涼雅はアイツに対してひとつの仮説も立てはじめていた。アイツの特徴を、ある程度聞き込まなければ立てなかった仮説だ。
 アイツが、異性ではないという仮説である。
 昨今、男性を上回る男勝り女性もいるのだから、まったくあてにならない仮説だが、話を聞いているに女性でない可能性も捨てきれないのだ。 しかし、それでも、『アイツって子はもしかして異性じゃないこともある? 』と突っ込む権利はまだ涼雅になく、おとなしく慶介の話だけで真理に迫ろうとしていた。  慶介とアイツの話は長い。
 目の前で延々と慶介が語っている内容を要約すると、こうだ。
 『バックでしたくない』理由をどうしても聞きだせず、数日前のセックスのときに、強行突破で正常位へ持ち込んだ。その正常位へ持ち込むにも、アイツの力もけっこう強くて大変だったという。
 「考えてみると、アイツあの細さのどっから力をだしてんだろうな」と独り言をつぶやいた慶介に、涼雅は『俺のほうが訊きたいよ』と心の中で突っ込んだ。こういうことを言うから、ますますアイツが女性ではない説が捨てきれないのである。
 話は続いていく。正常位でコトがはじまると、さすがに抵抗もおさまったらしい。気持ち良さそうにしがみついて喘いでくれたのだから、バックじゃないといけない理由はそんな深くないと思ったのだそうだ。
「……それで結局、理由はわかったの?」
 涼雅が相づちも兼ねて訊くと、慶介は顔を曇らせた。どうやら、ここからが本筋のようだ。
「オレに、無意識に鎖骨を甘噛みするクセができたみたいで、それが痕になるってうっかり噛んだ瞬間にキレられて……終わった後に、おまえの顔も見たくないって」
「……」
 慶介は見事に凹んでいるが、聞いている側としてはいろんなところに突っ込みを入れずにはおれない。
 そこに愛があるのかどうか以前に、半ばプロレスみたいなセックスをアイツって子としているのか、と、涼雅は感動さえ覚えた。確実に、自分にはできないレベルの芸当だ。
「でも、鎖骨を噛むとアイツの具合もよくなるから、絶対アイツの性感帯なんだよなあ。痕がついちゃうのは……ほら、俺もアイツにあんな顔されると、つい加減が、でも残ってもほんとちょっとだけなんだよ。仕事に支障ないくらいの、」
 ブツブツと独り言が聞こえる。ぶっちゃけすぎにもほどがある。アイツの性格から考えて、今のぶっちゃけ話を聞いてしまっていたら、間違いなく慶介をぶん殴っていることだろう。
 この際、一回殴り合いでもするくらいの話し合いでもすべきじゃないか、と涼雅は心の中でこっそり助言した。特にアイツが女性以外ならば、殴り合っても一向にかまわないだろう。
「あと、あんまじろじろ見られんのが嫌だってさ」
 慶介が落ち込んだようにため息を吐いた。
 この言葉について涼雅は、なるほど、と思った。
 じろじろ見られるのが嫌なのは、生理的にアウトなのか、恥ずかしいからなのか。おそらく後者だろう。アイツの性格を考えるに、生理的にアウトならば、まずセックスを許さないはずだ。
 ……バック以外でしたくない、って、そうか。けっこうかわいいところもあるんだな。
 気難しそうなアイツだが、慶介に感じているところを見られて恥じる面もあるのだろう。慶介はそれなりに好かれている気がする。単純にアイツにとってのアウトは、『痕を残す』ことだけのようだ。
 それにしても半分プロレスのようなセックスで、慶介が相手にうっかり痕を残してしまうタイプであれば、以前からアイツの身体に痕がついていたに違いない。それがなぜ最近になって、痕がつくことに激怒するようになったのだろう。鎖骨、という場所に問題があるのか。
 『鎖骨』というキーワードに、涼雅は何かしら引っかかるものがあった。
 アイツの話題を聞いていると、時おり涼雅の心のレーダーに引っかかるものがあるのだが、今回は涼雅自身にも大いに身に覚えがある。
 口に出したことで慶介はショックがぶり返したらしく、涼雅に「どう思う? 」と訊くことなく、完全に落ち込んでいる。だが、涼雅も推理の時間がほしかった。  鎖骨の痕について、考えれば考えるほど、ものすごい既視感があったからだ。以前から涼雅が、おや? と引っかかりを感じることが多いアイツの話だが、これほど気になった単語はない。
 ……鎖骨。鎖骨か。
 そういえば、歯型のような痕がある鎖骨をどこかで見たような記憶があるのだ。
 涼雅は、さまざまな場面を思い返した。それも、遠い過去の話ではない。ここ一週間くらい話だ。そんな間近に、情事の痕が生々しい鎖骨など見ただろうか。見たような気がしなくもない。
 ……見たというよりは、口にした気がするな。『それ、歯形? 』と。
 涼雅は目を見開いた。
 ……そうだ。思い出した!
 記憶は、歯形で間違いない。歯形? と訊いてしまって、『あ、つい言っちゃった』と思ったことが、確かに涼雅の記憶の中にあったのだ。
 とうとう涼雅は、確かなアイツへの糸口を見つけた。
 ……俺は、慶介のいう『アイツ』を絶対に知っている。
 それも、一、二度会っただけなどという人物ではない。歯形か? と涼雅が問えるくらいの近しい人物だ。
 『あ、つい言っちゃった』と思ったときの記憶を頼りに、涼雅はその場面を思い出そうとした。
 その相手はどこの誰で、どちらで会ったか。歯形は、記憶が正しければ、丸々残っていたわけでもなく、間近で見てようやくわかる程度のささいなものだったはずだ。
 相手と場所がおぼろげに出てくる。明るい照明と部屋。その日はプライベートな感じではない。服の着替えか何かをしている場所。モデルは着替えが仕事の一部だ。そのひとも、着替えるひとか着付けるひとかスタッフか何か。
 ……いや、肌を見たときだ。きっと。
 その人がその人らしくなく、素肌を見せることを避けているように、涼雅には感じられていたのだ。だからこそ、何か気になってしまったのだろう。その日の涼雅には、そう思っていた記憶がある。
 だから、鎖骨のささいな痕を見つけ、それが理由なのかと、無意識に訊いてしまったのだ。言われた相手は一瞬だけ驚いた顔をしていたが、そこまでの動揺はなかった。
 第一、涼雅の知るその人物は、そんなことでものすごく動揺するタイプではない。きっと涼雅以外の、スタッフやメイクさんなんかに言われていた可能性はあるのだ。
 だから、訊かれた彼は落ち着いた面持ちで、『これ、やっぱり歯形に見える? 』と逆に涼雅に問うたのだ。
 涼雅はたちまち、ハッとしたように慶介を見た。
 慶介は、涼雅の視線に気づいていない。よほどショックなのだろう。
 それもそうだ。今まで、まったく気づかなかった。こんなにアイツの話を聞いていたのに、見当もついていなかったのか、と、涼雅はまじまじ慶介を見つめた。
 アイツが女性ではない、というどころの話ではない。
 直接言われるまで、慶介に恋人がいると気づかなかったのは、おそらく相手との約束があって慶介自身が相当気をつけて隠していたからだろ
 慶介と関係を持つ『アイツ』は、涼雅のすぐ近くにいた。同じ事務所のモデル仲間だ。しかも、何年も前から見えない秘密がつくられて、それは当たり前のように育まれていたのである。
 おもむろに立ち上がった涼雅に、慶介が驚いたようだ。見上げてきた不安げな表情に、「ちょっと用足してくる」と返せば、「ああ、」とため息のような了解が得られる。
 涼雅はカーテンを開けて深呼吸をひとつした。パズルがすべてはまったようなすがすがしい気持ちと未来へのワクワク感が増大する。歩きながらスマートフォンを操作して、電話をかける。
 偶然は必然かもしれない。SNSに先ほど連絡を入れてくれた相手が、同じざわめきのなかで応答する。
 探偵ごっこは、ひとまず終了だ。


   *   *   *


 トイレへ行ったにしては時間がかかっているな、と思いながら空になったグラスを置く。追加オーダーしようと薄いカーテンのほうへ顔を向けた慶介は、タイミングよく開いた先を見上げた。
 そして、凍りついた。
 にこやかな表情の涼雅が、無表情の美晴を連れている。
 突然目に飛び込んできた恋人の姿に、慶介はなんのリアクションも取れず呆然と見つめた。涼雅のいる手前、美晴も険悪なムードは出していない。しかし、涼雅に呼ばれた理由はわかっているのだろう。
 美晴の目は、慶介にしかわからない角度で完全に据わっていた。
「とりあえず、美晴と話し合ってみたら」
 慶介を気にすることなく、涼雅はあっけらかんとした口調で美晴へ、座りなよ、と促す。
 どうやら涼雅は、仲裁する気もなく連れてきたらしい。
 なぜここに美晴がいるのか。一時間ほど前にメールで、夜は友達と打ち合わせだ、という文面をもらい、慶介も『俺もそうだ。明日は会おうな』と返したばかりだ。
「少ししたら、また戻って来るね」
 涼雅は楽しそうに両手で持っていたグラスのひとつを美晴の手に持たせる。そして、軽く手を振ってカーテンを閉じた。
 待てよ! どころか「あ」の一つすら発せなかった。
 カーテンが閉まった瞬間、美晴のこめかみが、ヒクッと大きく動いたからだ。端から、慶介に逃げ場などなかった。
 ガンッと力強い音を立ててグラスがテーブルに置かれ、慶介が顔を引きつらせる。美晴は立ったまま、不肖の恋人に焦点を合わせた。端整な顔立ちから、美しい怒りの笑みとともに口元が開く。
「で、どういう話を聞かせてたか、一から話してくれるんだよな、慶介さんよ、」
 慶介は、涼雅のことを心の底から鬼だと思った。




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