* PUSSYCAT *


 赤いヘッドライトが延々と続く道。仕事の帰りに、タクシーはものの見事に渋滞にハマってくれた。それがさらにイライラを募らせる。横をちらりと見ると、対向車を眺めている近すぎて今は遠いぬくもり。
「見事にハマったなあ」
 明るい調子で言いながら、隣に座る敦洋はこちらへ顔を向けてこない。瑞貴がおもしろくない気分でいることをわかっているからだ。
 ……いつものパターンだ。いつも、いつも。
 よせばいいのに、瑞貴の機嫌がよくないときほど敦洋は誘ってくれる。しかも人の多い街へ繰り出す。その時点で嫌な感情が余計綯い交ぜになることをコイツはわかってるんだろうか、と、瑞貴は気温差で曇る硝子をにらんだ。
 ……ネガティヴな気分のときに、人の多いところで食事や酒なんか楽しめるか。
 寂しいときや孤独を痛感するときがあっても、人ゴミだらけの街に瑞貴は行かない。行き交う他人を眺めているとますます虚しさを感じてしまうからだ。楽しそうなグループやカップルがいると特に悲しくなる。猛烈に、悲しくなって胸が痛くなる。
 そうしたとき隣に敦洋がいてしまうと、結局瑞貴は感情を抑えきれず爆発させてしまって、彼をホテルへ引きずり込むのだ。敦洋は瑞貴の鬱積を溢れさせるのが得意で、そして、一瞬のうちに昇華させるのも上手だ。感情のままセックスすると瑞貴の心が凪ぐ。それを瑞貴だけでなく敦洋も気づいている。けれど、セックスに行きつくまでの不快感が瑞貴は嫌いだった。イライラが沸々と滾っている。
 ……楽になりたい。静かなところに行きたい。こんな狭いところは嫌だ。
 夕闇に赤のランプが映え、クラクションの音が響き渡る。瑞貴はシートに背を預けたまま目を閉じた。ここから一番近い繁華街は渋谷か表参道だ。歩いて二十分くらいの距離。いつもなら歩いて行く道を、今日は敦洋は制した。瑞貴が風邪気味だということを察しての、タクシーという配慮だった。それがまた居心地悪い。おもしろくない。その上の渋滞だ。こんな時間、山手通りが混まないはずがない。
 眉を寄せて数度咳をする。時間が経つごとに、風邪で痛む喉と鬱積が空気も封じていく。息苦しい赤い行列。また浮かんだ赤信号。沈痛な赤ばかりだ。黙る瑞貴の横で、別段気にすることもない様子の敦洋。
 ……苦しい。もう嫌だ。無理だ。
 触れてこない距離、触れられない気持ち。赤信号はじきに終わる。
 目を開けた瑞貴は勢いよくドアも開けた。
 突然の寒気にぎょっとした顔で敦洋が振り向く。それを気づかなかったことにして、瑞貴はさっさとアスファルトに靴底をつけて逃げ出した。後ろで運転手の焦る声と自分の名を呼ぶ声を分厚い鉄で閉ざして振り向きもせず歩道に移る。青信号に急かされたタクシーがのろのろと動いてゆく。
 かじかみはじめた手をトレンチコートに突っ込んで、そのまま早く行ってしまえ、と心の中で叫んだ。胸が痛み出すと同時に、くしゃみがでる。
 つまらない。寒い。喉が痛い。おもしろくない。心が冷える。
 ……なんか、寂しい。
 タクシーを飛び出るほど逃げ出したいはずなのに脚はまるで動かない。すぐに走る気力が失せて瑞貴は顔を俯けた。
 ……今さっきの威勢のよさがバカみたいだ。
 自己嫌悪に襲われる。身勝手な行動で、タクシーの運転手をびっくりさせて敦洋を置き去りにした。また迷惑をかけた。敦洋が傍にいるとそんなことを繰り返してしまうのだ。衝動を止められない。
 ……早く、早くどっかに行けばいい。
 とぼとぼと下り坂を歩く瑞貴はタクシーと敦洋の行く末を願った。さっさと別のやさしい人間の傍にでも行ってしまえばいい。こんな勝手な自分なんてさっさと捨ててしまえばいい。
 そう願うくせに、別のことを期待している自分がいる。
 運転手に謝りながらタクシーをとめて、自分を探しにきてくれる敦洋。感情のまま振り切ろうとする自分を必死になって呼んで、心配するように駆け寄って手を伸ばしてくれる彼のぬくもり。
 ……いつか、どうせ、おれの前からいなくなるくせに。
 今みたいに何度何度も試して、やがて手に負えないと呆れられるんだろう。
 泣きたくなる。期待している。バカみたいに諦めないでいてくれる敦洋が憎くて、それでも無意識に夢を見る。動けなくなる。
 抱きしめてくれることを、ただただ強く願っている。
「瑞貴!」
 名前を呼ぶ声が背中越しに聴こえた。敦洋に一喜一憂する自分が嫌で、それでも早く、早く来ればいいと、無意識に祈る。咳が出る。かじかんだ指が、縋るようにぬくもりを欲してる。
 ……ほんと、バカみたいだ。


 *   *   *


 暗くなった大通りに外灯と車のライトが寄り添う。眠らない街を示す地上の光。冷えている空気の横でタクシーが動き出す。
 慌てて降りた敦洋は外から再度詫びるような一礼をして、愛想を尽かしたように逃げ出した細い背中を捜しはじめた。信号の多さと渋滞のおかげですぐ降車できたのだから、瑞貴を見つけることも難しくないだろう。逃げたと言っても、走って逃げるほどの気力を持たない男だ。しかも瑞貴は風邪を引いている。
 思ったとおり、駅方面へ向かう道の途中で咳をしている猫背の背中を見つけた。
「瑞貴!」
 呼んでも彼は振り返らない。クラクションや車の音にまぎれて聴こえなかったか。機嫌の悪さから聴こえない振りをしているのか。おそらく後者だ、と、敦洋は確信した。
 不機嫌そうなときにあわせて瑞貴を誘うことが、永く敦洋の習慣になっている。ムカついているときはひとりにしてほしいという意見もわかるし、敦洋自身もそういったときがあるわけだが、瑞貴が不機嫌なときや鬱積を溜め込んでいると気づいたときにはかならず声をかけている。何かをしてあげたいという、ただその一心からだ。
 自分に何ができるのか、どうすればいつもの表情を取り戻せるのか。解決策はいつも見当たらないが、とりあえず誘って街へ繰り出す。瑞貴はなんだかんだありつつも、敦洋に欲しいものを求めて最終的には落ち着いた様子となる。良いときには、ネガティヴな感情が嘘だったような笑顔も見せてくれる。そのときに、安堵と愛おしさを感じる。
 ……好きなひとのためになりたい。
 瑞貴の決して明るくない性格はよくわかっている。考えすぎて鬱々しい思いに苦しむ彼を放っておけないのは、瑞貴のことが好きだからだ。傍にいるときにできることは少ない。一緒に住んでいるわけでもないから、傍にいられる時間も多くない。限りある日々のなかで、敦洋は穏やかで元気なときの瑞貴といるよりも、鬱積を溜め込んでいる瑞貴と会うことを望むようになった。彼の苦しみを赦して抱きしめたい。そして、笑顔になった彼をまた日常に送り出したい。
 ネガティヴなときほど、瑞貴は嫌な顔をしながら誘いに乗ってくれる。最近は誘いを待っているような素振りも見せる。
 ……でも、このところは俺も受身になりすぎていたか。
 心も身体も華奢な瑞貴を想うあまり、彼に触れることに躊躇がでていたのは間違いない。強く迫られなければ抱かない感じになってるな、と、タクシーのなかで対向車のヘッドライトを見つめながらちょうど思っていたところだった。
 もともと瑞貴の気分に任せてセックスをする仲だったが、彼の激しい感情の乱高下を心配するあまり、求められても最近は少し引き気味で彼を扱っていた。瑞貴もそれを察しているのか、衝動的なセックスの回数も以前に比べて減っている。もしかしたら良くないスパイラルに陥っているのかもしれない、と、思ったとたん彼に逃げられた。
 突然の逃亡に唖然としたが、同時に負のスパイラルに陥りかけていた原因にも気づけた。瑞貴は何も言わない。同じように、敦洋も彼にたいしての気持ちを一言も口にしたことがなかったのだ。
 迷いなく瑞貴を愛する気持ちはある。無意識下にこの感情があったから、瑞貴との身体の関係にはじめから抵抗がなかったわけだ。でも、最初から男の身体に慣れていた素振りの瑞貴が、恋愛という感情を持って自分と関係を続けているのか疑問だった。世の中にはセフレという単語がある。特に心が寂しい男は案外簡単にセックスできてしまう。
 ……けど、さすがに今は、ただ寂しいからとか、ヤリたいから、俺を選んでいるとは思ってねえよ。
 この関係は二年近く続いている。もう、言葉がなくても敦洋は確信していた。
 ……瑞貴は、俺だから抱かれるんだ。
 ただ、タイミングがあわなくて想いを告白することはなかった。瑞貴もそれを求めていないし、と、理由をつけて先延ばししていた。本当はたとえ玉砕してでも、瑞貴に想いを伝えるべきだったのだ。
 ……伝えても、関係は壊れないし、俺は壊さない。
 とぼとぼと歩く薄い背に追いついた。横に並び歩調をあわせる。追いかけてくれると予想はしてくれていたかもしれない。しかし、敦洋が傍に寄っても知らん振りして下を向いている。
 独りで殻に閉じこもろうとする様子に、敦洋はたまらず腕をつかんで脚を止めた。瑞貴が驚いたように顔を向けた。
「なにすんッ」
 強がる口調を敦洋は問答無用で引っ張り、すたすたと方向転換して大通りから逸れる。抵抗するかと思ったが、敦洋の珍しい強引なアプローチに、瑞貴もおとなしくつかまれた腕とともに従ってくれる。彼の咳する声を聞きつつ辿り着いたのは、通りから隠れたビルとビルの隙間。灯の遠い場所だ。
 敦洋は向き合って瑞貴を見つめた。眉をひそめた瑞貴から出てくる言葉よりも早く手で引き寄せる。逃がさないように頼りない身体を抱きしめる。
 唐突な行動に、瑞貴はびくりと身を揺らしたものの嫌がる仕草には至らなかった。すっぽりと敦洋の熱を受け入れている。
 本来は抱き寄せても、よほどのことがないかぎり逃げないはずの肢体なのだ。
 ……俺はなんでこんな遠慮をしていたんだろう。
 冷たくなっている彼の薄い耳に頬を寄せる。寒空の闇に微かな光が洩れる。遠くで聞こえるクラクションの音。
 瑞貴が息を吐いた。今までの詰め物が取れたような、ため息に近い白い闇。少し身じろいだ彼は、なぞるように敦洋の背中に腕をまわした。ぬくもりを欲して肩越しに顔を押しつけてくれる。
 ごほごほと咳を繰り返した背を撫でれば、敦洋の肩に頬をこすりつけて瑞貴は身体の力を抜いた。
 敦洋を求めて頼る小さな仕草の数々。たまらず愛がこぼれる。
「好きなんだ、瑞貴」
 言いたくても、ずっと勇気が出ず、先延ばされていた言葉。渾身の想いをこめて紡ぐと、瑞貴は一瞬でまた身をかたくした。タブーだったのか、正しかったのか。敦洋は待った。
 瑞貴の腕に、力がこもった。ぎゅっと敦洋に身体を押し付ける。
「もう一回、聞きたい」
 小さくねだった声は甘さをはらんでいた。
「何度でも言ってやるよ」
 敦洋は胸がいっぱいになって続けた。
「愛してる」
 真摯な告白に顔を上げた瑞貴は、目を細めて愛しそうに敦洋を見つめた。心から嬉しそうな彼の表情を見たのは敦洋もはじめてのことで、そっとくちづける。
「おれ、……今、死ねたら、幸せかも」
 ついばむようなキスの後に瑞貴らしい一言がこぼれ落ちた。敦洋は小さく笑う。
「死ぬときは俺もつれてけよ」
 もう一度強く抱きしめると、瑞貴も頷いてまわした腕をしばらく外さなかった。




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