* シーサイド・タイム。 *


 暗闇に浮かぶ星々と高い位置からこぼれる人工灯の光だけが、浜辺の道しるべになっていた。
 ……西垣が海を見に行かないかって言わなきゃ、今頃ゲームしてたんだろうな。
 今泉は海沿いの景色を横目にして思った。潮騒の音は此処に行き着いてから、幾度も飽きず同じ風情で鼓膜に伝わっている。合宿している高校から一〇分の距離。誘われなければ訪れることもなかった場所だ。
「やっぱ、海風はいいなー」
 気持ちよさそうに伸びをしながら歩く彼に、今泉は小さく頷く。西垣は小学生四年生のときまで、親の仕事の関係で瀬戸内海のとある島に住んでいたという。その後、本土の海の遠い街に移り、高校で同じ部活の今泉と親しくなった。西垣は自発的に海へ行くことはないようだが、部活の関係で海が近い高校へ伺うとかならず帰りに海を眺めに行く。
 今泉がこの浜に来たのは二度目だ。去年のゴールデンウィーク合宿からもう一年経ったのか、と改めて気づく。夏を過ぎると、とうとう部活も引退の季節になる。
 ……今年も晴れてよかった。風もなかったし。
 合同練習試合とミーティング。部活のメンバーで日々を一緒に送るのは大変だが楽しい。あてがわれた部屋では、一日のスケジュールを終えた夜の暇に寝ているか盛り上がっているやつらがほとんどだろう。海まで来ている部員は西垣と今泉だけのようだ。
 夜空はどこまでも均一に広がってゆく。先刻まで、波際に近づいて西垣と笑いあっていた。
「なあ、ついでにコンビニちょっと寄ってみる? 遠回りになるけど」
 囁く潮騒の合間に、西垣が今泉へ大きな瞳を向けた。言いながら、彼は携帯電話を取り出す。
「時間は?」
 ディスプレイが闇夜に映えると、西垣は画面に記された時間を口にした。体内時計で予想立てた時刻よりもさほど経ってはいない。
「あと三〇分くらいなら、まー怒られねーとは思うし」
 ハーフパンツにしまわれると、途端に暗さが戻る。そろそろ西垣が指していた手すりのある階段に着くところだ。
 手すりのある階段はこの海岸では数少なく、その中でも唯一横向きに出っ張ったかたちでつくられていた。その向こう側に続く浜辺は、上の車道に連なる電燈の位置が良くないせいか、今泉たちが歩いてきた砂地より暗い。そして階段のせいか窪んで見えたのだが、目を凝らすとどうやら階段から先は本当に奥行きが伸びているようである。
「ちょい待って」
 唐突に西垣が、今泉を小さな声で制した。今泉は言われた通り止まるものの、先ほどまで声量なぞ気にも留めず言葉を発していた西垣が声を潜めて足を止めた理由が知りたくて彼を見た。
 西垣は何かを探るように周囲を見ると、またゆっくり歩を進めた。そして、ひとまずの目的地であった階段の上り口を過ぎる。彼の目は、その先の暗がりを映していた。
 というより、階段をかたどっている壁のせいで死角となった場所を、壁越しに見つめているようだった。上り口の反対側を意識して近づくと、今泉の耳にも潮騒ではない別のものが耳に届いた。
 ひとの、話し声だ。
「こっち」
 手招く西垣に今泉は従った。ここまで慎重になる理由は何なのだろう。その疑問は、次第に声が聞き取れるようになって解消される。そして、声の主たちに心当たりがあることに気がついた。
 暗がりの奥で、二人分の声が続いている。小声だが、時おり何と言ったか聞き取れるくらいの音量になる。
 よく知る声だった。浜辺に二人がいるという意外性に、今泉は驚きを感じて隣を見た。
 西垣はどうやら早い段階で気づいていたようだ。暗闇に紛れて姿が隠しやすくするためか、西垣が早々と壁へ這うようにしゃがみ込む。今泉は身体を斜めにして、観察する気満々の西垣が空けた頭上から暗がりを覗いた。
 同級生で同じ野球部員の志紀と眞鍋がいた。壁に寄りかかるようにして何かを話している。会話の具体的な内容までは聞き取れないが、深刻な話をしているわけでもなさそうだ。会話が途切れた沈黙も重くはなく、すぐに声は復活する。
 ……別に覗き見するようなものでもないじゃん。
 西垣と並んで今泉もしゃがみ込んだ。そして、盗み見するのも変じゃないか訴えようと口を開いたところでふさがれる。西垣が今泉の口許を覆ったのだ。
 彼を至近距離で見つめれば、面白いものを見つけたかのような表情をしている。そして、「待ってて」と音声なしに訴えて今泉から手を離す。
 死角から二人を見て楽しいことなど一切ない。しかし、面倒事に自ら首を突っ込みにいくタイプではない西垣が珍しく人間観察を決め込んでいるのだから、あの二人に何かしらの秘密があるのだろう。
 今泉にとって、真鍋は同じクラスの仲間だ。守備は普通だが、打撃では両打ちできる選手でなんだかんだ重宝されている。性格も明るくすぐ手を抜くタイプだ。一方、志紀は副部長でエースピッチャーで真面目、野球に対して独特の美学をもっている。真鍋の一〇倍とっつきにくくて後輩に怖がれている存在だ。ただ、西垣と志紀は小学校から一緒で仲がよく、今泉時々雑談にまじっている。
 ……確かに、珍しい組み合わせだよなあ。
 真鍋と志紀が親しく話しているところは数度しか見たことがない。凛として細かい志紀と、部錬メンドーという顔を隠さない真鍋ではそもそも性格があわないはずなのだ。しかも、此処は浜辺。行こうと決めないかぎり、向かうことはない。
 ……二人とも別々に浜まで出てきて、途中で会ったとか?
 しかしそれは偶然にしてはできすぎている、と今泉は思った。今泉と西垣のように、二人連れ立ってきたほうが自然だろう。この数日、部員全員昼夜同じ場所で寝食を共にしているのだ。海を見るでもなくこんな暗がりで密かに話し込む事柄でもあったのか。
 ……やっぱり何か問題でも発生していた? 部活で個人的になんかあったとか?
 今泉は考えて心配になった。
 先ほどよりも夜目が効いている。立ち上がって覗きなおすと、志紀が眞鍋の腕をつかんでいた。二人の距離がやたら近い。声はさらに潜められたようで、海の音に重なり消えている。
 ……あれ?
 様子がおかしいと思った。口論とは違うし、雑談とも違うし、妙な雰囲気だ。
 ……なんか、そわそわしてくるんだけど。
 目を凝らして見つめる。真鍋が動く。志紀に不自然なくらい顔を寄せた。
 起きている事態に、目が点になった。
 暗がりのせいで詳細まで見えなくとも、顔だけでなく二人が密着するように動けば、それが何たるものか初心な今泉にもよくわかる。
 予想していない展開に、気が動転して真下にある西垣の頭を見た。西垣は覗き込んだ姿勢のまま、身じろぎもしない。そして驚いているようにも見えなかった。しかし、二人がしている行為をおそらく西垣もわかっているのだろう。
 あれは、恋人同士がするようなハグとキスだ。
 今泉は見るのを止め、西垣の隣にもう一度しゃがみこんだ。今の出来事の整理すべきだろうが、この際なかったことにしたほうが楽かもしれない。
 ……っていうか、西垣はわかっていて見てたんだな。
 西垣を横からにらみつける。これでは完全にデバガメという行為だ。
 小声で文句を言おうとすると、潮の匂いが鼻腔をくすぐった。そして凪いだ海岸に、今泉のくしゃみが響き渡った。


   *    *    *

 西垣は隣から発された不可抗力に慌てて今泉の顔を見た。今泉も手で口許を押さえて西垣を見つめている。視線がかち合うが、この時点で解決策はない。
 今ので間違いなく誰かが物陰に居たことが、あちらにもバレたであろう。バレていなかったら、それは奇跡か、よほどのバカップルだ。そして、少なくとも志紀が二人の世界に浸りきるバカップルという人種になりきれない性質だと、西垣はよく知っていた。
 ……まずったなー。明日も合宿だから逃げらんねーし。 
 開き直って自分から登場していくか、大人しく見つけられるまで息を潜めているべきか。西垣が考えている間もなく、足音は死角の壁を越えた。
 志紀に見下ろされている。
「おい、」
 何やってんだコラ、とでも続きそうな低い声が、頭めがけて振り落とされた。しゃがんだまま顔を上げれば、予想するまでもなく機嫌を完全に損ねたピッチャーがいた。
 西垣と今泉座り込んでいる時点で覗いていたことは知られている。しかも、首謀者は西垣だということまで悟っているはずだ。現に、志紀は西垣しか見ていない。
 この状況でなんと応えるべきか考えながら、西垣は動じず身体を起こす。隣の今泉も同じように立ち上がったが、オレは絶対に悪くない関係ないオーラを頑なに身に纏っていた。今にも階段の上り口に素知らぬ顔をして上りそうだ。
 どこから見てたんだ? と、続きそうな志紀の表情ではあったが、絶対にそんな訊き方をしないことだけは、西垣でもわかっていた。志紀は今さっき起きた事柄を絶対になかったことにしたいはずなのだ。下手に訊いてしまったら、それこそ眞鍋との行為を二人に認めることになってしまう。
 ……志紀の性格からしたら、全部なかったことにするよな。
 そして、その素振りが一番うまくいくのは、志紀が黙秘したまま先に浜辺から離れることだ。西垣が思案した通りのことを志紀自身も真っ先に思ったようで、結局彼は後に言葉を続けず、振り切るように階段の上り口へ向かっていった。
 そのスニーカーの立てる音とは別に、西垣たちを目指す砂音が近づく。西垣と今泉がその行方を視線で追うと、死角がなくなったところで目があった。
「げっ!」
 西垣たちの存在を知った瞬間に、眞鍋はわかりやすく絶句した。その視線はすぐ、階段を上ろうとしている志紀に向かう。志紀は無視を決め込んだように足音を鳴らしている。
「まさかさっきの、見た?」
 志紀の無視を重く受け止めた眞鍋が、恐々と二人に視線を投げかけた。今泉は、オレは絶対に何も知りませんという顔のままだ。志紀と同じように、何事もなかったかのようにこの場から真っ先に離れたいのだろう。
 一方で、そこまでなかったことにしようと躍起にならなくてもいいではないか、と西垣は単純に思っていた。  仲良きことは素晴らしき哉、ではないのか。別に自分は前々から関係に気づいていたのだから、目撃されたことを過剰に気にする必要はないだろう。
 だからこそ、あっけらかんに答えた。
「いーじゃん、減るもんじゃねーし」
 すると、階段を上っていたはずの足音が止まった。
「……おまえら」
 頭上遥か、志紀の地を這うような声がする。
「おまえら、これから覚悟しとけよ」
 一層低められた響きは、不愉快でたまらないという感情を内包していた。おまえら、と、まとめられてしまったショックか、若干血の気を引かせた眞鍋が荒れた足音にはじかれたかの如く追いかけて行く。
「志紀、待て、」
 慌しく駆け上がる音を耳にしながら、西垣は笑う。
「まじ難儀だねー、あいつら」
 すると呆れたように今泉が真っ当な結論を返した。
「火に油を注いだのは西垣じゃん……」
 その翌朝、志紀に昨夜の件に対する恨み節満載の追加練習が課され、途方に暮れる眞鍋を横目に、本当によくやるよなー、と他人事のように思う西垣の姿があった。




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