* ANTERI-ORE *


 凄まじい風音と雨粒が叩きつける音が室内にも届いている。雨は先刻からじょじょに強くなり、台風でも来たのかというくらいやかましい。タオルを頭にかぶっていた美晴は、慶介のベッドで目を伏せると横になった。
 ……完全に帰る気失せるんだけどこの雨。タクる以前に外出るとか無理だろ。傘折れたし。
 夜半から風雨が強くなるという天気予報は知っていたが、夜半前から豪雨になるという話は聞いていない。しかも、駅から慶介宅へ辿る数分の道すがら、差していたビニール傘が風に煽られ折れたのだ。隣にいた慶介がとっさにもう一つの傘を渡してくれて濡れ雀になることは逃れたが、代わりに彼がずぶぬれになった。そして、家に着いて慶介の着替えや受け取る品を待って一時間。恋人のために甲斐甲斐しい男だ。
 ……傘、渡されたときは心底びっくりしたけどな。
 普通、片方の傘が折れたら無傷の傘に二人で寄り添うものではないだろうか。慶介と相合傘になるのは滑稽だと思ったが、雷雨の非常事態で傘が使い物にならなくなった瞬間、真っ先に慶介へ助けを求めたのは確かだ。でも、自分のかざす傘へ引き寄せるのではなく、「これ使え」と丸々渡されるとは露ほど思っていなかった。
 ……不覚にもときめいたとかさ。
 しかし、慶介に男気を感じて惚れ直した、と本人に言えるわけがない。いつだって素直に好意を伝えられない自分を美晴は自覚している。
 ……ちょっとくらい、そういうこと伝えるべきなんだろうけど。
 小さなため息に鳴り響く雷鳴と土砂降りの雨。慶介は美晴が仕事で利用する素材を玄関そばの戸棚から取り出している。ガタガタと物音だけ続くのは、捜索が難航しているせいなのか。
 ……慶介の様子、見に行くか。
 外の騒々しさを一人で聴いているのもつまらなくて、美晴はゆっくり身体を起こした。
 その途端、パッと照明が消え視界は暗闇となった。一瞬の出来事は時間をあいまいにさせる。
「停電だ」
 美晴はすぐに状況を悟りながら、横に置いていた携帯電話を拾い上げた。闇の中、外の音だけが相変わらず激しい。近隣に雷が落ちた感覚はないが、変電所かどこかが豪雨でやられたのだろう。電波は生きていて、スライドして情報を探した。
「美晴!」
「いるよ」
 廊下から部屋に近づく慶介の声に、美晴は応答しながら画面を見つめた。今しがたの停電について情報は上がっていない。しかし、天気ページでは東京の半分が大雨・洪水・雷・暴風・波浪という警報で埋め尽くされている。
 ……これ、完全に台風並じゃん。
 異常気象と言われて久しいが、こんな雨が当たり前になったら低地には住めないな、とひどく冷静に思う。足音が聞こえるのは慶介だ。近づく音とともに、ガンッ! と大きな物音が鳴った。
「イデッ!」
 部屋に響く痛そうな叫び。暗すぎて何かに当たったのだろう。それでもやってくる慶介の気配に、美晴は頬を緩めて携帯電話の光をかざした。影から恋人の容貌があらわれる。片足を少しひきずっているのは、やはり打ったからだろう。
 バラバラという激しい雨の音の内で、どうにか美晴の隣に座った彼は、足の小指を触りながらディスプレイを覗きこんだ。
「すげーな、真っ赤」
「停電はすぐ復旧するだろ」
「まーな。これ、PCで作業しているときだったら、俺死んでるぜ」
 神妙な表情でつぶやく慶介の横で仕事中に悲惨な目に遭う彼を想像して、美晴は耐え切れず笑った。彼の本職はデザイナーだ。いくらバックアップをこまめにしていても停電に遭遇するのはきつい。
「笑いすぎだろー。ま、よかったぜ。無事帰れたしな」
 ビュウウゥッ! と強い風がマンションの壁に当たり、顔を見合わせる。
 ……これじゃあ美晴を帰すのは危ねーな、とか思ってんだろうな。
 暗くて表情がよく読み取れないながらも、美晴は隣にいる恋人の思うところを察する。案の定、次に口を開いた慶介の言葉に目を細めた。
「明日、そっちは仕事早いか?」
 言うことは決まっている。
「まあ、遅刻しても大丈夫な感じ」
 そうじゃなければ、美晴の仕事をしていた最寄り駅で落ち合って、一緒に夕食を摂って、資材を借りたいからと慶介の家に寄るなんていう面倒なことはしない。
 彼がずぶ濡れになっても部屋着にならず、わざわざもう一度着替え直したことを考慮してみる。雨風さえ弱くなれば、渡すものを渡した後、素直に美晴を送るつもりなのだろう。この調子では、やってキスひとつくらいだ。
 ……オレのほうから先に、今夜はもう帰りたくない、って言ったら慶介は喜ぶんだろうな。
 長くなってきた付き合いで、美晴より複雑な思考回路を持たない慶介の思うことはなんとなくわかる。もう帰りたくない、一緒にいたいよ、なんて言った日には、驚きの後でこちらが恥ずかしくなるくらい大喜びしてくれるだろう。しかし、わかっていても、美晴は言えなかった。そんなふうにかわいく素直にはなれない。
 距離感すらあいまいにしようとする闇の中で、窓の存在を教えるように風がガタガタと音をつくる。
 じっと慶介へ顔を向けて見つめていると、視線に不安を覚えたのか首を傾げた。
「なんか、あったか? ああ、そうか、渡すもの、」
 すっかり忘れていたように彼がつぶやいて、続きをしに行こうと腰を浮かす。とっさに美晴は彼の腕をつかんだ。
「後でいい。停電なんだし」
 思いつめて引き止めたことを、とっさに停電のせいにした。慶介も、灯がないと探せないと気づいたようで、大人しく戻ってくる。
 感覚で目が合っていると知れ、そっと手が触れ合う。慶介の手は冷たかった。
「オレより手、冷たいの珍しいな」
 春半ばの雨は、体温を奪う。
「そうか? 美晴は……そんな濡れてなくてよかったな」
 ずぶ濡れのまま美晴を家まで誘導してくれた彼は、相変わらずそんなことを言って髪に触れた。
 お礼すら伝えていなかったことを、美晴は思い出した。
「慶介。さっきは、ありがと」
「さっき?」
「傘」
「ああ、もう一本も折れなくて良かったよな」
 返された台詞に頷いて同意する。確かにあの雨の中、ひどく濡れなかったことはラッキーだった。ただその一方で、二人で濡れ雀になったほうがいっそ開き直れたんじゃないか、とも思ってしまっている。
「でも、そうなったらシャワー借りてたけど」
 その思いが、言葉になってもれた。美晴の発言に、慶介の撫でる指が止まった。
「じゃあ、いっそ今、借りるか?」
 尋ねる声が、とても慎重になっている。彼も何かを察したのか、このムードはイケるとでも思ったのか。
 どちらにせよ、美晴の答えはひとつだった。
「停電中だろ……後で、借りるよ」
 精一杯の一言に、妙な精神力を使った。豪雨はいまだ衰えずやかましいが、部屋に不思議な沈黙が生まれる。慶介の指が頬に触れ、美晴は目を閉じた。
 くちびるが重なり、ついばむようなキスはすぐ深いものへ変化した。緩い緊張と安堵を混ぜながら、腰掛けていたベッドへそのまま押し倒される。暗闇は羞恥心も戸惑いも理性も薄くさせ、服を脱がそうとする彼を受け入れる。
 しかし、自然な時間は長く続かなくなった。
 ピリリリッ! ピリリリッ! と、電子音が鳴った。見計らったような携帯電話の着信音に、くちびるを離した慶介がうなだれた。
「タイミングよすぎるだろ……」
 はだけたシャツのまま、美晴は仕方なく携帯電話に手を伸ばした。電話の相手を確認して、仕方なくタップする。
「慶介、ちょっとだけ待てよ」
 素早く伝えて寝転がったまま電話に出た。明日の仕事に関する連絡だ。早速、撮影場所が雨でバッドコンディションになるらしく、延期の可能性が出たという話がはじまる。
「予備日は、その日で。大丈夫です、そのあたりは調整がきけます。……はい、……はい、」
 話している敬語で、仕事に関することだと気づいている慶介は静かに横になったまま、美晴を抱きしめていた。彼の手がぐんぐんと温かくなっている。
 電話が終わって笑みを浮かべる。明日の仕事が延期になったことと、慶介の反応だ。
「なんかあたってるんですけど」
 わかりやすく欲望が誇示された部分を指摘する。
「……待たせたのは誰だよ」
 複雑な感情をこめた声色を耳元でささやく彼に、くすくすと笑いながら美晴はゆっくり向き合った。
「慶介。明日の仕事、順延するっぽい」
「聞こえてた。ってことは?」
 期待するような言い草に、美晴は慶介の腰ベルトを探した。
「このたびはいかがなさいますか? お客様」
 細い手で、カチャカチャと音を鳴らす。慶介が驚いて上擦った声をさせた。
「おま、美晴」
「今日はトクベツな」
 ……豪雨の今夜は期待以上の想いをみせてやる。
 その気になった美晴ははにかんでキスをすると、愛しい彼の下肢に手を滑らせた。




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