* 猫の休み処 *


 焼きたてのクッキーのにおいが扇風機の力で翻っていく。午後の庭は緑濃く、テラスに陽が差している。
 熱中症になりそうな日々がようやく落ち着き、窓を全開しただけでホッと息がつける季節が訪れた。修太郎は九月中旬のこの時期が一等好きだ。そして、ぽっかり空いた休日を家でまどろむことが至上の幸せとも感じていた。
 家族四人の住む一戸建に、今日は夜まで修太郎一人きりだ。十九時に家族で焼肉屋に行こうという話にはなっているから、両親の帰宅はその一時間前くらいだろう。大学生の姉はというと、時刻どおり戻ってくるのか怪しい。根っから自由人なのだ。
 修太郎は、姉の千紗に生まれたときから振り回されている。その最たるものがお菓子作りだ。高校に入って部活もしない弟に、彼女はバイトと称してお菓子をつくらせるようになっている。
 今回も、弟に休日の予定がないと察した姉は材料費を渡してきた。嫌がっても押し切られるとわかっているし、うまくやりくりすれば半分費用が修太郎の懐に入る。はじめは面倒だったクッキーづくりも、最近はレパートリーをじよじょに増やしている。実際、マドレーヌやケーキもつくれるようになった。夏はコーヒーゼリーとアイスクリームをつくって皆で美味しくいただいた。両親にもお菓子作りは好評だ。
 ピーッピーッと、オーブンが出来上がりの合図を鳴らす。修太郎は手早く最後に残っていたタネとクッキーを入れ替えてセットした。これで数時間かけた工程はようやく終了となる。起床してすぐに取り掛かったクッキーづくりは昼食も兼ねていて、親が置いてくれたサンドウィッチとともに作りたてのお菓子も出来栄え確認にあわせていくつかつまんでいた。
 ……クッキーつくってると、お腹いっぱいになるよなあ。
 数枚しかつまんでいないのに、そう思う。リビングに充満する甘いにおいのせいかもしれない。
 軽く伸びをして、開放感と睡魔を引き寄せる。最後の焼き上げだけは、合図が鳴っても放置していいから気楽だ。
 修太郎は常備されていたアイスティーを飲み干すと、ソファーのそばに寄った。フローリングにカーペットが敷かれてあるから、いつでも寝っ転がってごろごろできる仕様だ。クッションを二つとって、扇風機がこちらへ緩くあたるように向きを変える。そして、寝そべってスマートフォンを操作した。
 SNSを眺めているのも飽きると目を閉じた。庭から流れてくる風とお菓子のにおいが交互に鼻を通り抜ける。どちらも好きなにおいだ。修太郎は簡単に意識も手放した。秋になりはじめた季節は切なくなるだとか人恋しくなるだとか言われるけれど、過ごしやすい気候でもある。ずっとこんな日々でいてほしいと思うくらい、果物も美味しい。
 嗅覚を刺激されているのか、大昔イチゴ狩りをしたときのことが夢に出てきた。夢の中で、このイチゴでケーキをつくったら渉も姉も喜んでくれるんだろうか、なんて真剣に考えてふっと意識が浮上する。
 カラララ、と、網戸が引かれる独特な音が響いた。
 庭から不法侵入者がやってきたのだ。音をさせた者はかまわず無言で室内に入ってくる。修太郎は身じろぎひとつしなかった。びっくりもしないし、怖いとも感じない。こうした侵入は何度も経験があるからだ。
 横になって目を瞑っていると、その者は傍に来て座り込んだ。触れられたと思った瞬間に圧し掛かられる。
「しゅーうーちゃーんー」
 男の声で甘えてくるのは、向かいの家に住む渉だ。
「不法侵入だ」
 目を閉じて眉を寄せた修太郎の一言に、幼なじみは動じず、両手でぎゅっとホールドしてくる。涼しかった部分が男の体温で上昇する。
「いつもしてるんだから、もう不法じゃないぜ。あー久しぶりに修に触れてるー俺めっちゃ幸せー」
 彼の言うとおり、くっつかれたのは一ヶ月ぶりだ。高校も違って、勉強で毎日忙しい渉と顔をあわせる機会は少ない。夏休みも夏期講習でほぼ埋まっていた幼なじみだ。三回くらいしか会えなかった。
 ……今日空いてるなら、連絡してくりゃいいのに。
 と、修太郎は思ったが、突然不法侵入してきたくらいだから、勉強につぐ勉強に行き詰って修太郎の家を覗いてみたパターンなのだろう。そして、我慢できず庭から侵入してきたわけだ。
「親と千紗さんいねえの?」
「十八時までいないよ」
 ついで、おまえにこんなくっついてる時間あんの? と問いかけそうになったが飲み込んだ。
 本人も難しい試験を前に死にそうすごいプレッシャーだ、と、先日SNS上で漏らしていて、修太郎は宥めながら、本気で求められるまでそっとしておこうと思っていたところだったのだ。
「そっか、それなら」
 修太郎の返答を聞いた渉の手が薄い腹を撫でた。そして遠慮なくハーフパンツの中を潜っていく。
「それならって……な、……ん、」
 敏感なところを直接触られ、ヒクッと身体が揺れる。渉もわずかな反応でOKと察したのか、首筋も舐めはじめる。
 夏休みぶりに修太郎の肌に触れた渉は、身体を繋げたくなってしまったのだろう。はじめはくすぐったさと違和感が大きかったが、何度も彼に愛されて快感を得るようになっている。
 ……久しぶりに触られると、ダメだ。
 しかし、リビングでセックスをするわけにはいかない。当然昼寝どころでもなくなった。けれど、学生身分で恋人と三週間ほど触れ合っていないとなると、欲望が暴走する。比較的理性のストッパーが強い修太郎も、十八時まで誰も帰宅して来ないと知っているせいか、思考は渉に流される。
「気持ちいい?」
「ん、……うん、」
「修、コッチ向けよ」
 下肢をまさぐられながら上半身をひねる。間近に真剣な男の瞳があって、修太郎を強く求めていると知れる。もしかしたら、最初から身体を繋げるために不法侵入してきたのかもしれない。邪だが、それでも渉ならいい、と修太郎は思った。彼とは一年以上、関係をもって付き合っている。渉とセックスするのは好きなのだ。
 くちびるが重なれば、深くなる。快楽と熱にとろける合図を交わそうと目を細めた瞬間、くちびる同士がかすれた。
 渉の頭が、突然、雪崩のようにガクンともたげる。
「って!」
 艶のある雰囲気が一転させたものを、修太郎は瞬時に見つけて目を大きく見開いた。見下ろすものと目があった。
 飼い猫のミイが、前足で渉の首と後頭部を踏んでいる。色事のスイッチが入った瞬間に、渉の身体へ乗り上げてきたのだ。
 三毛猫のイタズラと出鼻をくじかれた渉が滑稽で、修太郎はこみ上げる笑いを我慢できなかった。クスクスと肩を震わせる恋人に、渉がぼそぼそと嘆く。
「ミイに邪魔されてんだけど」
「この位置、ミイのくつろぎ場だからな」
 笑いつつ返すと、後頭部から前足をどかしたミイが、かまってもらいたいように彼の背をふみふみと揉みはじめる。渉から離れる気はないようだ。
「まだ乗ってるんですけど。俺の扱い、コイツんなかでどうなってんの?」
 猫を退かせるどころか、慰めてもらいたいと言わんばかりに抱きしめてきた渉を、ポンポン撫でながら答えた。
「弟かアスレチックあたりだと思ってんじゃね?」
「下の扱いかよ……」
 もう一度ガッカリした様子でつぶやく彼がかわいい。
 修太郎は指で宥め、「ちょっと、お茶しようぜ」と気分転換を促す。ついで、うなだれたまま小さく頷いた渉に、「そのあとで、続き、しよう」と耳元へささやいた。




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