* cellrain *


 外へ出て見上げると、どんよりした雲から落ちる雨粒が見えた。アスファルトを透明に叩いた後は空虚でまばらだ。何度見つめても脆く、昨日晴れていた空の蒼が遠く感じる。
 エアコンの効いた部屋にいたおかげで、行きに濡れた革靴は乾いていた。頼めばギリギリまで室内にいられたかもしれないが、清と喪を美しく飾る花々に囲まれた空間と、沈痛な色をまとう人々の間にいて、言葉も声も失われていく感覚があった。最期まで傍に居たい気持ちがあっても、それには限界がある。
 明日も来れる。陽が落ちた頃、もう一度そっと寄り添うこともできるだろう。
 葬送の日は近い。けれど、今はすべてがスローモーションに感じられると眞弓は思った。また空を見上げる。雨脚の音がわずかに速まっている。暑いのは好きではないが、寒過ぎる季節でなくてよかったとも思った。
 自然が為す景色を眺めていると、傘を差してこちらへ向かってくる知人が見えた。あちらも眞弓に気づいて頬を緩め手を挙げる。彼の着ている服も傘も黒い。笑顔なんて見せられる状況ではない。今日は雨だ。
 少し立ち話をして、また後日飲みに行こうという会話で閉じて、彼は建物の中へ入った。それからまた数分して、今度はエントランスから出てくる友人とも、再度顔をあわせた。先に出て行ったから用事があるのかと思った、と言われて、そうでもなく気分的なことだと話す。これからちょっと一緒にお茶でもする? と誘われ、今日はごめん、今度、と答えた。
「そっか。じゃあ、今度な。あと、まだ中に邦智いたよ」
「うん、ありがと」
 傘を差して雨の中へ帰っていく友人の背を眼差しで送りながら思った。邦智を待っているように思われているんだろう。そんなつもりじゃない。でも、彼の言う通りになるのだろう。
 眞弓は自分の傘を取りに、またエントランス内部へ入る気にはなれなかった。濡れてここを離れることができるのならば、それは本望かもしれない。雨に打たれて宛もなく歩き、雫で頬を冷やし、悲しみを悲しみのまま受け入れることができれば、それはとても自由なことかもれない。
 けれど、人生は今日だけではない。仕事のスケジュールはあって、風邪にでもなれば後が悲惨だ。背負っているものも多い。自分は独りで生きているわけではないとさすがにわかっていた。一時の感情と感傷に任せて、身勝手なことをするつもりはない。
 理性は大人そのものだ。かならず人は何かを失う。逝けば誰かは遺される。残酷な事実を見せられれば呆然と立ち尽くす他なく、いつかは苦しみも癒えるとは思えど、失ったことを忘れてしまうほど薄情にはなれない。抱えて、そして結局生きていくんだろう。
「帰ってねえのか」
 眺めていた変哲もない静かな街の一角に、聴き慣れた声が響いた。五分くらい前に一瞬話題に出た男を眞弓は見遣って、無意識にもたれていたビル壁から身を離す。
「なんとなく」
 邦智は建物から離れようとしていたのか、ビニール傘を持っていた。傘を持っているほうが普通なのだ。手ぶらの眞弓をじっと見た彼は、疑問を隠さず口にした。
「傘は?」
 なにしてんだよ? と、言われるより明快だ。素直に答えられる。
「あるよ。そこに」
「そこって?」
「中、」
 眞弓の繋げた単語で、邦智はすぐ理解したように出てきたばかりのエントランスへ顔を向けた。ガラス張りの死角に傘を置く場所がある。
「どれだよ。すげーあったけど」
「傘立ての一番右の奥に置いた。なんかブランドものの」
「ブランド? どこの?」
 訊かれるままブランド名を言うと、邦智は踝を返してガラスのドアを押した。律儀に探して抜いてきてくれる行動だ。中を伺うと、彼は上手に該当物を引き上げていた。臙脂に黒を強く被せ模様を施した綺麗な傘だ。
「これか?」
 外に戻って確認する彼に、「それ」と重ねて片手を出す。高価に違いない物を無造作に共有スペースへ突っ込んでいることに呆れている様子で、邦智は眞弓に渡した。
「ここのブランド、傘も出してんのか。俺はビニ傘なのに」
「オレも自分では買わねえよ。人からもらった」
 会話は普段と変わらず、同時に傘を差す。歩きはじめても、お互いどこへ向かうかは問わなかった。なんとなく、駅へ続く道を踏みしめる。
「明日、晴れるといいな」
 雨の中を抜ける声に、眞弓は自然と下がっていた視線を真っ直ぐ上げた。
「晴れるだろ」
 邦智の目の縁は赤い。
 ふと、自分も家に帰ったら泣くんだろう、と、眞弓は思った。
「おまえさ」
 呼びかけるつもりはなかったのに、本心がこぼれる。
「今日、うち、泊まってこいよ」
 感情だけを経由させた言葉に効力はない。眞弓は自分で言っておきながら、選ぶのは邦智だとわかっていた。どうしても、泊まってほしいわけじゃない。
 当然のように何かの意図を探って、まじまじと邦智が横顔を見てきた。
「わかった」
 静かに彼は答えた。何もない願いを汲んで付け足す。
「その前に、もう一回、寄るだろ」
「……うん」
 眞弓は少し肩の力が抜けた気がした。大切なことに気づく。とても身近に自分を理解してくれる人がいる。
 雨粒が二人の間をはじけた。駅までの道程は、そう遠くない。
 タン、タタンと其々が差す傘の音を聴く。雨はいつか上がる。そして、また雨は降る。ここで、どこかで、幾度となく繰り返して、空を見る。
 「さよなら」と紡ぐ音階は、どれが一番に似合うのだろうかと、小さくハミングして街を後にした。




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