* 恋愛コンソルテ *


 古くから都心の下町として栄える道沿いが、若々しい妙な活気に満ちていた。土曜日らしい人手ではあるが、真夏にも関わらず、日陰も薄く冷気のない道端に大勢の大人たちがいる。しかも、日傘を差したりタオルや団扇で仰いだりしながら並んでいる。美晴は列を見た瞬間に、その先にあるものがなにかすぐにわかった。
 久しぶりに通るこの道には、以前からよく知る甘味処がある。
 ……コレ、天然氷のカキ氷目当てだな。でも、そんなもののために、こんなバカみたいに暑い中で並んで待ってぶっ倒れたら本末転倒だと思うんだけどな。なに考えてんだろ、この人たち。
 美晴がそう思いながら、涼を求めるために炎天下で長蛇の列をつくる日本人の特性を冷ややかな瞳で眺めていると、その隣を歩く慶介も気づいたらしい。
「すげえ繁盛してるな、ここ。前はそんなんじゃなかったんだけどなあ」
 異様なものを見るというよりは、感心した様子で言う彼に、美晴は深々と被った黒ハットの中にある端整な小顔を慶介のほうへ向けた。帽子は夏の必需品だ。顔だけはあまり肌を焼きたくない。女子のようだが、職業柄で肌質や体調管理はどうしても重要なのだ。
「雑誌かテレビかなんかに出たんじゃん? 天然の氷使ってるところって都内に少ないし」
 カキ氷ごときわざわざ並んで待って食べる、という発想は美晴にない。しかし、ここのカキ氷がとてもおいしいことはよく知っている。食べたくなる気持ちはわからないでもない。
 ただ、7年くらい前は、慶介の言うとおり人が並ぶ店ではなかった。
 ……7年か。もうそんな前の話だったか。
 店を通り過ぎて、美晴は思い出す。約7年前、ここを訪れてカキ氷を食べたことがあった。天然氷と自家製のシロップはとても上品で舌触りも好かったことを覚えている。チラと見た店舗の風情は、以前とあまり変わらないようだ。店構えと同様にカキ氷の味が今も守られているのであれば、口コミや取材で長蛇の列ができるのもわからなくもない。
 だが、今は十四時半だ。夏の太陽は傾いても直射日光の刺激は強い。美晴も、慶介と会うときでないかぎりこんな時間に歩かない。今こうしてぶらぶら歩く気になれたのも、先刻までかなり涼しいところで念願のどぜう鍋を食べていたからだ。
 どじょうを食べてみたい、と言うと、お洒落に着飾る美晴の周囲からはゲテモノを見るかのような顔をされてしまうのだが、どじょう料理は江戸から脈々伝わる東京下町の料理だ。夏の風物詩でもある。慶介もずっと行ってみたかったということで、二人で時間を調整して予約して行ったわけだ。慶介は恋人であること以前に、こうした食やセンスの部分で元々気があう。それが楽で良い。
「まあな、確かにそうだよな」
 美晴の発言を肯定した慶介が続ける。
「氷、食べておいしかった記憶あるもんな」
 彼も同じ過去を反芻したらしい。こういったときに、思っていることが一緒だと美晴も嬉しい。でも、慶介のカキ氷にたいする反応は薄かった。
 それもそのはず、彼はあの甘味処で大失態をおかしていたからだ。大好きな美晴との思い出があっても、その失態はあんまり思い出したくないのだろう。
 彼の気まずそうな様子を見ると、美晴はどうにも慶介をからかいたくなる。美晴はこらえきれず、ニヤニヤと笑みを浮かべて言葉を重ねてみせた。
「で、おまえ、あそこでオレと出逢ったの覚えてるか?」
 あの甘味処のことを美晴が忘れもしない理由。それは、あそこがはじめて慶介と出逢った場所だからだ。気づけば、もう7年前くらい前の話だった。
 当時共通の友人だった男に、美味しい店があるんだと誘われて、美晴はあの甘味処の場所を教わったのだ。
 その友人とは、一緒に食べに行こうという話になっていたが、美晴が急遽仕事の関係で待ち合わせ時刻に間に合わず、後で合流することになってしまった。そのときに、先に注文して食いながら待ってる、とメールしてきた友人とともに、カキ氷を食べていた男が慶介だった。あの日は三人で長時間店内に居座った。それでも店側から追い出しの声かけはなかったのだから、やはり当時は今みたいに有名ではなかったはずだ。
「……そんなの、覚えてねーわけ、ねーだろ」
 顔をしかめて答える慶介に、美晴は笑った。慶介が大失態をおかして謝り倒した相手は、まさに隣にいる美晴だった。慶介との出逢いはインパクトが強すぎた。
「オレにカキ氷、ぶちまけてたもんな、おまえは」
 昨日のことのように思い出して言うと、慶介もたった今カキ氷をぶちまけたような渋い表情になる。
 あのときの美晴は、店舗を見つけてすぐに内に入った。座敷席で待ち合わせている友人を見つけ、遅れたことを軽く詫びて……背中しか見せていなかった慶介が、それに反応して振り返って美晴を見たのだ。慶介とはすぐ目が合った。コイツがメールで話していた気の好い友達か、同い年くらいだな、と思いながら紹介される前に慶介の隣に座った。
 その瞬間に、慶介が手元を崩してカキ氷をぶちまけたのだ。テーブルの内側にぶちまければいいものを、美晴の服に直撃した。おかげで、着ていたシャツがイチゴ色と練乳でどろどろになるという大惨事をこうむった。
 自己紹介しあう前にとんでもない事態となり、美晴は唖然となった。一方、慶介の行動は素早かった。土下座せんばかりに平謝りした慶介は、そのまま竜巻のように代わりの服を買いにどこか行ってしまったのだ。
 向かいにいた友人は爆笑し、すぐ我に返った美晴は高価なパンツまで濡れてはたまらないと上半身裸になり、そのままで慶介を待った。ぼーっと待つのもつまらないので、美晴もオーダーして、そうして食べたのがあそこのカキ氷だ。友人は慶介が戻って来るまでずっと笑っているし、店内の人に凝視されるという二次被害も受けて、なんともいえない気分になったこともよく覚えている。モデルという職業をしていることから、チラチラ見られることはだいぶ慣れているが、……このパターンは後にも先にもない。
 そして、十五分もせず帰ってきた慶介は美晴のための服を買ってきた。彼の選んだものはけっこう上質なシャツだった。短時間で店を探して、センスの良いものを選んできたことに、美晴はキレるよりも感心した。相変わらず平謝りの慶介は、カキ氷もおごってくれて、その後も「お礼させて」と言ってきた。美晴は快く再度服を買う誘いにオーケーを出した。
 美晴の気分を先まわりして対処する様は出逢った瞬間から見事で、美晴は慶介のことが妙に気に入ってしまった。慶介はデザイン関係の仕事をしているだけあって、色やものを選ぶセンスは悪くない。性格も最初の感じからあんまり変わらず、裏表のないところも良かった。カキ氷ぶちまけ事件のおかげで、美晴は慶介とすぐに仲良くなれた。慶介は信用できる男だと思ったのだ。それは今も裏切られていない。
「美晴、あのときよくキレなかったよな」
 ボソッと訊く慶介は、出逢って数年かけて恋人関係になってから、美晴に数え切れないほどキレられている。たとえば、慶介は心配性で、どうでもいいところで嫉妬したり独占欲をだしたりする。そういうのが、美晴にはイラつく要素になる。互いになるべくストレスをつくらない関係でいたいので、気になれば言うし、そのまま言い合いになることも多い。基本的には彼が口達者な美晴に言い負かされるパターンだ。
 というわけで、慶介は数ある経験から、美晴が初対面の瞬間に受けた仕打ちを怒らなかったのは意外とでも言いたいのだろう。
「インパクトがありすぎて、怒りもなにもすっ飛んだんだよ、あのときは」
 そう答えると、慶介が「ゴメン」と小さく謝った。別に謝るようなことではない。その後の対処は、美晴も高く評している。
「もう気にしてないし。でも、あの頃のおまえ、ずいぶん気前良かったよなあ」
 カキ氷事件の対処後もあわせると、美晴は慶介に衣服を三度も買ってもらい、食事もお酒も全部おごってもらっていた。7年前は慶介が恋人になるとは一切思っていなかったが、よくよく考えると出逢った頃が一番慶介におごられていた。
 それもわかっているのか、慶介が過去を悩ましげに振り返る表情で口を開いた。
「美晴、今だからこそ言うけど」
「うん?」
「何年も経った今だから言うけどな。俺、ひとめぼれだったんだよ」
 路上で話すことではないとわかっているのか、人目を気にしつつ美晴に接近して言った。
「はあ? え?」
 驚きのあまり、美晴は立ち止まった。
「すげー好みだったの。おまえの顔! で、それが男っつーことにさらにびっくりして氷ぶちまけたんだよ、あのとき」
 コソコソとすごい発言をする慶介を聞いて、美晴はすごい形相となった。まばたきを八回した。
 ……一目惚れって? あのときにか!?
 ということは、最初から慶介はどこか美晴を恋愛対象として狙っている節があったということだ。付き合って四年目になっているから、そんな告白をされても今更衝撃は少ない。が、それはすでに慶介の人となりをよく知っていて、彼の愛情も友情の部分も肌と心で理解できているからだ。
 美晴は慶介の顔を見て、少し呆れたように息を吐いた。
「おい、慶介。それ、そんときに言わなくてよかったな。はじめてのときにそんなこと言われたら、オレ、ドン引いて今のコレなかったぞ」
 それは重々承知しているのか、慶介が頷く。
「俺も一生言うつもりなかったよ」
 一生、と言われてしまうと、この告白を聞いておいて良かった気はする。今は美晴も慶介のことが本当に好きだ。だから、好きな相手に最初から一目惚れされていたと知るのは正直に気分が良い。
「まあ一生は……、うん、なんかカキ氷食いたくなったなあ」
 そう言って、照れ隠しに歩いてきた甘味処のほうへ身体を向けた。列はまだ長い。でも、昔と違って客を居座らせず回転も速いだろう。美晴の様子に慶介が訊いた。
「あそこのか?」
 並ぶのが好きではない美晴のことを察している。それに、美晴は頷いた。
「うん。今日くらいはオレがおごるから、あそこ戻って並ぶぞ」
 並ぶのは暑くてちょっとうんざりだが、途中から日陰になっていてなんとかギリギリ我慢できそうだ。とりあえず愚痴は全部慶介が受け止めてくれるし、なによりも7年ぶりにあの店内に入りたい。慶介とあの甘くてふんわりして美味しいカキ氷が食べたい。
「いいけど、氷ならおごらねーでもいいよ」
「慶介、こういうときはおごってもらっておけって」
「はい。ごちそうさまです」
 素直に答えた慶介が美晴とともに歩き出す。暑くて疲れねーか、夏バテはだいじょうぶか、と、彼は美晴のことを心配してくるが、「さっき、どぜう鍋食べただろ」と、夏バテ対策したことを思い出させて道を戻る。列はさきほどよりわずかに減っている。
「今、さ、」
 慶介の偶然の告白にあわせて、美晴も彼へ思ったことを小声で話しはじめた。
「慶介があのとき、服をなんども買ってくれた意味がわかったんだよ」
 出逢った瞬間に服を買ってくれたり食べ物をおごってくれたりしたわけ。単純に美晴の服をダメにしたからではないだろう。
 好きになると、なにかを与えたくなる。無性になにかをしたくなる。慶介は美晴に一目惚れして、なにかしたい与えたいと思い、その感情のまま行動したのだろう。純粋な行為だ。愛情表現だ。
 そういう想いは、美晴にもちゃんとある。
 まさに今、そういう気分で慶介へカキ氷をおごりたいのだ。自分たちの思い出の場所を彼とじんわり楽しみたい。
「失敗をチャンスに変える男って、嫌いじゃないし」
 初対面の顛末から抱いた想いを伝えて慶介を見る。彼は嬉しそうな表情を浮かべていた。
「今、俺もちょっと言っていい?」
「どうぞ」
 いくら慶介でも、道端で露骨な愛情表現はしないとわかっている。なので、拒否せず聞いた。
「おまえのそういうわかってくれるとこ、すげー好き」
 美晴が、そうだろ? と、言わんばかりに誇らしげに、んふふと笑う。そして、二人は仲良く列に加わった。




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