* サマーフィズ01 *


 ブゥォンと健気に首を振る扇風機と風邪だけが頼りの夏。おそらく室外のほうが涼しいはずだ。酷暑の域は過ぎたけれど、由徳の夏は暑いままだった。
「ちょ、またかよ」
 開け放たれた窓から神様のお情けような風が部屋を抜けてくれるが、由徳はそれどころではない。慌ててテーブルに広げたプリント類が飛ばないよう手で押さえる。涼風に有難いけれど、ノートや教科書のページをバラバラ捲ってゆくし、プリント用紙は舞い上がってどこかへ連れ去ろうとするのだから、結果的に宿題を妨害されているとしか思えなかった。
「あっ」
 そんなイタズラな風が、また提出用のプリント用紙を一枚浮かす。慌てて片手を伸ばしても無駄だ。一反木綿のように飛ばされ、網戸に張り付くとスコンと落ちた。
 ……あーもう。さっきは、友実がキャッチしてくれたけどさあ。
 一風が過ぎたのを見計らって、大きく息を吐きながら立ち上がってプリントを拾いにいく。
 高校生身分のワケアリ一人暮らし、気軽にエアコンなんて使えない。しかもアパートに備え付けられた旧式のエアコンは老朽化が著しく電気代を異常に食うせいで、よほどのことがない限り自主的に使用禁止にしているのだ。夏は涼風頼りの毎日。友実のように、エアコン慣れしている人間にとってみれば地獄に近い。
 由徳に背を向けている扇風機は、先刻まで幼馴染の友実が風の吹く方向を陣取っていた証拠だ。由徳も扇風機の風にあやかりたいとは思うものの、宿題の妨げになるから我慢していた。今、友実は水音のする風呂場にいる。この家クソ暑い、修行かよ、とうわごとを呟きながら確かな涼感を求めて風呂場へと消えていったのだ。
 友実にしては、エアコンがない部屋よりも、エアコンがあるのに使えない部屋だという事実が気に食わないようだ。今日もドアを空けた途端に「普通家っていえば涼しいもんだけど、オメーんちは中のほうが暑かったりすんだもんなあ」とぼやいてくれた。
 しかし、友実に『由徳の家に行かない』という選択肢はないようだ。暑さの不快指数よりも、由徳と一緒にいることを大切にしてくれているのかもしれない。
 ……そうだったら嬉しいんだけどさ。
 汗をタオルで拭い、友実のノートから文章を写す。
 アルバイトがメインの由徳と違い、幼馴染の友実は学生らしく部活動がメインの日々だ。友実は早々夏期休暇の宿題を仲間たちと終えたらしいが、由徳はバイト優先で宿題を半分近く残してしまった。始業式まで残り五日。すべて終わっているわけがなく、何点かを友実に嘆願して見せてもらっている状況だ。友実のほうは、由徳のせいでテレビをつけることもできず、ポータブルゲームへの興味もすぐに失って、スポーツ雑誌をめくりながらこの部屋の暑さに慣れようと努力してくれている。まったくもって彼には頭が上がらない。
 ……他の宿題も見せてもらう約束してるし、後で好きなお菓子でも買ってやんねえとなあ。
 シャープペンシルを走らせながら、ふと思う。
 そういえば、友実と顔をあわせたのも久方ぶりかもしれない。
 今回は宿題を見せてもらいたい一心で久しぶりに会いたいと連絡し、OKをもらった。あれこれ考えがちな由徳と違い、友実はあっさりした性格で由徳以上に面倒くさがりだ。恋人がいても、相手から連絡が来るまで放置するようなタイプ。
 ……だから、俺も気楽にいられるんだけどさ。
 ただ高校にいるときと違って、夏休みになると互いの生活リズムが違うことを思い知らされる。
 一抹の寂しさが心を撫でていくと同時、風呂場から聞こえていた水音が途切れた。水浴びを終え、風呂場から友実が出てくるようだ。
 ……イロイロとご無沙汰してたよな、そういや。
 不意に友実の見慣れた裸体が脳裏に浮かび上がる。過酷だった連日のアルバイトから昨日ようやく開放されたのだ。
 おろそかだった欲が身体の奥でくすぶっているのに気づく。
 ……いやいや、宿題を見せてもらっている身で、ここでいきなりムラッとテンションあがるなよ、俺。
 気持ちを落ち着けようとまたノートを凝視した。古文の羅列を心の中で読む。しかし言葉が全然入ってこない。
「おい、手止めてねーで早く書けよ」
 声とともにハッと顔を上げれば、友実の上半身裸が目に飛び込んできた。部屋に戻ってきた幼馴染に心臓が跳ね上がる。由徳は焦ったように身じろいだ。
 友実はタオルを肩に下げ、キッチン横の冷蔵庫に直行していく。由徳が脳裏で反芻していたことに気づかない様子だ。そもそも気にしていないのだろう。色恋のムードや駆け引きの腕を磨くくらいなら、スポーツのテクニックを磨いたほうが身になると真剣に言いだしかねないのが友実なのだ。
 ……まあそういうアッサリしたところがいいんだけど。
 冷蔵庫でガタガタと物音をさせる細い背中をうっそり見つめ、すぐ宿題に視線を落とした。
 目の前にある古典の宿題は骨が折れる代物だ。教科書にある紀行文の全文をノートに丸写しした上に、全訳しろという注文が突きつけられている。十ページを超える全文を写すだけでも面倒だというのに、こまごました問題が記載された別プリント付きである。
 ……この宿題を丸々残していた俺が一番悪いんだよな。
 終わらない写しに息をつく。由徳は、古典の宿題を完璧に忘れていたのだ。古典の宿題はないから、残り数日で最後に残していた感想文と得意教科の数学を一気に終わらせれば大丈夫、と余裕に考えていたのだ。
 一番苦手な教科の宿題の存在を忘れていたことに友実は大笑いしていたが、彼は快くノートを貸してくれた。古典の現代語訳は丸写しをしても教師にバレにくい。速いペースで訳を写していると古典単語が現代語でどれにあたるのか混乱してくるときもあるが、友実がちょいちょいノートを覗き込んで助け舟をだしてくれるから本当に助かっている。全面的に友実にサポートされている現時点で、由徳に発言権はないのだ。
 現代語訳の書き込みは今日中には終わらせなければならない。幼馴染の言うとおり、早ければ早いほうがよく、後のお楽しみも増える。由徳はシャープペンシルのノックを押して、目前の作業に集中した。



 物色していた冷凍庫をバタンと閉め、友実は黙々とテーブルに面を付き合わせている由徳の背を見た。彼はコツコツとシャープペンシルを動かしているようだ。
 書き写すだけでも苦労する古典の課題は、全クラス共通のものだったおかげで、友実は部活動の仲間たちと早々終わらせていた。他の教科も無事に終わっているので、毎朝気分よく部活に打ち込めている。
 ……この部屋にきたのも、久しぶりだぜ。
 無理して時間をあわせて会うような関係性でもないから自然のまま委ねていたが、長期休暇は自然に任せていると会わなくなってしまう。以前はそれでも気にならなかったが、今はそれに気づいて気になる自分がいた。
 夏休みの終盤になり、由徳が元気してるか確認するか、でも連絡するのと家に押しかけるのだとどちらがいいだろう、と思っていたところに当人から『古典の宿題してないヤバイ、お願いノート貸して』の連絡が届いたのだ。ちょうど良い、とばかりにOKした。
 ……見返りは、このカキ氷だな。
 手には自分用に市販のイチゴ味カキ氷とスプーン、そして氷を詰めたビニール袋。これはタオルを巻けば、即席の氷枕になる。エアコンが使えない部屋に長時間いるのは拷問以外の何ものでもない。この部屋が日陰向きのつくりであることと、今日は多少涼しい風が吹いているという幸運のもとにどうにか過ごせているのだ。
 由徳はこんな部屋でよく寝泊りできるよな、と感心する。扇風機は友実の使っていたまま、由徳にはそっぽを向いてまわり続けていた。
 テーブルのほうへ戻った友実は、何気なく由徳の背後に立った。何かを察した由徳が不意に顔をあげる。察しはいいが、いかんせんこちらの反応に気づいていない。
 友実はニヤリと笑みを浮かべた。彼が後ろへ振り向こうとしたところで、その首元に氷袋を押しつけた。
「うおォっ!」
 由徳の叫び声とともに、シャープペンシルの芯がボキリと折れる。そのまま硬直した彼に、友実は笑いながら扇風機のあるところへ戻った。由徳は気が抜けたようにテーブルへ突っ伏し首元を手で覆った。
「あー、スッゲービビったぁ」
「ちょっとは涼しくなっただろ」
 大げさな反応を友実が笑う。そして、カキ氷を置いた手で床に落ちていたタオルを拾い、扱いやすい氷枕をつくった。
「涼しいっつーか、鳥肌立ったんですけど」
 のろのろ顔を上げた由徳に、改めて即席の氷枕を差し出した。首元に押しつけられたモノの正体を知った由徳は、その親切にお礼を言って受け取る。友実は座り込んで、扇風機を寄せ固定すると弱風にモードを切り替えた。
 肩にかけていたタオルで髪を再度軽く拭いている最中、由徳の視線に気がついて目を細めた。
「なんだよ」
 無意識に、氷枕に文句あんのかとでも言うような口調をしたせいか、由徳はなんでもないとノートに視線を戻した。そして慌てたように、氷枕のドッキリで人語ではない文字を書いてしまった部分へ消しゴムをかける。友実はそのノートを覗き込んで、由徳の丸写し達成度を訊いた。
「写しは半分こえたんじゃねーの?」
「こえた。あと三分の一くらいじゃねーかなー」
 不自然なほど紅いカキ氷の蓋を開けながら由徳の回答を聞き、ちょうど目に入った単語をスプーンで指差した。
「あ、その部分、休み明けの小テストで出るってよ」
「マジ? って、小テストもあんの!? 」
「1組のやつらがいってたんだよ。うっかり言っちゃったって感じだったんだってさ。センセーは抜き打ちでやるつもりだったんじゃねーの。本当にあるかどうかは知らねーけどな」
 わーだるーと呻く由徳を尻目に、友実はガシガシとスプーンでカキ氷をえぐる。しかし、冷凍庫でカチコチに凍っていたせいか石のように硬い。躍起になると体感温度が上昇する気がしてスプーンを置いた。代わりに冷えた飲み物を取りに立ち上がる。
「友実、飲み物?」
 振り返った由徳が問う声に応えず、スポーツ飲料と氷を詰めた人数分のグラスを手に戻ってきた。
「コレだけど」
 それでいいと返す由徳は、癒されたように氷枕を頬に押しつけている。先程まで多少流れていた風は、今や完全に無風状態だ。氷をたんまり入れたグラスは、スポーツ飲料を注ぎこまれて汗を掻き、テーブルに水滴を落とす。二人は飲み干してから再度ペットボトルを傾けた。
「由徳、マジ暑くねーの? 」
 扇風機がつくる人工の風を一身に受けて、友実は心底からの疑問を口にしながらスプーンを手にとった。氷枕を器用に肩へ置いた由徳はシャープペンシルを手にしてカチカチと鳴らす。
「あちーよ。でも炎天下でバイトしてるときもあちーからなあ」
 まあそうだよな、と、友実は想像で察してカキ氷掘りを再開した。ようやく食べやすい硬さになったようだ。ほおばると、カキ氷シロップ特有の甘さが口いっぱいに広がる。
「友実も、毎日クソ暑いとこで部活してんじゃん」
 水浴びをするまでは「あちーあちー」と呪いのように連呼していた友実に対して、由徳も似たような言い方で訊いてきた。
 確かに、部活は空調がないところで行なわれる。ユニフォームは汗でべったりだし、炎天下の中走るときもある。目がくらむほどの疲れを感じるときもあるが、それは暑さというよりも練習のせいというのが大きい。
「動きまわってるより、じっとしてるほうがあちーんだよ」
 風がなければ走ってつくればいいという原理だ。
「それもそうだよなー」
 由徳も友実の返事で納得したように呟く。エアコンのない、風のとおらない狭い部屋のほうが温度は逃げてくれない分、暑くなりやすいのだ。気をつけないと熱中症になりかねない。
 友実はカキ氷を食べながら、まともに機能を果たさないオンボロのエアコンを睨んだ。コイツが動いているのを見たのは今のところ五、六度しかない。つまり、どうしても使用しなければならない、使用しなければ我慢ならないというコトが起きなければ此処のエアコンは作動されないのである。
 そして、今日はそういったコトがありえる日だ。
 友実自身はどちらでもいいと思った。ただし、そういうコトがアルのであれば、早くそうなったほうがいいだろう。というか、さっさと宿題の写しが終わらなければ今日はナイ日になる。
 ……アルとかナイとか、なんなんだろうなオレも。
「友実の手、冷たい?」
 由徳の声に、友実が眉をあげた。シャープペンシルを持ったまま顎を下げ、気にならずにはいられなかったという上目遣いをした上での唐突な質問だ。
「冷たいんじゃねーの?」
 ほら触ってみろと言わんばかりに、友実はカキ氷の容器を持っていた手を由徳に差しだした。
「うわ、」
 手首を掴んできた由徳の手は、びっくりするほど熱かった。触れられていない周囲に赤い跡でも残るのではないかというくらいの熱だ。おそらく、由徳の体温がおかしいというよりは、友実の身体が特別冷えているということなのだろう。
「ひゃー、すっげー冷てえな! 」
 今度は両手で友実の腕をつかんでくる。
「あっちー! 氷枕使えよ」
 友実は我慢出来ず手を引っ込めた。


 迷惑そうな表情の友実をよそに、由徳は今友実の身体を抱きしめたらひんやりして絶対に気持ちいいんだろうな、と真剣に考えていた。今この状態でそんな展開へ持ち込むのを友実は許してくれるのだろうか。
 ……いやー、この宿題が終わらないと絶対に無理だわな。
「友実が水浴びて来てから、ここの室温下がった気がすんだよね」
 由徳は代わりに差し障りない言葉を投げる。実際、氷を首元に押しつけられる寸前、背後に妙な冷気を感じたのは、友実の身体からにじみでたものだったに違いない。
「そーか?」
 冷気を纏う本人はいまいちわからないといった表情のままカキ氷を食べている。ふと指に伝う雫を舐める仕草に視点をあわせると、友実の舌のヴィヴィッドな紅さが目に飛び込んできた。
 不自然な舌の甘美な色に、由徳の思考は瞬時に一時停止した。
 ……やばい、すげー舌がエロい。ああ、カキ氷のイチゴシロップか。
 日本人ならば一度は色づく舌の色だ。しかし、友実がそうなると話が違うということを由徳は思い知った。
 あまりにも艶やかだ。イチゴ味のカキ氷にこんな恐ろしい威力があったとは!
 跳ね上がったまま鼓動は、眼球と連動しているのか友実の舌から目が離せない。先程は、軽い気持ちで触りたいなーと思っていた由徳だが、性的なスイッチを確実に押されてしまった。
 その不躾な視線に、友実はすぐ気がつく。
「次はなんだよ」
 早く課題やれよという苛立つような表情と挑むような視線を隠さない。しかし、上半身裸で紅い舌をちらつかせながら目の前でカキ氷なんて食われているのだ。
 ……火がつかねーわけがねーじゃん!
「カキ氷、ひとくちちょーだい」
 由徳が健気な犬のように、もう一度上目遣いでお願いを口にした。その途端、友実の眉間に皺が寄る。
 お願いというより、おねだりと改めたい仕草だった。
「なんなんだよ、オメーは」
 呆れた返答がきたが、素直にカキ氷をすくってテーブルの向かいにいる由徳のほうへ差し出した。
 由徳は膝立ちすると、胸を弾ませてテーブルの中央に片手をついた。友実が近づけるスプーンをぱくりと口にいれて、氷の冷たさを体感する。
 そして溶けたイチゴ水の雫が友実の指へ滑ったのを見つけたと同時に、その手首を掴んで追いかけるように舐めた。その所作に、ひんやりした指がビクッとわなないた。
「あ、ちょ、……コノヤロウ」
 友実は指先に見せた驚きを低い声で改める。すぐに据わった眼をさせた恋人に、宿題を丸写しさせてもらっている身としてこれは軽率だったかもしれないと、由徳は取り繕うようにエヘヘと笑う。
 恋人の顔はすぐさま軽蔑を混ぜ込んだ表情に変わった。
「そんな余裕があるならさっさと写せよバカ。ずっとこんな調子なら帰っぞ」
 明日も朝から部活だって知ってるよなオメーもよ! と、溜めて込んでいた言葉を全部吐いて、カキ氷の容器を傾けてざっと口の中にかきこむ。
「やります! がんばります!」
 慌てた由徳は、一瞬前の挑発とは真逆の態度でノートへ顔を突っ込んだ。
 友実は呆れ返った表情のまま、そこらに投げ置かれたクッションを引き寄せると、枕にして寝転がった。室内は床がひんやりしているのがせめてもの救いだ。
 部活の疲れがゆっくりにじんでくれば、睡魔も顔をだしてくる。由徳もう少し時間がかかるだろうと友実は寝返りを打つと、由徳が独り言のようにぽつりと呟いた。
「友実の舌、すげーエロい」
 イチゴのカキ氷が、結果として由徳を刺激したわけかと悟った友実は、幼馴染兼恋人の足を容赦なく蹴りつけた。




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