* So beautiful world *


 午後の乾いたリノリウムに、光が陰影をつくった。弱弱しい明かりは飾りのように窓から差し込み、その窓は開け放たれた無防備さで、外気の水滴を呼び込む。太陽の光を感じていても、外はいまだ雨だ。建物の大部分を構成する打ちっぱなしのコンクリートが、現代アートさながらに濃淡をつくり、薄暗い廊下にモノクロームの印象を深めていた。
 白坂の座る位置から見える窓の景色は、さながら一種の動く絵画だった。風のない晴天ならば、コンクリートの額縁はより天然の彩色を際立たせていただろう。
 換気の悪いつくりの建物のせいか、中途半端なところにつくられている簡易的な喫煙スペースは、廊下に点々と光を入れる窓のなかでも、邪魔にならない奥寄りの窓の下にあった。公衆で使われる銀製のスタンド灰皿がなければ、煙草が吸えるスポットだと誰も気づかないはずだ。
 その傍には、木製の椅子が窓のある壁に沿って置かれていた。後日、立ち煙草が嫌になった誰かが置きっぱなしにしたのだろう。窓に背いていた椅子を、向かいの壁に移動させたのは白坂自身だ。煙草を嗜みに来たとはいえ、椅子に座って何も映さないねずみ色の壁をにらんでいるよりは、雨雲の行方を見つめていたほうが心情にあっていた。
 雨脚は、先ほどに比べ格段に軽くなっている。初秋の天気雨に、六月に降る霖雨の鈍さはなく、夏の熱を和らげるような柔らかさがあった。ゆっくりと秋の静謐と物悲しさを連れてくる使者だ。昇る紫煙を時折揺らしていく。
 長い月日のなかで、幾度印象的な雨を見ただろうか。
 遠雷が呼んだ雨、草花を潤す慈雨、窓を叩く白雨、涙を隠す小夜時雨、躊躇いに差し伸べられた遣らずの雨。
 その雨の日のなかには、かならず同じ顔があった。穏やかな面持ちよりも、はじめの頃に見せていた懊悩と沈痛に満ちた表情のほうが、いまだ印象強く残っている。あの表情を思い出すたびに、少しだけ不安になることは、今も本人に話してはいない。
 椅子から腰を浮かせ、少し離れてしまった筒型の灰皿に煙草を押し当てた。ギィと木製の椅子が大げさに唸り、人気の少ない廊下へ反響する。もう一度煙草に火をつけ窓を見上げれば、青空を出し渋る雨の音に、誰かの足音が覆いかぶさった。白坂の居座る簡易喫煙スペースの周辺にある部屋の出入り口は、主に大道具の倉庫へつながっている。セットが組まれた後は、大方脚を運ばれる場所ではない。足音はひとつなのだから、おおよそ撮影内禁煙に耐え切れなくなった誰かが喫煙できるスペースを求めてきたのだろう。
 とはいえ、此処は、いくつかある喫煙スペースのなかでも、辺境の場所にあった。この場を選ぶのだとすれば、よほど人気の少ないところを望んでいたのか、休憩を兼ねた探険か。……前もこの場へ喫煙に来ていたか。
 それとも、と、その他の可能性を導きながら、白坂はその足音の主を見やった。すると、近づいてくる痩躯と軽く目が合う。手には、馴染んだ細身の煙草ケースが握られていた。
 本間は、淡々とした様子で喫煙スペースにたどり着いた。
 撮影に使用されている衣装のままでいるということは、撮影現場でちょっとした休憩が挟まれたということなのだろう。今回の撮影は、白坂も含め皆全工程を終了させている。元々、今日は時間差で個々の撮影が行なわれていたのだから、最後に撮影現場に入った本間が、最後まで残っていても不思議ではない。
 逆に、全工程が終了している白坂が此処にいることのほうが、不自然だった。帰り支度をしている姿を本間が見ていたかどうかはわからないが、白坂の服装を見れば、仕事が終わっていることくらいわかるはずだ。
 窓の景色がさえぎられる。立ち止まった本間は、眼差しを少しだけ白坂の下においた。本間自体に用があったのか、そうでないのか、目の前に立っているだけでは検討もつかない。本間の表情に、負の要素は感じられなかった。
 意味もなく留まり続けている白坂に対して、本間は何を問う言葉はなく、片手に収めていたケースから煙草を一本取り出す。その手は、次いで目の前の白坂へと伸ばされた。桜色の爪を敷き詰めた細い指の行方を黙ったまま目で捉えると、胸元でそれは静止した。つかの間、するりとライターが抜き取られる。本間の目的は、白坂が着ているシャツの胸ポケットにあったライター一点だけだったようだ。
 安物のライターがカチッと鳴った。一吐きの白い煙が伸びる。本間がつくっていた影が動くと、白坂は手元の煙草を潰しに再度腰を浮かせた。リノリウムでできた床の濃淡が、先程より際立ってきている。
「じきに止むな」
 窓の外に降る天気雨へ、本間がそうつぶやいた。雨の向こうに淡い蒼が霞んでいる。間違いなく、後十分もしない間に途切れてしまう雨だ。秋晴れになれば日が暮れるまで、穏やかな風景画が窓から見えるのだろう。
 本間が眺める刺激のない景色は、ある言い方をとれば『幸福』という名の一種でもあり、それは決して永久のものではないことも確かだった。空は誰を構うことなく雨と晴れ、曇りと雪を繰り返しながら、いつだってただ在るがままにあった。
 ちいさな風に押され振り返った本間に、白坂はようやく「座るか」と訊いた。いくつかの距離と階を挟んで聴こえるざわめきが、空間の静寂を深めている。反面のガラスに当たる微細な雨の音をさえぎって、返された。「すぐ行くからいい」。
 窓のある壁に本間がもたれ、目を伏せた。
 白坂からは、何に動じることはない、もの静かな表情が見えるだけだ。けれどその心に、どれだけの感情が詰め込まれているかを、白坂は長い時間をかけて見続けてきた。遠い過去に印象づけた表情は、今ではほぼ見せることはない。
 ただそれは、現状がそうであるだけで、この先いつかの未来、いくつかの分かれ道を介して、あのときのように泣きそうな表情で胸を痛ませる彼を見ることがでてくるのだろう。それはおそらく、絶対に。……そして、そのやりやりのいくつかには、白坂自身に起因するものもでてくるはずだ。今のような静かに感情をつなげる関係になるまで、そうして何度も気が遠くなるほどのやりとりを繰り返したのだ。なぜ何度も惹かれ、完全に失うことができないのかを気づけないまま。
 短くなった煙草を、本間は傍の灰皿に押し込めた。煙の匂いを、大気が散らす。そして、寄りかかっていた壁から身を離した。白坂の了承を得ることなく拝借されていたライターは、本間の手中にあった。陽は翳ることなく、窓を再びさえぎった本間の隙間から、じょじょに蒼の彩度が濃くなっていく様が見える。密やかな落涙にも似た雨が止んでいく。
 動かない白坂に、本間が手を伸ばした。元あった通り、白坂が着ているシャツの胸ポケットにライターを仕舞う。
 白い指の細さと冷ややかさは、数え切れない営みのなかで十二分に知っていた。熱が籠もれば甘さを孕み、痛みと幸の薄い未来に耐え切れず、唐突に手放していく。そんなこの手の行方を、白坂はいつも見つめ続けてきた。ちいさな役目を終え、離れていこうとする手に、白坂の指が触れた。
 拒絶することなく止まった本間の指を、包むようにそっとつかむ。静止画のようにおさまった世界が、瞬く間に外の蒼を染め上げていく。
 何度も何度も白坂の腕を離した色白い手。そのたびに、この手がまたつかんでくれることを待っていた。期待はなく、ただひたむきに想っていた。そこに理由はなく、選んでくれる程に想いは募っていた。
 そうして行き着いた、ただひとつの言葉。
 華奢な指に通う愛。つかんだ指で肌をなぞる。黙ったままの本間を見上げると、目が合った。窓から差し込む日差しが一段と明るさを増す。
 独り善がりではない、確信があった。
「……離すなよ」
 本間が、ぽつりといった。その指のいとしさに、白坂は静かにくちづけた。


 薄雲が霧散した秋の空。傾いた陽は、やがて西へいく。アスファルトに浅い水溜りができて鏡になる。舗装をやぶって伸びる草、健気に咲く花。遥か欠けた白い月が天上に浮かんでいる。街の喧騒は醒めることなく、何年も何年も似たようなコマで映っていくのだ。
 暮れゆく前にひとつ、風が吹いた。やがて冬を呼ぶ風の音だ。
 泣いた跡も、拒んだ影も、乞う罪悪感も、憎んだ眼差しも、脈打つ音も、赦す絶望も、愛情という言葉の曖昧さも、気づけばすべて一つのラインに立っていた。たくさんの季節を巡り、何度も繰り返し心に問いかけた。失いながら、失えないと腕をつかんだ。  どうしても、譲れなかったもの。
 長い月日のなかで、この感情に理由はいらないのだと気がついた。日々の営みのなかで、ゆっくり気づいていった。
 左手に、陸橋をあがってくる白坂を見つける。本間は、歩道橋の手すりから手を離した。

 この胸には、すべてを美しく見せる想いがある。  









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