* 夏花めぐり *


 華やかな浴衣を着た少女が、小走りに佑也の横を通り過ぎた。梅雨が明ける頃から、時おり出会う夏の風物詩だ。下駄の音が、雑踏を涼しく演出してゆく。
 そのカラコロと鳴る足音に惹かれて、佑也は一時その姿を眼で追った。今のご時世、浴衣を着ていても、足元はサンダルであったり草履もあったりとラフなスタイルが目立つ。浴衣といえど、どうしても履き心地に好き嫌いが生じる下駄を選ぶ人はあまりいないのだ。だからこそ、この夏はじめて耳にした響きは、日頃大学で西洋音楽を専攻している佑也に、ノスタルジックな心地よさを与えた。
 天の色は、暮れる甘さから、艶のある濃さに時をかけず移り変わってゆく。熱帯夜は昨夜から一次休息しているものの、地面が吸収した熱の温度が足先に残っているようだ。うんともすんともいわない風の動きを感じ取って、佑也は明日から熱帯夜が戻るに違いないとも思う。無風の街を歩く人は、夏という季節柄かいつもより少しだけ多い。そして、少しだけ浮かれているようにも見えた。
「ゴッメン! もしかして、もう着いてる?」
 後ろから女性の甲高い声が聴こえ、携帯電話を片手にした色あざやかな浴衣姿が、また、急ぎ足で通り過ぎる。こちらは動きやすいサンダルを履物に選んでいるせいか、下駄の子よりも遠ざかるスピードが速い。往来で急ぐ素振りの人は他におらず、個人レッスン帰りの気晴らしを兼ねて歩いていた佑也は、それまで浴衣の子ばかりが先を急ぐ理由を疑問視することはなかった。
「…え、もうはじまんじゃん!」
 距離が離れていたはずの声が、前方から届いてきた。その浴衣姿は、立ち止まって空を仰ぐ。
 ドンッ、
 不自然な音が、辺りいっぱいに轟いた。
 あまりに派手な音だった。佑也は驚きとともに、明るくなった空を見上げ、そして、すぐ合点がいったとばかりに微笑む。平日であろうと行なわれる夏一番の風物詩といえば、花火だ。思いもかけず、目と鼻の先で花火大会がはじまったのだ。
 一発目を見届けた浴衣姿の女性は、会場に向かうのか駆け足で夜に溶けていく。その間にも、無限に広がるキャンバスへ、一瞬の大輪が幾度も色を重ねていった。花火大会間近の通りであるにも関わらず人通りが少ないのは、花火が間近すぎて高空のもの以外は大きく欠けてしまうからだろう。ぐんぐんと火の玉が遥か高く伸びる大きな花火は、ここぞとばかりに丁寧に打ち上げられている。
 華やかさというより、派手なものだ。思った以上に近間で咲く花火に、佑也の足も止まった。背の高い花が咲けば、道往く人も顔をあげて頬を綻ばせる。
 男女のカップルが、もっと見やすいところに移動しようと声を弾ませながら佑也の側をすれ違った。ドンッ、ドンッ、と、容赦ない音を轟かせ咲く花の全貌を見たい気持ちは、佑也にもよくわかる。これがデート途中の偶然の産物であれば、さぞかし素敵な一日になるだろう。
 しかし、さすがに独りではそこまで行動する気になれなかった。満開の花火が小休止するまで、少しの間立ち止まるのがせいぜいだ。嵩がない小規模の花火が続けば、この通りは花火大会からしばし置き去りにされる。建物に邪魔され、うるさい音しか聴こえなくなるのだ。男一人で突っ立って見ていてもおもしろさはすぐ失せるだろう。
 とはいえ、ひとまずこの機会に少しは見届けようと、通りの邪魔にならぬよう佑也は端に寄った。すると、同じように立ち止まることを選んだ人の一人が、携帯電話を取り出して空に掲げていた。カメラで花火を撮ろうという魂胆らしい。
 花火を撮る、という考えが今の今まですっぽり抜け落ちていた佑也は、思い出したように携帯電話を取り出した。いつもなら真っ先に思いつくことが浮かび上がらなかったことを考えると、いきなり咲いた大輪の存在に心が奪われすぎていたのかもしれない。
 カメラに設定した携帯電話を掲げると、大輪が裸眼より距離を置いて花開いた。先に携帯電話を掲げていた人は、ベストショットが撮れたらしく早々に場を離れている。仕立てのよい花を待って何度かボタンを押すと、時間の誤差に慣れて次第に立派な花火が収まっていった。
 まもなく背の高い花火が小休止すると、佑也は液晶画面を見つめて閉じ込めた花火を選別した。一瞬で散る花火にしては、とてもよく写っている。真夏の憎い無風は、花火大会になると、途端に歓迎される条件のひとつに変わるのだ。
 バスドラムも負けるくらいの音は絶えず続いているが、佑也はそれらに見切りをつけて駅までの道を歩き出した。とりあえず、思いのほかうまく撮れた花火を誰かに見せたくて、メールする相手をスクロールする。一番気兼ねのないコイツにしようと決めて、適当な文面に今しがたかたちにした画像を添付した。
 頭上で、一際大きい花がパッと周囲を照らす。
 花火職人の連携が巧いのか、大輪がさほど長く休まない花火大会のようだ。佑也は後ろ髪を引かれる思いもしたが、独りよりはやっぱ誰かと一緒のほうがいいもんなあ、と、再度思いなおして、花火を横目に足を進めた。ふいに、先ほどすれ違った幸せそうなカップルを思い出す。
 送信寸前のメールを編集画面に切り替えて、佑也はもうひとつ文章を足した。そして送信を終えると、携帯電話をポケットに突っ込んで足取り軽く駅へ向かった。
 『そんで、花火大会で酒盛りもけっこうよくね? 日程次第だけど!』




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