* ブルフレスコ *


 開ききったドアを渡れば、雲ひとつない晴天だ。熱をもった風が、太陽の光を孕んで屋上を駆け抜ける。建物の中がどれだけ涼しかったのかが窺える。室内はいつも季節感がない。
 月村は暑い、と呟きながら、日に焼けはじめた腕で額を拭った。白い地べたに置いていた青い缶は、日光を受けて嫌な感じに熱せられているはずだ。飲む気には最早なれず、時おり吹く涼しい風を肺活量いっぱいに吸い込む。かすかに潮のにおいがするようだ。吐いた息は、この外温と同じくらい熱い。
 熱気で迫る日本の真夏は、エアコンの稼動が必須だ。仕事上、日中はいつもそうしたところに閉じ篭もってばかりだが、このような引き篭もりの生活に嫌気が差す時もあった。すると、月村は屋上を目指す。
 このビルディングは高層にしては珍しく、屋上の立ち入りが許可されていた。起業の詰まったビルディングの屋上に装飾はなく、ただ広いだけだ。周囲の建物も高さは同じくらいか、少し低いくらいで隔たりはない。殺風景な白いコンクリートは、太陽の乱反射で眩しいくらい光を敷いていた。側面には落下防止の柵が施されてあった。
 月村には、それくらいの素っ気無さが心地よかった。屋上は飾り気がないくらいがいい。殺伐とした無機質の建造物のてっぺんには、それくらいのほうが真っ青な空は映えるのだ。
 少し煮詰まった頭をすっきりさせるように、自然の青と建物の海を見つめる。その先に見えるのは、もうひとつの本物の蒼だ。近くにあるのに、いつも忘れられている湾である。水平線がかすかに尾を引いている。ここに来ると、それらを独り占めできるような気がしてしまう。
 都会然としているのに、不思議と開放感に包まれる。それは、暑さを忘れてしまうような世界だった。時おり響く車のクラクションでさえ、月村の気持ちの中では蝉の声に様変わりしてしまうほどだ。自分の生まれ育ったあの遠い田舎を思い浮かべる。あの頃の空と、時空を越えてここはいつも近いのだろう。
 こんな風景に郷愁を感じてしまうのは、都会慣れのいい例かもしれないと、そんな自分の思考に月村は軽く苦笑した。都会に出てきた頃は、空気が汚いと散々愚痴っていたものだ。あの頃の自分はどこへいったのか。零れ落ちそうな汗をもう一度拭いながら、その片方の手でパンツの後ろを探って煙草を取り出した。
「……あ、」
 ライターないじゃん、と、心の中で呟いて、気づく前に取ってしまった一本を片手にまた苦笑する。しかし、箱に戻す気にはなれない。火のついていない煙草を指先で弄びながら、月村は輝く太陽に目を細め、あそこの火借りたいなー、などと独り子どもじみたことを考えていた。


「月村」
 呼ぶ声にあわせ、バタンッと強く閉じる音が響いた。月村が驚いたように振り返る。人物を見とめると、すぐ笑んで名前を呼び返してきた。
「矢木か、タイミングいいねえ」
 返ってきた言葉を、矢木は「何が」と訝しげに拾う。彼が眩しさをかきわけて目を凝らせば、言葉の意味にすぐ気がついた。月村の指に、火種のない煙草が差し込まれている。光でごった返すコンクリートを歩きながら、矢木は予想以上の暑さに大きな息を吐いた。左手に携えた冷たいペットボトルが救いだ。
 都会の屋上では、虫の騒がしい合唱は届かない。しかし、ここに来ると季節を色濃く感じられることができた。矢木はこの場所に時期を問わず時々赴いていた。すこんと抜けた空から、子どもの頃の景色が自然と浮かび上がってくるからかもしれない。このノスタルジックな浮遊感が好きで、矢木はふとしたときにこの場所へ辿り着いてしまうだ。
 一方、月村もこうした季節感を求めに来たのだろうか。単にうだるような暑さを恋しかったのか。
「暑くねーの?」
 矢木は、パンツのポケットにあったジッポーを渡しながら、あたりまえのことを訊く。月村は、先に点した火が風に消えないよう細心の注意を払う。煙草が機能を果たしはじめると一服吸って、また汗を拭った。
「めちゃめちゃ暑いよ」
「だったらさ、」
 中の休憩室にいりゃいいのに。矢木の言葉を、月村が容易くかき消した。
「そんな矢木も、暑いのに、ここに来てんじゃん」
 そーゆーことじゃん? 目がにこやかに諭してきた。矢木はすぐ合点がいく。やはり彼も、暑さが恋しくてここに来るわけではないのだ。現在からくり抜かれた、異次元のような、そんな不思議な感覚を求めに来ているのだろう。
 矢木はもう一度、外界に臨むビルディングの熱に揺れる波を眺めた。月村の吐く白い煙が雲をつくるような錯覚を覚える。ペットボトルの蓋を開けて、喉を潤した。
 燻る灰を足元に置かれた空き缶に落とした月村が、矢木とは反対の方を向いて柵に寄りかかった。白くない息を落とした後、痛いくらい眩しい空を見上げる。
「あ、ひこーきぐも」
 月村の言葉に、矢木もつられて真上の空を仰ぐ。そこには一筋の白い線が伸びていた。その先頭に、銀色をした米粒並みの機体がある。枷のない空間を、それはぐんぐん前に進んでゆく。
 随分久しぶりにまじまじと見た幼い頃の視野を、矢木は目を細めて実感した。遠い年月と空だけはさほど変わらない。過去も未来も今も、空だけは変わらなく繋がっているようだ。
「暑いんだけどさ、」
 吸うよりも先に零れていきそうな灰を、空き缶に軽く落として、やはり吸わずに月村は言葉を続けた。矢木は、建物の海に視線を戻してから目を伏せた。
「この空には、勝てねーんだよなあ」
 しみじみと紡ぐ声を聞く。閉じても感じるこんなにも強い光がある。汗だくになることを覚悟してここを望む自分は、きっとここが本当に好きなのだと矢木は思う。この都会らしい風情もあわせて好きなのだろう。
「あー、あちー」
 しかし、暑い。後に来た矢木のすでにダレかけた表情に、月村の笑い声がした。
 そしてすぐ、別の音に気づく。少し遠くのドアの方から、呼ぶ声がかすかに聞こえて、矢木は振り返った。ドアは少しだけ開かれて、誰かが覗いている。
「月村、矢木、リーダーが呼んでるわよ」
 女性らしくもなくかなりの大声がそう教え、屋上の二人はドアの方に身体を向けた。
「ねー、ちょっと聞こえてんのー?」
 出てくる気配はないが、誰かは判別がついている。同僚の里菜だ。
「里菜さ、なんでそっから出ねーの?」
「空キレイだよ、リナー」
 ドア越しに大声を張り上げるなら、ここまで来てしまえばいいのに、と思う二人をよそに、一瞬の沈黙の後、さらにボリュームの上がった声が外へ響いた。
「やだ。暑い。焼ける!」
 それこそ子どもじみた返答に二人とも爆笑しだすと、里菜は機嫌を損ねたように「早く来なさいよ!」と、半ば叫ぶ一方で、迫力が嘘のように情けなくかすかに外を覗く。そこがまた男二人にはツボにはいる良い材料だった。
「オンナって大変だよな、美白だのなんだの」
「今日の空、ほんときれいなのになー」
 月村が手すりから手を離した。ろくに吸わなかった煙草の吸殻を青い空き缶にねじ込む。
「さて、行きますか」
 歩き出しと同時に、矢木の手から飲み物を奪った月村が水分を得た。彼はこれもまた狙っていたのだろう。
 返されたペットボトルにケチはつけず、矢木もまた潤すように飲み干す。夏の空にひと時の別れを告げて、彼らは名残惜しむことはせずにドアを閉じた。




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