* 海底人魚 *


 先頭を切ったサークル部長の穂波が、降車するなり腕を擦っていた。暗がりに広がる閑散とした大地は、夜の涼しさを助長させている。肌にあたる外気の冷たい感触から、桂木は羽織り物を車内に取りに戻ろうとして、結局はやめることにした。降り立った場所は、別段長居するようなところでもないからだ。
 夏らしくない気温の冷たさが、桂木の寝ていた思考を動かせる。この新鮮さを十二分に味わうのも良いかもしれない。思いなおすとともに、桂木は多少利く夜目を頼りに歩き出した。深夜のSA(サービスエリア)を照らす電燈は、存在感が実に乏しい。
 トレッキングと史跡地観光を活発に行なう大学サークルに籍を置いてからというもの、桂木は細分化された日本の四季と地域性を実感している。今は真夏だが、北に行くほど涼しさが増すし、西に向かうほど日差しの強さは増すものだった。
 現在は、前者とも後者ともいえない地域にいた。夜中のせいか、桂木が予想していなかった気温の低さである。アスファルトが濡れた痕跡から、雨が地表の熱を洗い流したのだろう。山に面していることもあり、それが顕著に気温へとつながったのかもしれない。
 桂木はそう思いながら、手早く粗方の用を済ませ、引き返す暗がりの空間にひと時立ち止まった。自動販売機で飲み物を調達する程度で、このSAには興味を惹かれ寄り道に至るものなどほとんどない。
 SAにもたくさんの形態があるが、降り立ったSAは宵っ張りではないようだった。売店の硝子扉は固く閉じられ、薄闇に染まっている。SAの面積自体は、大きいほうに属するのだろう。駐車場にかなりの場所がとられている。しかし、それに比べ空間を照らす外灯は少なかった。停車する自動車も時刻柄かまばらだ。高速道路側にトラックが数台停車しているが、動き出しそうな気配はなかった。寝静まりながら、道路の走行音に壁をつくる。
 高速道路を走行する車の数もさほど多くない。時折、SAを囲う草木の隙間から、ライトのあかりが瞬き流れる頻度だ。独特の静けさを生んでいた。
 桂木は、こんな映画を昔見たような気がした。
 映画の情景を思い出すべく、白地に敷き詰められたコンクリートを踏みしめる。日本映画のSAを扱ったシーンだと思ったが、少し違う気がする。車が行き来できる地表は黒く、光の届かない地点はまるで沈んで見えた。ふと、海溝という言葉が思い浮かぶ。
 属性は闇でありながら、どこまでも透明で、そして何かが確実に息づいていた。吸い込まれるような虚無の漆黒ではなく、生きるものを満たし安心させるような暗闇だ。桂木は、再度立ち止まった。
 真夜中の高速道路は、まるで海淵のようだ。
 あるはずの人影を、闇が塗りつぶしていた。しかし、灯台のように点在する外灯を辿れば、かならず誰かを見つけることができるのだろう。少なくとも、同乗したサークル部員は大方下車している。桂木はひとつひとつ目に留めながら辺りを見回した。
 右斜めへ視線を向けたところで、さほど遠くない距離にベンチらしき輪郭があった。そこに、人がいる。
 おぼろげなシルエットでは、その実像を測れない。それでもベンチに座っているのはよく知る人間のような気がして、桂木は近寄ってみることにした。戻り道を、数メートル迂回する程度の距離だ。
 近づけばわかる、黒地のシャツを着た細い後姿。どうやら、同級生の睦月のようだ。ベンチの隣には、筒状の公衆灰皿が鎮座している。
 桂木が側に着くと、立ち止まった足音に、睦月は灰皿へ手を伸ばすついでのような仕草で、ちらりと視線を向けた。彼は、車を降りた時点では、降車する素振りを見せていなかった。だからといって、終始車内に籠もるようなタイプでもない。
 傍に桂木が来たところで、睦月は姿勢を崩さない。自分に何か用でもあるのか? と、気にかけてもいないのだろう。そして会話なく桂木がこの場を離れても、そこに理由を必要とする仲ではない。
 睦月とは、中学時代から行き先がずっと一緒なのだ。大学を入学するまで、お互い名と顔を見知っている程度の間柄だったとはいえ、妙な連帯感から、どうでもいい話を何気なくできる関係になっていたことは確かだった。友人になる前から、取り巻く環境を通して、互いをよく知っていたのだ。
 彼は独りのときに、よく煙草を喫む癖があった。今も桂木に気を向けることなく紫煙を落とす。その睦月に、桂木はなんとなく問うてみたいことがあった。自分と同じルートを選びながら、性格のまったく違う人間の思考を覗いてみたくなったのだ。
「この風景、むっちゃんだったらなんてたとえる?」
 真夜中に声はよく響いた。睦月にとっては唐突感のある投げかけだったにも関わらず、彼は桂木の言葉を受け止め、すぐに口を開いていた。
「なに、この光景?」
 煙草の先が、赤く縁をとる。
 桂木が「この、暗い闇な感じとか」と、ついで補足をすれば、睦月は何を求められているのかすぐわかったようだ。少し考え込むように、組んでいた脚を元に戻した。
「この感じ、そうだな。宇宙とか? いや、おもしろくねーな……桂木は?」
 回答を睦月は即座に覆しながら、桂木のたとえを求めた。彼には、桂木が宇宙以外のたとえを持っているのだと感づいている。
 桂木は応えてみせた。
「深海」
 その言葉に、睦月は納得したように「なるほど、深海ね……」と、つぶやく。
 程なく乗るワゴンのライトがついた。そろそろ出発するぞ、という運転手の意思表示なのだろう。睦月が、桂木を見上げた。
「したら、あれは潜水艦だな」
 睦月の発想に、桂木はハッとしたように睦月を見た。
 そこまでは、思いつかなかった。外灯の明かりが届かない位置に停車しているせいで、ライトはよく映えている。
 SAが深海ならば、自動車は潜水艦に違いない。そしてあのヘッドライトは、航路を照らす光だ。
 それは、桂木にとってとても愛しいイメージだった。そして、そのささやかな期待をこめて、睦月の元を訪れていたのだ。それは彼が皆から好意を持たれる一番のポイントでもあった。睦月が時折放つ、そういうところが好きだと実感する。そして同時に、もっと早く仲良くなっておけばよかったと悔やみたくもなるのだ。
「ほんと、いつもいいとこつくよね、むっちゃん」
 桂木の反応を読んだのか、睦月は「そう?」と、疑問符ながら少し嬉しそうな声色で瞳を返した。
 有機の闇を照らす一筋の光に、頼りなさはない。潜水と航海は、そうしてずっと続いていくのだ。新たに得たその感覚が、桂木に一層の好ましさを与えていた。




... back