* 香蜜灯 *


 咲子の隣で俯きがちに歩いていた、頭ひとつぶん低い佳菜は、何かを思い出したような表情で顔を向けた。その先には、低層のマンションが並んでおり、敷地の手前には、景観を良くするための緑が、やさしい濃さで葉を茂らせている。それは夜の暗さでも、外灯に揺れ伸びやかに成長しているようだった。葉々を下地にして、星のごとく密集して瞬くのは、とてもちいさなオレンジ色の花だ。風が運ぶ香りで、その植物の名がすぐ知れる。
 互い言葉をつくることなく歩調を合わせ、マンション群を通り過ぎる。次に住宅が連なる通りに変われば、そこでも佳菜は何か気になるような視線を周囲に投げかけた。先ほどよりも露骨な動きではなかったが、投げた視線の行方から、またかわいらしい花を見つけると、さすがに佳菜が探しているものが何であるか気づく。
 そのままにしておくのも意地の悪いような気がして、咲子は口を開いた。
「この匂い、金木犀じゃないかな。あれとか」
 口答では抽象的過ぎてわからないかもしれない。咲子の機転とともに、一番手近の木を指していえば、佳菜もすぐ理解したようだ。「あ、あれかあ!」と、感嘆とともに晴れたような表情が映る。
「この時期って、金木犀の匂いがすごいよね」
 この花はちいさいくせに、主張だけは強い。あたりを埋め尽くすような金木犀の香りは、匂いや四季の移り変わりに疎い人間でも振り向かせてしまうパワーがあった。咲子の言葉で花の香だと知った佳菜は、うなずきを省略してつぶやく。
「こないだ、リッちゃんちの近くでしてたのって、コレかも」
「りっちゃん? 理沙ちゃんちのほうもすごいの?」
 なんとなく咲子が拾った言葉に、佳菜が「コレよりしてたかなあ」と、匂いの記憶を辿りながら歩く。細い路地が多いところでもあるせいか、車の往来もまばらだ。なだらかな坂は続き、都心とは思えない静けさが過ごしやすい住宅地であることを表していた。
「金木犀はどこにでもあるからねえ。……あ、噂をすれば」
 その静けさから、ひとつの人影を見つけた咲子は、その人物をいち早く特定して声をあげた。
 向かい側からやって来るのは、理沙だ。本人は咲子が気づく前から、咲子と佳菜の存在に気づいていたようだ。
「なに? 劇団ホープのサキ先輩に噂されちゃってたの、やだアタシ」
 進行方向が逆だったにもかかわらず、咲子と佳菜の前に着いた理沙は、そのまま躊躇うことなく、くるりと二人の向かう方角に変えた。二人がどこからどこへ行こうとしているのかくらい、理沙もわかっているのだろう。
「佳菜ちゃんが、金木犀の匂いを気にしてて」
 何も反応を示さない佳菜の代わりに咲子が応える。すると、理沙も香りの源を見遣った。
「あー、カナんちのとこにも、すんごいコレの匂いするとこあったよね」
 同意を促すように理沙を見るが、佳菜はピンと来ないという表情をして「あったっけ?」と、疑問符を理沙に投げる。先ほどの佳菜と似たような金木犀への感想に、咲子は口許を緩めた。二人の仲の良さが言動に表れているところが、妙に微笑ましい。理沙と佳菜の会話は、今更「コンビニだけど?」、「知ってる」から、「リッちゃんちに、なんか忘れものしてる気がするんだよね」、「……え、うちに? どんな?」と、続いている。
「佳菜ちゃんちといえば、相変わらずなの?」
 家の話になっているところに、そういえば、と、咲子が切り出した。佳菜は最近大学により近いところへ引越しをしたはずだ。その上、かわいらしい外見に見合わず、佳菜は片付けという行為に興味をもたないらしい。事実、咲子は以前の佳菜宅における、足の踏み場もない部屋のごっちゃり感をよく覚えていた。自発的に整理をはじめてしまったほどだったのだ。
 咲子の問いに、理沙が肩を竦めて佳菜を見る。
「いっそサキ先輩に手伝ってもらったら、掃除」
 ということは、相変わらずなわけね。咲子がそう思うと同時に、佳菜が理沙の言葉に応戦した。
「昨日段ボール全部つぶして捨てたもん」
「アレやっと全部捨てたの? でもさ、あんなん丸一日かけてもカナだけじゃ絶対終わんないって」
「でも、リッちゃんいたら、すぐ脱線してもっと終わんないじゃん」
「いや、脱線させてんのはカナだって」
 二人の織り成す不毛な会話が道端にポンポンと転がっていく。路肩には、落ちた金木犀の花が色褪せることなくかき集められていた。咲子は二人の会話をBGMに、香る花を追う。葉に埋もれる金木犀の花は、街灯の光を吸収して発光しているように、薄暗がりからも咲く姿を誇示している。
 この甘い香りは、茶や酒の香料に使用されるなど人間に好まれることが多い。しかし、実際は金木犀が多くの虫たちを避けるために発しているものなのだそうだ。実用と鑑賞(娯楽)と本能。金木犀と人間と昆虫の価値観の違いを、それぞれの角度から見てみるのも面白いかもしれない。
「ヤルんなら、リッちゃんちでもバレないじゃん」
 一瞬の沈黙があたりを包んだ後、一際大きく聞こえた佳菜の言葉に、咲子は金木犀から二人へと視線を戻した。
「何をやるの?」
 咲子が話に加わってきたときには、佳菜は素知らぬ表情で道に落ちる金木犀の行方を追っていた。自分の発言をなかったことにするような素振りだ。理沙は、とぼけたように咲子へ目配せた。
「……お芝居のイメトレ?」
 不可解な疑問形を投げられたところで、咲子は余計な詮索をするのをやめた。彼女は煙に巻くのが上手だと、一年以上の付き合いから把握している。
「とりあえず、二人できっちり片付けしてみたら」
 咲子が選んだ無難な言葉を受け、佳菜は理沙を物言いたげに見つめる。その視線に、理沙が柔らかい眼差しを向けた。
「がんばろう、カナ」
 「ええー」という、つぶやきそのままに、佳菜が浮かない表情したことで、咲子はちいさく笑みをこぼす。理沙が向けている微笑は、佳菜にしか見せることのない甘い表情だと、彼女はまだ気づいていないはずだ。
 金木犀の香りは街灯の強さにまぎれ、とうに途切れていた。香花の坂から商店街へ行き着くと、微かな風が甘い香りに誘われて咲子たちを追い越していく。
 どれも、気づいていないのは当人たちばかりなのだろう。




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