* ジュリエッタ *


 悲しみを咥えこむだけのような夢を見て、千春は振り切るように眼を開けた。
 広がる天井の色は、見慣れない薄暗がりにやさしく映えている。夜目が利くだけ、夢と現実は乖離していくようで息を吐いた。眠っている間、見ていた夢にどれだけ身を固くしていたのだろうかと、額に手を当てる。冷や汗の跡が指先に触れた。
 人肌は脆い。そう思わせるのは、独りで眠っていたのではないからだろう。
 千春は慎重に身を起こした。シーツが肌を滑ると、室温が外気と違うことに気づく。ベッドの傍には、仄かな青い光が加湿を繰り返している。エアコンをつけても喉を痛めないよう、ささやかに機能する装置だ。その青い灯りが淋しさを誘いこむ。
 人は孤独だ。そう、人々が思う瞬間はこういうときなのだろうか、と、千春は思う。静かな世界だ。いびきどころか寝息も聴こえない。視線を隣に落とせば、篠崎が仰向けの几帳面な体勢のまま静かに眠っていた。触れもしない肌と肌が、人は決して融け合うことはないのだということを明確にする。どれだけ繋いでも、彼は彼のままで、自分は自分のままでしかない。
 だからといって、融け合いたいわけじゃない。
 それでも、その事実は人を悲しくさせる。結局、誰も、誰のものにもならないのだ。
「バカらしい」
 小さく吐き出して、千春はミネラルウォーターを取りにベッドから白い脚を滑り落とした。
 わかっていて、熱を分け合ったのだ。
 何度も繰り返してきた言葉だ。
 これがベストなのだと思えたから、続いている関係なのだ。今更感傷に浸るものでもない。辛くなったら、離せばいいだけだ。そうやって幾度も、千春は自分から彼を手離してきたし、彼もそれを許してきた。そこに彼のバックグラウンドなど関係ない。あくまで、千春と篠崎の関係は常に互いの枠の中でおさめていて、それが互いにとってたまたま一番フィットしたかたちだったのだ。
 そうして、何度も掴み直したことを棚に上げて、千春は何度も深呼吸をした。
 冷蔵庫からペットボトルを取り出すと、バスルームにかけてあったバスローブを身に纏って裸体を隠す。口に運ぶたびに濡れる顎を手の甲で拭い、壁にもたれかかって眼を閉じる。目元に冷えたペットボトルを当てれば、安心したように肩が下りた。
 夢のせいで眠りながら泣いていたのかもしれない。セックスの最中で涙が零れることはあっても、ここまで目元がひりひりはしないからだ。
 どんな内容だったかと、千春はおぼろげな夢を手繰り寄せようとして、途端に手放した。思い出してはいけないと、理性が唐突に記憶を押しとどめる。
 ああそうだ、忘れたほうがいい。きっとバカみたいな夢だ。夢は夢でしかない。
 夢が夢でしかないのなら、今さっきの夢を反芻してもいいのではないか。
 そう思い返して、冷静になれた自分にため息をつく。動揺しすぎよ。あんな夢ごとき。
 千春は足元を見ながら歩く。宿泊施設特有のカーペットは足の裏も冷やさず、熱も奪わず無機質のまま、ただそこにある。ただそこにいられないのは人間を含む動物だけだ。それでも、存在するもの全て、いつかはかたちを無くす。それが絶対の決まりのように失っていく。それは、眼に見えるものだけではない。眼に見えないものも、総てだ。
 足元にベッドが見えてから、ようやく千春は視界を広げた。相変わらず眠っている篠崎が映ると、視点が止まったまま金縛りにあったように動けなくなった。目眩にも似た違和が広がってくる。
 この光景は、異様だ。唐突に千春は思った。
 篠崎のむき出しの肩が見えている。きっとシーツの中は何も身につけていないのだろう。
 そんなことは当たり前だ。自分だって、ベッドの中にいたときはそうだった。そして数刻前、この眠る身体に組み敷かれ、この身体の熱にしがみついていたのだ。
 融け合うはずのないいびつな行為に、全力を注いでいた。
 千春は、怖いと思った。
 何が怖いかはわからない。ただ、漠然と怖かった。
 それならば、無ければいいのだろうか。無かったことにすればいいのだろうか。この眠る人間は、いつか枷になるのだろうか。ずっと、こんな不安を咥えこんでいなければならないのだろうか。
 ……この人間がいる限り幸せになれないのだろうか。
 気づけば、千春はペットボトルを落としてベッドに乗り上げていた。
 篠崎から焦点が外れない。無性に自分以外の熱に触れたくなって、そっと篠崎の鎖骨をなぞった。彼は変わらず眠りの住民だ。自分はありつけなかった、穏やかな眠りの中だ。
 何も無くなれば、彼さえいなくなれば、そうすれば、自分の胸が軋むことはないんだろうか。ここに在る総てが怖くなったりもしなくなるのだろうか。彼と同じような安らかな眠りが得られるのだろうか。肩を滑っていた指先が、喉仏に当たる。
 この存在を、この手で無くしてしまえば……。
 喉仏から千春の指が首元に回った。片手ではこなせない行為は、凍ろうとするもう片方の手も叱咤させ滑りこませた。失うならば、一思いにしたかった。
 窒息させようと手に力をこめる。しかし、思うように指が動かない。
 千春は舌打ちして華奢な手に全力を注いだ。目を閉じて圧迫する。親指で喉仏も潰して、血管が浮き出るくらいきつく首を絞める。そうして何もかも、この想いさえも全部、泡のように無くなってしまえば……。
 私の穏やかな日々が、取り戻せるはずなのに。
「……千春、」
 ぼやける視界に、手が伸びて頬を撫でた。やさしくて、千春には悲しすぎた。ぽたぽたと、シーツに染みていく涙の残骸が、見た夢の破片をつなぎ合わせていく。
 最後だと、もう別れるのだと、そう悲愴な中でセックスしていた。そういう夢だった。自分の人生を守るために、篠崎に別れを告げるための、最後のセックスをしている夢だった。残酷すぎた。あれはいつか来る現実なのだろうか。未来に起こってしまうのだろうか。
 悲愴な残り香は、千春に染み付いて息を殺した。夢だと、思えないから眼が醒めたのだ。
 失うということが怖かった。
 そして、『失う』ということを恐れた自分がそれ以上に怖かった。痛む胸に、泣けてしまう衝動に、割り切りをつけた関係ではないか。
「泣くなよ」
 落ちやまない涙を、あやすようになぞる指が余計悲しくて、千春はうん、うんと頷きながら彼の首元から離れない手を拳に変えベッドに押し付けた。身体が震える。篠崎の寝起きの声が、未来ではない現実を見せていく。
 うなだれるように喉を鳴らす千春の背を、篠崎はそっとさすった。じょじょに崩れ倒れこむ彼女を、彼は何度もあやすように頭や背をなでた。千春はいつまでも泣き止まない。
「だいじょうぶだろ」
 耳元で篠崎がささやくと、千春の頑なな手が解けた。首を絞めるためではない手が篠崎の身体に回る。篠崎は自分に取り巻いていたシーツを剥ぐと、千春を抱き寄せて口づけた。涙は少ししょっぱいのだろう。少しだけ顔をしかめる。
 失うことなんてできるんだろうか。この想いを殺すことなどできるのだろうか。苦しい感情がなくなったら、本当に幸せになれるのだろうか。これ以上の関係を求めてしまったら、どんな未来が待っているんだろうか。
 震えたくちびるが離れて、顔を見合わせる。涙やらでぐちゃぐちゃになった顔をそらそうとすると、篠崎が頬の涙をぬぐった。
「なぁ、どこにもいかないから」
 耳に入って脳に達して、そうして千春はまたひたすら泣き出した。声を殺すのを止め、詰め込んだ悲しみに途方に暮れるようにして泣いた。それでも、撫でる手が溶かしてくれると思った。融けて、ひとつになりたいと思った。
 融け合って、どれが自分でどれが篠崎かわからないくらい甘く深く、永遠に……。
 そして、今なら赦されるのだろうかと、そう思って泣きながら篠崎の耳元に寄せて口づけた。口づけて、震えるくちびるが壊れないようにかたちどった。
 途端に強く抱きすくめられて、篠崎がひっそりと想いを返す。千春の掴む手に力がこもってあえぐように肩に顔をうずめた。
 それがすべて、いつかやさしい嘘になってしまうのだとしても、千春は「愛している」という言葉にすがっていたかった。




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