* プラネットヌーン *


 砂地を歩く前から大気に混ざっていた独特な潮の匂いは、浜辺に着いたところで一層の濃度を高め、肺にまで到達していた。
 海は、どこまでもつながっている。無音になることはない悠久さが、この島国の端から端を縁取っているのだ。眼下に広がる景色は、そんな当たり前のことを教えている。
 立ち止まったユイにかまわず、隣を歩いていたリノコは、一歩一歩と踏みしめるように砂浜を下っていた。煌々と地上を照らす外灯は遠いものの、陽が没したばかりの空には、まだかすかな太陽のなごりがある。明るい砂の色は、アスファルトとは異なって前を歩く人の足跡を残してゆく。
 ユイがその足跡を辿っていると、不意にリノコが振り返った。止むことのない満ち引きは、彼女の十数歩先で繰り返されている。
 夏のどこまでも強い青空には勝てないものの、秋が深まる空は夜を重ねるごとにその透明感を浮き立たせる。同じ夜の色でも、磨いたガラスのように鮮明に広がるのだ。波の音しか聴こえない世界の天井は、永遠の決まりごとであるかのように水色から橙色、そして藍色へと過程を経て染めあがっていく。
 遠く、正体を現した細い弓なりの、控えめな月の近くに早々ときらめく星がある。恒星なのか、惑星の輝きなのかは、天文にさほど詳しくないユイにはわからない。
 ユイを真っ直ぐな眼差しで見ていたリノコは、ユイが傍に来るとわかればすぐに向きを戻した。そして、海に平行して歩く。より外灯から離れた潮騒の奥へ。ユイも半歩遅れて、リノコの隣を歩いた。
 特に行くあてなどない。
 果てがない海を見に行く他に、理由なんて必要なかった。あるのは自然の奏でる音と、砂を踏む音だけだ。
 日中は強めの風が吹いていたが、陽が傾く頃には落ち着きを見せた。今は雲ひとつない空に、波は凪いで浜へと打ち寄せている。
 平日の日没直後とはいえ、海岸でこれほどまで人をほとんど見かけないのはユイにも意外だった。人の気配がないと、二人だけどこか違う世界に来てしまったかのような錯覚さえ湧き上がってくる。何かがはじまる前の静けさというよりも、エンディングのスタッフロールが途切れ、すべてが終わってしまった後の、置き去りにされた物語に放り込まれたような感覚だ。
 横を眺めれば、薄い夜を湛えた滄海は、飲みこまれそうなほど深く見えた。砂浜の海岸線は足音よりも速く闇に霞んできている。砂に紛れた貝がらが、足許でパキリと鳴った。
 冷ややかな海水の跡が、砂に残っては、また流される。
「リノちゃん」
 ユイが名を呼ぶと、リノコはユイを見て立ち止まった。緩い坂を形成する砂を滑るように下るユイには続かず、様子を窺うことにしたらしい。カーディガンのサイドポケットに両手を突っ込んだまま、ユイの動向を見つめている。
 海を眺めていると、どうしてもギリギリまで近づきたくなるときがあった。この水に触れてほしいと、海が手招いているような、無性にワクワクする感覚だ。秋の空気がつくった水温は、確かめなくても冷たいのだろう。わかっていても惹かれてしまうのは、おそらくユイにかぎってのことではないはずだ。
 砂が洗われる波打ち際まで、ユイは足を伸ばした。スニーカーの裏がわずかに濡れる。そして、途端に打ち寄せてきた波から、反射的に二歩だけ逃げた。
 波は単調に見えるが、ずっと同じ砂を洗っているわけではない。少しずつ満ち引きに差延をつけて、一日に二度ほど満潮と干潮を繰り返す。潮汐は、月の引力が連動しているのだという。
「濡れるよ」
 あるがまま、打ち寄せ引くことしかしない海と踊るように動いていたユイに、リノコが声をかけた。ユイが振り返ると、泡立つ波がわずかにスニーカーのつま先へ当たった。中までは浸透せず、離れていく。
 リノコは手持ち無沙汰な風情で、ユイの足許まで到達しようとする海を眺めているようだった。見るからに、今にも座り込みそうな怠惰さを身に纏っている。
 この浜辺に向かう途中、リノコは「あ、煙草忘れた」とつぶやいていたのだから、本当にすることがないのだろう。ユイと海を眺める以外の面白みは感じていないはずだ。それでも、ユイの誘いには素直に乗ったのだから、退屈といったわけではないようだった。
 ユイが波打ち際から数歩離れると、リノコがその分だけ海に歩み寄った。潮騒に紛れてサクサクとちいさく砂が鳴る。隣に立つ気配を感じてから、ユイは目蓋を伏せた。そして、深呼吸をする。視界を閉じると、海の音と匂いは格段に引き立った。海は、暗がりの中ではどこも似たようなものかもしれない。
 ユイの脳裏に、故郷の海が広がった。馴染みのある瀬戸の内海と、今あるそれを重ねてみる。あの海は眺める場所に寄れど、海の向こうに大小の島が見える風景が続いている。さすがに天候が良かろうと向かいの山陽までは見えないが、内海独特の雰囲気は夜でもその独特さを残していたように思う。
 ……やはり、果てがある海と、ない海では趣が違うかもしれない。それを確かめるように、ユイは瞳を開けた。
 空が引き出す宵の配色を、拒まない太平洋がどこまでも広がっていた。大海はまるで空の影のようだ。遠くで船の警笛が風に運ばれてくる。その沖合を望めば、水平線が闇に溶けてゆく。そして、海と空がひとつになった。
 海を持たない県で生まれ育ったリノコから見た海は、どういうものなのだろうか。
 ユイは、ふとそんなことを思いながら、リノコを見た。彼女は、ユイの視線に気づかず空を見上げている。よくよく考えれば、海がなくても空や星ならば、彼女の生まれ育った町でも、此処と同じように映えているのだろう。
 夕暮れを閉じた空には、夜のはじまりを教えるたくさんの星があった。人工灯が遠いこの場所では、〇等星・一等星以外の星もさまざまな色で主張している。それこそ暗闇に包まれた浜辺から一般道に戻るまでは、かすかに届く外灯と星の光を当てにしなければ、どこかで転んだり障害物に当たったりもするかもしれない。
 まあでも、そのときはそのときだろうとユイは思った。月齢が老いた衛星は当てにならない分、星がこんなにも瞬いているのだ。
 思った以上によく見えている星と星を目で適当につなげて、実在するのかわからない星座をひとつ、即席でつくる。すると、その間に光の欠片がスウーッと流れた。流れ星だ。
「リノ、今見とった?」
 見つけたユイが、かかさずリノコに問うた。
「……見た。流れ星?」
 偶然にも同じところを見ていたようだ。ただ、一瞬のことだったせいか半信半疑の物言いになっている。
「流れ星だよアレ。……リノちゃん、なんか願い事した? 」
 ユイはなんとなく思いついて、そう続けた。リノコは一瞬不思議そうな顔をユイに向けたが、「してない」と即答する。あまりに想像できていた答えに、ユイは微笑する。
「じゃあ、次見れたらなんにする?」
 さて、なんて願うのだろう。あんな速さじゃ次に見れても願うことなんて無理だ、と思うのが普通だ。
 しかしリノコは、逡巡するようにもう一度空を見上げた。二度目の流れ星を探している仕草にも見えた。
「したら、ユイと一緒で」
 躊躇いもなくリノコの声が、波音に乗せ明瞭に響く。
 その懐かしさと心強さを胸に寄せ、「欲ないなあ」と言いながら、ユイは嬉しそうに同じ空を見上げた。
 満天の綺羅星は、次の願いに応えてくれるような輝きでどこまでも続いていた。



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