* グレイス *


 蒼い空と溶け合う真っ青な海が、眼下に広がっている。日差しは目を刺すほどの眩しさでありながら熱を帯びることはなく、ゆわりと薫る風とともに恵まれた楽園を構成していた。
 萌える若草の群生に腰を下ろして、遥かな色彩を目に焼き付ける。片手には、続きの手がしっかりと握り込まれていた。好きなひとの華奢な手だ。子どものように重ねた指と指。揃いのプラチナリングが太陽に瞬く。こんな風に、まるで恋人同士のように手をつないだことなど、今まであっただろうか。そっと、隣に座る彼女を見やる。すると、なによ、とでも言いそうな表情で頬を緩ませてきた。とても幸せそうな顔だった。
 つないだ手には、体温がない。
 隆之は、これが夢の中であることを知っていた。
 体温を感じないだけでなく、これだけ照っていながら日差しの暑さも風の纏うぬるさも感じなかった。そして、状況がありえないことばかりなのだ。
 人気のない小高い丘は、どう考えても隆之の住む首都圏にはない風景だ。仮に今この場が日本国内に実在したとしても、南国と称されるような地域だと想定できた。そういった地域に、隆之は生まれてこの方一度も訪れたことはない。
 それ以上に、隣にいる彼女…住吉真希が、こんなところまで一緒に来てくれるわけがないのだ。休日返上で救急医という仕事に心酔している彼女が、隆之の旅行計画に両手をあげて喜んだ試しは一度としてなかった。その上、こんな易々と手をつないで散歩してくれるような女ではない。第一、彼女は暑さが苦手で、少しでも日焼けをすれば水ぶくれ状になるほど肌が弱いのだ。今のように、草原に座ってのんびり日光に当たっている場合ではない。
 しかし、この異常な状況を、隆之はすべて色のついた夢だとわかっていながらも、自ら破る気にはなれなかった。すべてがありえない状況だとしても、この情景を壊して現実に戻る必要はない。なぜなら、夢はいずれ覚めるものだからだ。それならば、現実では絶対に起きるわけがないひと時を、すべて自分が都合よくつくりだしたものだとしても、存分味わうことに何も悪いことはないのだ。
 つないでいた真希の指が動いた。離すのかと隆之は思ったが、どうやらそうではないらしい。隆之の手を開くように促して、か細い指を滑り込ませる。力を込めてぴったり重なる手の、あまりの可愛い仕草に隆之は息が詰まりそうになった。
 それこそ現実では、絶対にあるわけがないものだった。真希はそんな可愛いことができるような女ではない。しかし、この溢れんばかりの幸福を伝えたくて、きゅっと握り返す。すると、今まで感じなかった真希の体温が、ゆっくり染み渡っていくような気がした。
 同時に、どこからかメロディがとぎれとぎれに聴こえてきた。
 耳を澄ませてみると、隆之の知らない曲のようだ。楽器を使って生み出される旋律ではなく、誰かの声で紡がれた音だ。しかし、そのメロディに歌詞はない。鼻歌のようでもあった。この声を、どこかで聴いたことがある。とても馴染みのあるものだと隆之は思った。
 その鼻歌が途切れ、次は間近で唄になった。真希が、その鼻歌から呼応したように、ちいさく歌いだしたのだ。けれど、この曲のタイトルも佐伯はわからなかった。遥か昔に聴いたことのある、歌謡曲のようであり、童謡のようでもあった。旋律は、まるで幼子を寝かしつけるやさしさに似ていた。
 快晴の空を見上げれば、太陽の光線は白く翻った。息を吸えば、真希の体温だけでなく、石鹸の香りとかすかな煙草の香りがない交ぜになって胸を満たす。そういえば昨日の夜は、久しく互いの身体を味わうように抱き合ったのだ。真希が潤んだ瞳で咥え込む様は、何ものにも代えがたく愛しいと思わせた。
 心を満たす感覚は、唄を連れ次第に眩しく染まっていく。
 甘い情景から浮上していく。するりするりと、夢から引き上げられる。隆之はそう感じた。海面が上昇するように、現実へと醒めるのだ。
 それでも、唄と温かな手の感触が消えることはなかった。いまだ、石鹸と煙草の香りも鼻腔をくすぐっている。空と海はすでに彼方へ散って、目蓋には別の明るさを感じていた。ベッドに寝そべっている状態で、背には温かい感触が何度も上から下へと流れている。
 その確かな感触で、眠りから意識が引き上げられたことを、隆之は実感した。
「…、……」
 目を閉じていてもわかる。
 唄は、今もすぐそこで聞こえている。
 背中をあやすように撫でる手の持ち主は、おそらく隆之の眠るベッドに、猫背気味で腰掛けているのだろう。今まで一度も隆之に歌を披露したことのない彼女が、ちいさく口ずさんでいる。話す声よりも、少しだけ高くてやさしい。曲のタイトルはわからないままだが、夢の中で聴いた曲と同じだ。
 隆之は次第に明確になっていく意識とともに、現実の状況の甘美さに戸惑った。
 これは、本当に現実なのだろうか。
 今まさに真希がとっている行動が、信じられないくらい甘いのだ。隆之の背を何度もなでる手は気休めではなく、体温を共有するように触れている。肌を辿る指は、昨夜の情交を忘れていないのだろう。時折、背骨をなぞり感触を確かめている。
 口ずさむ音は、とてもリラックスしていた。真希はこうした行為を、慣れているようでもあった。彼女自身のかたどった空間に、躊躇いがない。きっと真希は、今までに幾度もこの行為を密やかに繰り返してきたのだろう。
 目を開けてはいけない。
 隆之は潜めていた呼吸を、寝ているときのようなゆっくりしたものに直した。すっかり狸寝入りとなってしまったが、この空間は自分が起きてしまえば終わってしまうのだ。真希は、隆之にここまで甘い行為を与えたことはないし、下手に起きれば、以後二度としてくれないかもしれない。
 目を閉じたまま状況を理解すると、はじめて知った現実が、この瞬間が、たまらなく愛しいと思った。そして、今までこんな密やかで甘い時間を、自分は気づくことなく惰眠を貪っていたのかと、少しだけ悔しい気持ちが込み上げた。それも、真希が紡いでゆく安寧に呑まれて温かく満たされる。窓からこぼれ部屋を染める日差しは、幸せなつがいを持った人間を祝福している象徴のようだった。
 夢に頼らなくてもよかったのだ。
 夢よりも幸福な楽園が、他でもない現実にあったではないか。
 その事実は、隆之を陶酔させた。安堵感が身を包む。夢には到底及ばない現実の温かさをいっぱいに受け止めながら、幸せな眠りを再度手繰り寄せる。
 子守唄が止む気配はなく、隆之の意識がもう一度途切れるまで寄り添い続けていた。



 鳳仙花がはじけるように、隆之は目をパチリと開けた。
 二度目の眠りは深く、すべての疲れをさらっていたかのように視界もクリアだ。しかし、一度目に意識を起こしたときにいたはずの真希がいなかった。さすがに部屋を離れ、どこかへ行ってしまったようだ。
 本来は、そうしたことのほうが二人の仲では当たり前なのだ。隆之が目覚めたときに、真希がいないということのほうが普通だ。一般企業に勤める隆之と違い、真希は土日昼夜関係なく、救急病棟からの呼び出しがあれば、何があろうともそちらを優先する。それこそ隆之よりも患者を愛しているのではないかというほどで、大抵隆之との時間に区切りがつけば病院に戻っていく。あんな男みたいな女とよく交際が続けられるよな、と呆れにも似たコメントを同僚や友人からもらうほどだ。愛情表現に乏しいどころか、隆之を省みず働く女。だが、その姿を隆之は長らく愛している。
 だからこそ、二度寝する前の、アレは実際に起きたことだったのだろうかと、隆之は寝転がったまま考えた。
 その右目の端に、紙切れのようなものが映る。シーツを泳ぐ対象物を指で拾えば、思ったとおりの白い紙だった。そこらにあったメモ用紙なのだろう。
 四つ折に畳まれた紙を、仰向けになって広げる。紙には文字が書かれてあった。律儀さが伺える字のかたちは、どう考えても真希の筆跡だ。
『おはよう 休日出社、遅刻しないようにね。』
 些細な言葉だが、それだけで隆之の胸に、子守唄に包まれた幸福感が蘇った。何より、あの行為は夢ではなく間違いなく現実に起こったことなのだ。その事実にどうしようもなく心が満たされる。隆之はその温かさに浸るようにごろりと寝転がった。
 今日は、素敵な一日に違いない。そんな朗らかな気分で、今日がこれからはじまるのだ。
 人に自慢したくなるほどの、こんな気持ちを与えてくれる愛しい存在は、他に探してもいない。左指にはめたリングに口付けながら、隆之は次会うときは心からの感謝の言葉を伝えようと心に決めた。彼女の驚いて訝しがる表情がすぐ想像できてしまうことが、何よりもおかしかった。



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