* 宇田川回廊 *


 建物が乱立する繁華街であっても、昔はかぼそい川が幾重に流れ、岸には色美しいすみれやれんげの花が茂っていたのだそうだ。そんな風景とのギャップを一度でいいから見てみたかったな。そうつぶやいたバイト先の先輩から、ある場所の名前を教わった。

 暦の上では春が来る。
 しかし、最近の季節は暦と沿っていなかった。本来ならば、桜がほころびはじめる時期ともいえたが、先週末にぶり返した風の冷たさから、一転してくすぶってしまったらしい。つぼみはまだ凍ったままだ。
 寒いのも嫌だけど暖かくなるのも嫌だ。そう言っていたのは、誰だったか。
 バイト先の休憩時間中、しきりにくしゃみをしていた人物を思い返して、あれは同期の草野だった、と、倉橋は気づく。あのとき、隣にいた仲間が「きた、花粉症の季節」と、他人事のように言い出したのを草野が恨めしげに見ていたのだ。花粉のバケツがいっぱいになると花粉症になるんだ。そんな、よくわからない力説をした彼に、通りがかった先輩の岡が「遺伝って説もあるよね」と、さりげなく追い討ちをかけていたのが、妙に哀愁を誘っていた。とりあえず花粉症というものは、暖かくなると同時にピークを迎えるものらしい。
「ここ、星がよく見えるよな」
 車線から少しだけ離れた道すがら、倉橋の隣で独特なかすれ声が響いた。日本中で最も人が集まる地域だというのに、この通りはやけに静かだ。歩行者専用の道だからか。一言だけ発した安佐は、歩きながら空を見ている。
 倉橋がはじめてこの小道を見つけたときに、安佐は少しだけ驚いた顔をしていた。こんな大都会の大繁華街でも、少し逸れれば殺風景な低層ビルが連なっていたり、温かな匂いのする住宅地が広がっていたりすることは倉橋もよく知っている。しかし、この道はそのどちらとも違っていた。
 改装されたばかりの遊歩道は、赤みがかった煉瓦で小奇麗に敷き詰められていた。まるでアミューズメントパークの通り道な風情だ。その整備された人工的な装いは、そっけなさというよりも、歩く自分たちを何かの主人公にさせるような……しいていえば、小説の一小節を飾るような、そんな静謐さをもって存在していた。人の行き来も滅多にないから、倉橋はそう思えてしまうのだろう。
「今日が満月じゃなきゃなあ」
 安佐が白い息でつぶやく。小高いビルの合間に、オブジェのようなまんまるの月が顔をだしていた。この遊歩道は、裏路地ともいえる位置にあるせいか、地上の明かりを集めず、空の美しさを教えてくれるようだ。爽快なほど明確に続く暖色の道は、夜に折り重なって続く。
「また来りゃいいんじゃねえの? 近いし」
 きっと彼の言葉に、応答する必要はないのだろうと思いつつも、倉橋は息を吐いた。一体今の気温は何度くらいなのだろう。
 案の定、応えを欲していなかったようで、安佐は嫌そうに口を開いた。
「やだよ遠いし」
「近いだろ、まだ」
「遠回りじゃん。どう考えても」
 どこから、と、付け加えなくてもわかる。先ほどまで、一緒の場所でバイトに勤しんでいたのだ。しかし、倉橋にとって、安佐はバイト仲間というには割り切りがよすぎる相手だった。それだけでは言い表せない、うやむやしたものがいたるところに付随している。第一、彼とはバイトが一緒になる以前からの長い付き合いだ。その蓄積は、もはや友人というよりも腐れ縁ともいえた。
 安佐が、ゆっくり歩きながら白い息を繰り返す。倉橋はその歩調に合わせながら、彼を見る。その細い肢体は厚着に隠れて、微かに見える首の白さが春の訪れを待ちわびていた。
「夏ここらへんに、外国にいそうなチョウがいたってオカさんいってたよ」
 この道を教えてもらったときのエピソードを返せば、それに安佐も興味が湧いたようだ。
「蝶? ……あ、近くにでかい公園あるからか」
 すると、ここらへんは意外に自然が豊富なのかもしれない。安佐が周囲を見渡す仕草に、倉橋は彼の思っていることを心中で当てる。意識しなくても、安佐の思うことがわかるほどの縁に達してしまったのだ。
「夏に来りゃいいじゃん」
 倉橋がそう結論付ければ、安佐は、そんな遠い話、と、口をとがらせた。
「忘れるよ。オマエ絶対忘れるよ」
「忘れねえよ。おまえも覚えとけば、」
「オレは絶対忘れるね。オマエより忙しいもん。オマエ覚えとけよ」
「それで夏になってよ、俺が覚えてても、おまえは忘れてた知らないそんな話とか言うんだろ」
「覚えてても行きたくなかったら行かないし」
「じゃあ覚えてろよ」
「忘れてやる」
 「おまえなあ」と、言う前に、倉橋は子どもじみた言い合いのバカさ加減に気がついた。いい歳してなんだ。呆れた顔で隣を見ると、イタズラっぽい目がちらりと返ってくる。言い合いに、今回も勝てたことが嬉しかったらしい。
 安佐は昔から倉橋に対してだけ、無駄に意地を張るのだ。
「おまえさ、マジで、」
 倉橋は言葉を続けず、諦めたようなため息を吐いた。諦めたのは低レベルな言い合いに対してではない。安佐の嬉しそうな表情をみるたび、許してやりたくなる奇妙な感情が芽生えるのだ。変わらない関係性が、今は安らぎに値するのだ。
 それを簡潔に彼へ伝えてみれば、安佐に勝てるだろうか。勝てる気がして、倉橋はジーパンのポケットに手を突っ込んだ。
「好きだよ」
 想像通り、途端にフリーズした安佐の身体は、さも嫌そうに倉橋を避けた。そのあからさまともいえる、ぎこちない動きがおもしろくて、倉橋は立ち止まった彼を置き去りにする。
「う、うわ、なんだよ、き、キモっ!」
 少し後ろに離れた声が、ひきつれたようにはっきりと響いた。そのまま安佐の動く気配がない。寒いのに留まる気か、と、倉橋が振り返ろうした矢先にふくらはぎへ強い衝撃が走った。
「イッて! アサ、おまえ!」
 じんじんと痛みを訴える後ろ足のすぐ横に、安佐のスニーカーが転がっている。
 相当なスピードで体当たりしてきたのだろう。見事な安佐の靴投げに、倉橋は被害を受けたふくらはぎをかがんで押さえる。少し離れた先から、片足立ちした安佐が一本足で跳ねながらこちらに向かっていた。
 なんという命中率だ。
 指であたった部位をもんで立ち上がると、倉橋の視線が気になったのかバカバカしくなったらしく、安佐は片足歩行をやめて両足を使って歩き出した。靴下が汚れるのは諦めがついたらしい。目の前にやって来ると、表向いたスニーカーを屈んで履き直しながら「明日は晴れだな」と、さも平然と呟いた。
 ビルに挟まれた回廊は、今も二人きりの道だ。薄いレンガ色に列を成してくねくねと曲がりながら、時おり黒いアスファルトにぶつ切りにされながらも続いている。紆余曲折という言葉が似合う。そんな道だ。
 まるで俺たちのようだな。
 倉橋がそう思って、安佐を見やれば、「オマエだけだと思うなよ」と、立ち上がったちいさな声が隣から聞こえてきた。

 春はもう、すぐ傍にある。



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