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 耳慣れした音を掴めば、手首まで痺れた。次はバイブの振動が、早く出てやれよと急かしている。
「……ん、だ、れ」
 顔半分までかぶっていた布団を押しのける。ルリの顔に、自然光が線を引いて当たった。それを避けて、手中にある睡眠の妨害者を半開きの眼で見つける。
「……うぅー」
 気づいてからだいぶ経っているのに、爽快なメロディーは鳴きやむつもりがないらしい。着信音はいつも最大にしてあるのだ。寝起きには、耳が痛い。仕方なく、ブルブルと小刻みに震える指からボタンを探して押した。冴えきらない脳内が、眠りを欲しがるように布団を引き寄せる。
「もしもし」
 布団越しのせいか、声はくぐもって聞こえただろう。喉が渇いて掠れていた。
『ルリ? ごめん寝てた?』
「ん、寝てたよ」
 マジで寝てた。すっごい眠い。マドカじゃなかったらたぶん電話とってない。
「ごめん。でも今、電車待ってんだけど全然来なくてさ。すっごい寒いし。あ、ここまだ雪残ってるよルリ」
 謝りもそこそこに、脈略のない話が続いていた。マドカはそうした会話が得意だ。長い付き合いのルリでも、追いつけないことがままあった。寝起きだと、なおさら検討がつかず混乱してくる。
 電車? 雪? って、何県の話?
「マドカ、どこにいんの? むしろ今何時?」
「いま? 今はね、7時5分前、」
 

 春に近づいたからといって、朝方も暖かいわけではない。
 しかし、厚手のコートにマフラーを選んで出かけても、日中暑くなってうんざりするだけだ。微妙な時期なのだから、毎朝の服選びは慎重さが不可欠である。
 朝の肌寒さと昼の日光とを秤にかけた結果、ルリは朝の肌寒さをとった。準備の間、時計代わりにつけた液晶テレビの天気予報でも、今日は快晴でとても暖かいと言っていたからだ。昨今の天気予報はアテにならないことも多いが、今日はおそらく風も強くはならないだろうと、ルリも液晶画面を支持した。
 仕事がオフの日は、大抵外出ものんびりしたものだが、今日のオフは勝手が違う。いつもよりもやたら時間が早いだとか、まだ眠気も抜けていないなどとは言っていられない。いつも以上に約束を厳守しなければならない事情があったからだ。
 特に自分で言い出したからには、間に合わせないといけないだろう。相手は許してくれるだろうが、ルリの性格上それは認められなかった。いつもより心持ち急いで用意を整え、玄関ドアを開くと早足で駅に向かった。
 改札口について、時間をチェックする。思ったよりも屋外は寒い。ホームに設置された鏡で、乗せた化粧具合を確認してから、長椅子に座って軽く伸びをする。両手を寄せて息を吐けば、少し白い。ジーパンのポケットに収めた携帯電話が震えて存在を誇示しはじめた。メールはマドカからだ。送信者を見なくてもすぐわかる。
〈次でつく。5両目。〉
 駅も日曜日の朝だからか人もまばらだ。もう少し時間があれば、温かい缶コーヒーくらいは飲みたかったな、なんて思いながら、ルリは携帯電話をパチンと閉じた。


 5両目で見つけたマドカは、とても眠そうだった。
 駅と同じようにまばらの車内で、眠さを堪えながらもきょろきょろと不安げに車内を見回している。そして、ルリを見つけた途端、安心ように肩の力を抜いた。
「間に合わないかと思った」
「こんだけ時間あれば間に合うわよ、いくら女でも。なんも食べたり飲んだりする時間はなかったけど」
「ほんとだ、ちゃんと化粧してる」
「えらいでしょ」
 早い段階で、各駅停車に切り替えさせたことが勝敗の決め手といえるだろう。
 マドカが早朝に電話してきたのは、ルリの家から活用できる沿線だったから、ということらしい。首都圏の私鉄は、都心発でも終着駅は信じられないほど山奥にあることも少なくない。マドカはそういった、ルリが電車のプレートでしか見たとこのない終着駅で、早朝から電車を待っていたのだ。
 これから電車に乗ると電話越しにいったマドカに「じゃあマドカ、電車の中で会おうよ」と、切り出したのはルリだ。最初の電話を置いてすぐ、マドカが乗車駅から自分の住んでいるところまでの乗車時間を大まかに算段し直した。そして、各駅停車に乗り換えてほしいと再度電話で頼んだのである。
 急行や快速から各駅停車にすぐ乗り換えてしまえば、その間マドカはのんびりうとうとできるだろうし、自分もその電車に間に合うとふんだのだ。結果、思い通りに物事が進んだことでルリは少し満足したようにマドカの隣に座る。
「外ってまだ寒い?」
「ちょっとね。マドカが電車待ってたとこよりは、寒くないだろうけど」
 車内は暖かい。携帯電話で話していたときのマドカは本当に寒そうな声だったから、それに比べると外も暖かくなったのかもしれない。
 ルリが電話に出ないんだったらおとなしく帰宅しよう、と考えていたらしいマドカは、大学時代の友達に遭遇した際に取り付けられた飲み会の約束を、律儀に守って隣県の山奥まで行っていたらしい。そこまであちこち動き回るタイプではないのに、そんな山奥の町まで行ったとなると、よほど飲み会のメンツがよかったのだろう。もしくは、その場所がわからないままに約束を取り付けられてしまったのか、よく知る沿線の延長にあるせいで、そこまで遠くないだろうと思ってしまったのか。
 ふと、ルリはせっけんの匂いに気づく。
 もしくは、……本当は、飲み会ではないのかもしれない。
「飲みって朝までだったの?」
 なんとなく出した言葉に、探りをいれているようだ、と、ルリは我にかえって苦笑した。マドカは男だが、恋人ではない。同郷からの幼なじみだ。それこそ彼が生まれたときのことを、ルリはしっかりと覚えている。ルリの弟分ともいえる存在だった。童顔で女性的な顔立ちから、いまだに高校生以下に見られるような彼だ。性格も穏やかで、男らしさがほとんど見られないところを彼の親が心配していたくらいである。そして、変な嘘をつかないことぐらい、長いこと一緒にいるのだからよく知っている。
 案の定、マドカはポツポツと飲み会のことを話し出した。
「うん。最初は飲み屋で、二次会がまた別んとこで、そのあと友達んち。人数が気づいたらかなり増えててさ。最後のほうはなんか、たいへんなことになってたよ」
 飲み会で家飲みになって、何がたいへんになるのかは、聞かなくても予想できる。
「で、お詫びにシャワー浴びてけって、服までもらった」
 だから上着は貰いものなのだと、ジャケットからちらりと中の服を見せる。トモダチも太っ腹だ。
「つまり、大惨事だったと、」
「人も倍なら、ゲロも倍だったね」
「うっわーヤダヤダ」
 名言になりそうな言葉に、ルリもそこまでの惨事に出会ったことは今までなかったはずと思い返す。この話題が、二日酔いでぐだぐだのときに出なくてよかった。酒好きの彼女は、昨日おとなしく飲んでなかった自分を褒めた。
「飲まれんなら飲むなってね」
「それ、」
 マドカが笑った。
「ルリがいっても、マジ説得力ねえから」


 少し街に出てからマドカの家に行くということで、今日の予定は一致した。
 ルリとしては何でもよかったわけだが、マドカは家に戻ってもう一度風呂にはいり直したいらしい。風呂はいってる間に、私寝てるかもよ? というと、マドカに「いいよ。でも前読んでたマンガの続き読み出したら、寝ないよルリは」と、行動パターンを丸々と返された。「オレはたぶん寝るけど」と追加したマドカのほうが、確かにルリよりも睡眠時間は足りていない。
 現に、マドカはルリにすっかりもたれたまま、気持ちよさそうに眠っている。電車がきついブレーキをかけたところで、起きようともしなかったほどの熟睡ぶりだ。すでに、私鉄から国鉄に乗り換えている。席を確保してすぐ、二、三言で途切れた会話の直後から穏やかな寝息が聞こえた。寄り添うように座ってしまえば身体を預けるのは容易い。
 少し重みのある右半身に、マドカの窮屈そうな左腕。マドカは男性平均身長に少し届かず、体重もルリと同じくらいだ。ルリにとって、マドカより越えない体重を維持することは絶対条件のひとつだった。彼の重さを感じながら、久しぶりにマドカの家で測量しようと決意する。私鉄よりも暖房の効いた車内だ。もしかしたら陽差しが強くなったせいのかもしれない。そういえば、扉が開いても冷えた風が届くこともなくなった。
 窓から、川、遊園地、野球ドーム、マドカの通う大学院、と、風景の流れをルリが眺めてつかの間、携帯電話が震えた。彼を起こさないように、携帯電話を取り出して液晶を開ける。メール着信の表示だ。不規則な自分の欠勤日をどこから聞きつけたのかは知らないが、知り合いからのお誘いメールが手軽な絵文字も交えて鮮やかな色彩を散らしていた。夜からの待ち合わせを提案していたけれど、断りのメールを打つ。マドカといるからには、夕飯もマドカと一緒なのだろう。同郷時代から、そのパターンが自然なのだ。
 電車が、目的の駅に滑り込んでいく。ルリはあまりに気持ちよさそうに眠るマドカを、一瞬起こしたくはないと思った。しかし、そうするともできず、彼女は起き上がるついでに無防備な左手を手に取った。自分より、少しだけ冷たく感じた。
 乗車扉が開く寸前に、彼の手を引っ張る。
「マドカ、着いたよ」
 他力で起こされ、マドカは、ハッとしたように目を覚ました。
「え? もう着いた?」
「そうよ、早く閉まっちゃう」
 手を繋いだまま、二人は急いで電車を降りた。
 降りてから、マドカはつないだ手を目にした。そして、「ルリの手って、あったかいな」と、目を擦りながら子どものように呟く。場所や年月を経ても変わらない彼の言葉の響きを、くすぐったく感じてルリは笑った。 



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