* さいごの朝 *


 私のために、書き残しておく。

 長いこと、私には思い返さずにはいられない出来事がある。叔母が亡くなったときのことだ。私は小学校四年生で、当時広島に住んでいた。彼女は、交通事故で死んだ。あっという間だった。
 あの一報は、朝に届いた。楽天家の母親が、号泣しながら旅の支度をしていたことを覚えている。私と弟は学校に行く前の起き抜けで、「叔母が出社前に事故に遭って、危篤だ」という事実を受け入れられずにいた。それまで生きてきていて一度も、身近な人の死に接したことがなかったのだ。
 叔母は、父の妹だった。40すぎの独身であったはずだ。彼女は両親とともに、生まれたときから東京で暮らしていた。だから、一刻も早く広島から東京へ向かわなければならなかったのだ。あのときは、おそらく新幹線を使っていたのだと思う。日暮れの頃に東京に着いて、隣接区の救急病院に向かった。携帯電話もない時代だったから、母親の不安は計り知れなかったはずだ。
 私たち姉弟は、そんな母親に連れられるがまま、久方ぶりの故郷に降り立った。そして、病院の待合い室で永く置き去りにされた。状況は、想像されていたものよりも、最悪だった。医師に事情を説明されて帰ってきた母から聞いたことは、頭蓋骨が骨折していることと、耳から脳がでてきてしまっていること、意識がまったく戻らないこと、もし延命できるとしても植物人間を覚悟しなければならないこと。小学校四年生の私に、それをすべて咀嚼できるはずがない。生きる残れる可能性が少ないということだけは、すぐわかった。
 実感がなかった。叔母の面会は最後まで大人たちに制されていたからだ。私はこの事故が起こる数ヶ月前か一年、少なくとも二年前、東京の祖父母宅に長居していたはずで、同居していた叔母とも会っていたはずだが、記憶は薄い。彼女はずっと仕事をしていたし、私も物心がついた気恥ずかしさで彼女との距離をはかっていた。どちらにせよ、その薄い記憶が、私にとって生前の叔母の最後の記憶だ。
 薄情なものだ、と、小学四年生でありながら、そのときの私は思っていた。私は親戚中で一番早く生まれた子供だった。上に兄や姉と呼べる相手はおらず、その代わりになったのが父母の独身でいた兄弟たちだった。とりわけ父方の東京へ帰郷するときは、事故に遭った叔母が遊んでくれた。だから、小学校にあがるよりも前、一緒に散々遊んでくれた頃の記憶のほうが今も鮮明だ。
 一方、小学四年生あたりはすっかり疎遠になっていた。
 あれだけ一緒に遊んでくれたのに、疎遠になったと途端に印象が薄れるなんて、私は実に薄情な人間だと、幼ながらに思っていた。けれど、私にはどうすることもできなかった。連れていた弟はまだ幼く、一時の感情で大人たちを困らせるわけにはいかないとわかっていた。
 中学生くらいであれば、大人たちに加わって説明を受けることや、それこそ管や蘇生装置の中しか生きていけなくなった叔母の姿を見舞うことができたかもしれない。それは叶わず、第一、当時の私には受け入れられなかっただろう。親戚一同の判断は正しかったと思う。私はただ、子供の気ままさで、大人たちが悲しむ姿を眺めていた。親戚の皆が、男も女も関係なく、こんなに悲しい顔をして、泣いているのを、この時期以外でまだ見たことがない。
 結局、叔母は亡くなった。脳死の判定がでたのだ。母親は、最後の病室に向かう前に、蘇生装置をはずすと、私にいった。
 それは間違いなく死を意味していた。一時間以内に、叔母が死ぬ。私たちは、母親たちが集中治療室に行っている間、何をすることなく受付のソファに座って待っていた。病院の強くない蛍光灯の中で、弟と言葉少なく話していたと思う。それ以外、できることがなかった。悲しみながら、慌ただしく行き交う大人たちの姿を見るだけで、叔母の最期の日々は幕を閉じていた。私はとうとう彼女の生と死の境目を知ることなく、祖父母の住む家に帰った。
 彼女と対面したのは、傷もすべて隠され、生前のままに戻された後だ。私たち姉弟と従妹は、どこに傷があるのか探そうとしたが止めにした。ひどい状態だったというおそらく頭部が、どれだけひどい損傷だったのかは知らない。どれだけ葬式のために修復したかも知らない。今や知りたいとも思わない。親戚たちが惨状を教えなかったことは、彼らなりの、子供たちにたいする優しさと精一杯の配慮だったと思うからだ。
 長い救急病院での待ち時間にくらべ、葬式は瞬く間に終わった。もう起きない彼女へ会いに来る人々は驚くほど多く、葬式が閉まる前の食事会もにぎやかだった。退屈とささやかな楽しみを繰り返していたが、私は最早ただの子供ではなくなっていた。小学生で、まだ到底知らなくていいことを悟ってしまっていた。
 人が死んでいくときは誰もが独りで、結局孤独から逃れようもない。
 叔母の死に関して、何度も呪いのように思い返す葬式の場面がある。本当に最期の、彼女が火葬に向かう場面だ。
 死んだ叔母の顔を見ても、あまり実感のわかない私であろうと、火葬場はちいさな恐怖心を生み出していた。叔母がここで燃やされるのだ。実感がなくても、燃やされて灰になるいうことは、叔母がこの世からいなくなることを決定づけていた。
 一生忘れない。叔母が焼き場に押し込められた瞬間、私の母親が号泣しながらその焼えてゆく棺桶の外に駆け寄り、すがりながら叫んだのだ。


 独りになっちゃう。あんなに独りが嫌いだった××さんが、本当に独りになっちゃう!

 死ぬときは、独りきりなのだ。
 私は、叔母の死で一度も泣かなかった。けれどただ一度だけ、泣くものかと思った場面だった。泣いたら負けのような気すらしていた。結局、人が逝くときは独りきりなのだ。叔母の死を通して、人間が最期に至る逃れようもない絶対的な真理を知った。生きている限り、死に逃れようもなく、同時に孤独から逃れようもない。
 それはひとつの絶望だった。叔母が死んだ春をすぎても、その事実は延々と私の心を巣食っていた。すべてが受け入れられなかった。そして、死がとてつもない恐怖になった。
 寝ることが怖くなった。深夜になると、何度も親や弟が生きているかどうか確認するようにもなった。死というものが常にそばにあること、人は簡単に死ぬものだと知ってしまっていた。寝ていると思ったら死んでいた、ということが起きるかもしれないという強迫観念に長いこと襲われていた。
 この出来事は、私の人生や性格の根底に根付いてしまっていた。やがて思春期に到達して、哲学や心理学に深い関心を持って学業もその方面に進んだ。社会人になっても、叔母の死は、私の心に深く突き刺さったままだった。一〇年経とうが、極力会話になることを避けたい事柄だった。彼女に苦手意識を持っていた。彼女から、死の概念を教わったことを、私は心のどこかで恨んでいた。それだけ、私は死いうものにとりつかれていた。その中で、哲学には、同じような仲間というべき哲学者や書物がたくさんあった。安心できる場所がようやく見つけられて、その世界に没頭していたこともあった。理解するだけでも、長い時間を要したのだ。


 そのさいごの朝は、何の変哲もない朝だった。
 彼女の死から、一五年は経っていた。
 私はいつものように、ベッドでまどろんでいた。寝ているか寝ていないかの境が、緩い日光の中で揺れ動いていた。当時一人暮らしだった手前、仕事以外で時間に拘束されることはあまりなかった。午前のまどろみは、贅沢なひとときでもあり、私にとっては夢うつつでありながら、考えごとも冴える時間帯だった。
 その独りきりの部屋で、声が聞こえた。
 突然耳元で聞こえて、私は身を固めたことを覚えている。私しかいない部屋で、誰かの声が聞こえるというのは、おかしい話だ。
 しかし、私はその声と言葉を気のせいにすることはできなかった。
「ごめんね」
 その声は、忘れもしない叔母の声だった。
 怪奇現象か幻聴なのか、一瞬のことだったから、どちらかなのかはわからない。しかし、私にとって、そんなことはどうでもよかった。私は彼女の言葉で、はじめて自分のしていたことに気づいた。
 私は、自分の抱いてしまった陰を、どこかで彼女のせいにしていた。その事実に、私はそのときようやく気がついたのだ。一五年の月日が経過していた。無意識に長い間、勝手な言いがかりを彼女に抱いていたのだ。
 けれど、彼女は謝った。
 私は、彼女の声で謝らせてしまったのだ。
 そんな言葉を、言わせたかったんじゃない。事故死してしまった叔母は、何も悪くなかった。でも、謝ってほしかったのかもしれない。私は一五年も彼女の死に縛られていたのだ。しかし、幻聴でも実際に耳にして、それが本当に愚かなことだと思い知った。
「そんな言葉を、言わせたかったんじゃない」
 声が聞けたのであれば、もっと違う言葉が聞きたかった。私は、目頭をおさえながらベッドの中で何度も謝った。届かなくても、あれが幻聴だったとしても、それはどうでもいい。想いをかたちにしなければ通じないのだ。


 皮肉なことに、あの言わせてしまった一言で、長く突き刺さっていた、たくさんの醜い心の棘が抜け落ちた。遠い春の出来事は、トラウマではなくなっていた。
 あの朝の出来事が、虚構だったとしてもかまわない。嘘だろうと幻聴だろうと、あの一言で、私は確かに救われたのだ。
 けれど、幻聴ならば、そのほうがいいと今でも思っている。叔母が霊体になって言った言葉が「ごめんね」だなんて、そんなのは本気で居たたまれない。陳謝してもしきれない。同時に、感謝してもしきれない。実際、この出来事が起こるまで、彼女へは感謝するどころか、なるべく避けたい存在だった。今は違う。
 本当に、あなたのおかげでわかったことと救われたことがあるのだ、と、心から思っている。

 あのときのことは、私にとってのさいごの朝だ。
 だから、ただ私のために書き残しておく。



... back