* 悲しき共感性 *


「おまえ、絵がうまいんだなあ」
 座るチェアの肩越しから声が聞こえ、高梨は振り返った。同期の仕事仲間、狩野がPC画面に釘付けされている。デスクに二台置かれているもののひとつだ。もう片方は、データ処理に時間をかけているため、高梨はそっとしておいていた。下手に触れば画面がかたまり、データ処理を再び一からやり直さなければならなくなるからだ。仕事を増やすようなことだけは避けたい。
 時間のかかるデータ処理がはじまったときの高梨は、たいてい別の案件にあたるか、息抜きの時間としていた。今日は容量の大きいデータ送信が多い。頭を使わなくていいが、時間がかかる仕事だ。データ送信が無事完了するまでは見届けなければならず、デスクチェアから離れることができなかった。
 つい、だしたくなる手を押さえるのには、残された側のPCに接するのがいい。ハードの中に、PCソフトのひとつである、イラストレーターをインストールしていたことから、久しぶりに絵を描くことにした。その最中を通りすがりの同僚が見つけたのである。
 高梨は肩をすくめた。
「そうでもないだろ。イラレあんま使ったことねーし、」
 題材を考えるのが面倒だから、手元にあった三色ボールペンを被写体に選んだ。自分の納得がいく色をつくりだすのは、デジタルでは難しいと高梨が思っていたところだ。調整した色を試しにあわせて、何か違うと頭の中でうなっていた。
「あんま使ったことなくてコレかよ」
「こんなペン一本くらいの被写体なら、わけないよ。たとえばさ、」
 感嘆の声をあげながらまじまじと見続ける狩野に、高梨は少し恥ずかしくなって早口のままPC接続の専用ペンを走らせた。納得のいかない習作を見られると、どうにも情けない気持ちになってくる。
 走らせたペンは、一瞬何を描こうか躊躇したが、デスク上に飾ってあったポストカードの景色を選んだ。写真の情景は、空の青と住居の白塗りが対比となって美しいというよりも、眩しい。トゥルッリと呼ばれる、南イタリアの伝統的でユニークな住居群だ。大学時代の友人が先日、旅行ついでにこの絵はがきを高梨の家ではなく、会社の住所に送りつけてきた。
 さらさらと専用パットにペンを動かす。沈黙の間に、画面へ小人の家にも似た住居がかたちどられていくと、狩野はおおっと声をあげた。
「ほんとにすげーわ。おまえにこんな才能があったとはな、絵師になれるんじゃねーか」
 毎日行なう業務はプログラミングが主だから、画力はそこまで必要とされない。デザインセンスがあれば有利に働く程度だ。そこに高梨は魅力を感じて、この職を選んだ。第一、イラストレーターになるようなセンスは、絵の巧い下手とは別の次元だ。高梨は正統派の絵画が専門だった。
「人間は得意じゃないんだ。それに、デジタルよりアナログのほうが好きだしな。一応芸大に通ってたし」
 大学名を滑らせて、高梨は手をとめた。習作その二は、ボールペンよりも当時のタッチに雰囲気が似ていた。
 大学在学中は、自分のもつ画力に自信があった。人々にも賞賛された。自分は、絵画で食っていくのだと本気で思っていたのだ。
「マジかよ。油絵とか?」
 狩野の顔を見なくても、声で興味津々であることがわかる。人事担当や社長以外に知られていない経歴だ。うっかりしていたと思いながら、無理に隠し通すほうが労力を使うと考えた高梨は、彼の言葉にうなずいた。
「そう、油絵だな」
 高梨は、ある日を境に描くことをやめた。
 今住んでいる借家に、絵を描く道具は一切おいていない。苦い記憶だが、思い出すことはもう辛くなくなってきている。
 この話を人に話すのは、何年ぶりだろうと思いながら、彼はPCを見た。データ送信が四つまで終わり、五つ目に差し掛かろうとしている。旧型なのにいつも健気に動いてくれる。
「いいセンまで、いったんだけどな」
「すげーな。なんかの賞とったりした?」
「そこそこのはいくつか。で、卒業制作の後に描いた絵だったか、そのギョーカイでけっこう評価されたりもしてな」
 彼は、そう言いながらイラストレーターソフトを保存することなく終了させて、へえーと相槌を打つ狩野を見上げた。
「ところがその絵がさ、死んだ有名な画家の小品に酷似してたんだよ」
 不穏な話の行方に、狩野の顔が微妙なものになっていく。鮮やかな表情の動きに、高梨は苦笑した。
「パクりじゃねーよ。その似てた絵画は、俺がその絵を描いた後に発見されたものだからな。だからさ、その画家の生まれ変わりかもって有頂天になったわけよ。オレも当時大学生だったし」
「………ああ、」
「でも、周囲は逆にパクリだと思ったんじゃねーの。贔屓にしてくれる先生も俺を遠ざけるようになったし、所詮こんなもんかって思ったよ」
 あの出来事によって、周囲の人間たちが正当に自分を評価しないことを思い知ったのだ。贋作でないことは、確かだった。親しかった教授や専門家も、真似て描いたわけではないことを信じてくれた。しかし、彼らは高梨を擁護することはなかった。風評から保身に呈することを選んだのだ。
 高梨は、そんな彼らの姿に失望を通り越した。もしかしたら、はじめから正当な評価などされていなかったのかもしれないとまで思った。絵を描くことが途端にバカバカしくなった。
 描いたところで、正当な評価がされなければ、表舞台に絵画を差し出す意味がない。絞り出した表現を、都合の良いように目上の人間たちが持ち上げたり叩きのめしたりする様を、これ以上見ていたくなかった。嫌悪した。
「キツイなそれ」
 狩野が眉を寄せてつぶやいた。
「キツかったけど、もう今更だな」
 社会にでてしまえば、それに似た状況はたくさん訪れる。資本主義の原理だ。皆どこかで打算をこめて、人を評価したり切り捨てたりしているのだ。自分が消費されてしまうことをおそれては、社会で生きていけない。
 そう、わかっていても、絵画に対してだけは許せなかった。高梨にとって絵画だけは聖域だった。
 仮に許せたとして、絵画を描き続けていたところで、実りは少なかっただろう。嘘のレッテルという名のフィルターを通して批評され続ける可能性もあった上、あの当時巣くった疑心暗鬼の塊から逃れないまま年を重ねていたのかもしれない。絵を捨てた選択を、高梨は後悔していなかった。
 パーテーションで大まかに区切られたフロアは広い。至るところでキーボードを叩く音がしていた。
「悪いな、なんか」
 勝手に高梨が披露した話であるにも関わらず、狩野は申し訳ない気持ちを抱いたようだ。お人好しのところがある彼は、次に切り出す言葉を考えているのか。
「いいよ。こっちから勝手に話したことだ」
 ピコン。データ処理がすべて終わった音がして、デスクに向き直る。過去に記憶を飛ばしすぎていたせいか、仕事をしていたPCのことを忘れていた。
「あ、俺も書類、」
 狩野も今が仕事中であることを思い出したようだ。軽い挨拶で場を離れようとする彼を、高梨が引き留めた。
「待てよ、これから忙しくなる?」
「いや、今日は暇だよ。書類整理ぐらいで」
 今日終えなきゃいけないことでもないから。狩野の話す声を聞きながら、慣れた指先で活動的なPCをオフにする。また後で大がかりなデータ処理に使うのだから、今の内に休息させておいたほうがいい。もう片方のPCは外付けのハードディスクを足しているものの、メモリが幾分足らず、両刀で仕事ができないのだ。朝からフルで重労働をさせているPCの電源を落としたことで、狩野は彼の思うことに少し気づいたらしい。
「一服どうよ」
 立ち上がった高梨が、軽く背を伸ばしながら狩野にいった。
「いいけど、おごれってか」
 彼の言葉に、高梨は肩をすくめた。
「まさか。もう行ける?」
「ちょっと待て、デスク覗いてから」
 狩野は小走りにデスクへ戻り、すぐオーケーの返事を出す。その様子を見とめて、高梨は出入り口へ足を向けた。


「先週抱えてたでかいプロジェクトが終わって、今週は暇なんだよ」
「つかの間の休息ってやつか。忙しさにムラあるからなあ、この職」
 比較的高梨も仕事の案件が落ち着いているせいか、狩野の発言にうらやましさを感じることなく返した。地上へ降りるために、エレベーターを使う。自動販売機の設置された休憩所でもよかったが、あそこは喫煙ルームの装いも兼ねており、ノースモーカーの高梨は好きではなかった。高梨の示す一服は、外のカフェでアイスコーヒーを飲むことだ。上司にも公認されている。
「来月から、忙しくなるんだよな、また」
「ああ、そうだ。次のプロジェクトは狩野と一緒みたいだぜ」
「え、マジ? はじめて聞いたな、それ」
 休憩ポイントと新たな仕事の話を交ぜながら、屋外の景色へ足を踏み出す。空調設備の整ったオフィスでは得られない風の動きが二人に巻き付いた。街路樹の若葉が、空の青さに生えている。梅雨前の平日をこうして出歩くのは、勤め人の高梨にとってなんとも得難い贅沢だ。今日は、空が一際青い。
 真っ青な空で、先ほど目に焼き付けたばかりのポストカードを思い出した。イタリアから届けられた葉書だというのに、差出人は高梨にまた絵を描くことをすすめていた。同大学卒の友人だ。追記として、こう書かれてあった。
『おまえんとこの教授に会った。また絵を描いてほしいって。どう?』
 問われても困る話だ。教授は、あの当時自らの保身に走った。高梨を誰よりも裏切った人間だった。彼は、この後におよんで今もその選択を後悔しているのか。そう考えると、当時身を巣くった黒い気持ちがよみがえりそうになる。
 もう、俺には関係ないことだ。
 冷静さを取り戻そうと前を見据えた高梨に、狩野が「なあ、」と声をかけた。
「なんだよ。財布忘れたのか」
 少しからかい口をにじませていえば、狩野は曖昧な合図で並ぶ木々に目を移した。かすかな躊躇いがあった。
「俺さ、」
「なんだよ」
「おまえはさ、この職があってると思う」
 普段より音量を下げた声に、なんだまだ気にしているのか、と、高梨は思った。終わった話なのだ。未練など、とうに失せてしまった。
 高梨は素直にうなずいた。自分の愛した表現方法が否定され、鬱積した日々がよみがえる。描くという表現を捨てたことで、自信を取り戻した。絵を捨てたことによって、自らの視野が広がったのだ。
 いつか……、本当にわだかまりがなくなったとき、また趣味として絵を描きはじめることはあるかもしれない。しかし、当時のような力強い情熱を絵にたいして持ち合わせることはないだろう。
 今もこの先も描くことはない。描く必要がないのだ。そのことに、後悔はない。
「俺も、そう思うよ」
 彼は初夏に似たの道ばたで、前を見つめてそう応えた。



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