* フェルマータゲート *


 律は小走りしたまま、香ばしいにおいのする店の側を過ぎる。美味しいと近所で評判のたこ焼き屋だ。つい先ほどまで、彼女はこの焼きたてのにおいに誘われていたが、今や見向きもする気も起きない。
 休日の少しだけ賑わう通りを、彼女は駆け足で引き返していた。目指すのは、自宅部屋のある低層マンションだ。この商店街のはずれた、交差点の向こうにある。一Kの部屋は住宅街の一角にあって、北向きながら住み心地が良い。律は就職してからずっと住んでいる、彼女の小さなお城だ。
 五月晴れに恵まれた土曜日の午後は、おそらく梅雨前のとても貴重な一日だった。いつも休日になれば響く、子どもたちの声が今日は少ない。アクティブなファミリーならば、一泊旅行やドライブに出かけるのだろう。絶好の行楽日であることは、誰の目からも明らかだった。
 この気候に、なぜ予定をいれておかなかったんだろう。律自身も起床したときから、そう、少し後悔していた。こういう日は外出がとても似合う。
 それは、都心に出て友達とカフェに赴き座談会やカラオケ大会をするといった、いつもの楽しみ方を示すものではなかった。遊園地や日帰り温泉に出かけるだとか、鎌倉や川越などの関東近郊観光へ赴くだとか、より広範囲への外出が似合っていた。それに、私鉄から一本で都心に行けるとはいえ、今日のような日和に繁華街へ出ても、人の多さに負けてうんざりするだけだ。
 それに律は、休日の午前中を二度寝という贅沢で楽しむことが好きだった。何もない休日にしかできない、彼女にとってとびきりの贅沢だ。その通り、本日も気持ちよく二度寝を重ねた。目が覚めた時点で昼時前だったのだから、レジャー計画を立ててもすでに遅い。それに郊外へ出向くなら、一人よりも友達と行ったほうが断然楽しいだろう。
 今日一日、律はのんびり過ごすことに決めていた。翌日は大学時代の友人たちと会う約束をしている。会話は相変わらず、恋愛事で大方の内容を占めるのだろう。その中のひとりが見つけたという、銀座のカフェテリアに皆で繰り出す予定だ。日曜日は確実に楽しめそうな気がしたから、土曜日は近所でゆっくりしようと思ったのだ。
 その彼女は今、小走りに商店街を進んでいる。私鉄駅まで伸びるやや長い商店街の並びを、律はすっかり覚えてしまった。この商店街が近隣のスーパーに圧されていないのは、総菜屋、パン屋、ドラッグストアや花屋といった、地域に密着した店が軒を連ねているからだろう。この一帯は、昔ながら住んでいる家庭も多い一方で、一人暮らし用のマンションやアパートも多い。各駅停車しか止まらず、通勤のときは多少苦労するが、一本で都心に行けるのだから、利便が良いことに変わりはない。
 普段の休日より人手は少ない午後の通りであったが、道自体は広くなかった。交差点の手前で、律はいつも通り家族連れに阻まれた。子ども二人を連れた若い家族だ。仕方なく、彼女は歩行速度を落とす。
 母親が引くベビーカーの後ろ手に、総菜屋と八百屋のビニール袋が下がっていた。昼食後の買い出しを兼ねた散歩なのだろう。律は顔をあげて歩行者用信号機を見た。赤ならば、急ぐ必要はない。
 家族を後ろからそうっと避け、歩道の前で止まった。律もドラッグストアと古本屋の袋をミニバッグとまとめて下げている。立ち並んで隣を見下ろせば、父親と手をつなぐ男の子と目があった。律は口元をゆるめる。男の子は、少し照れたような素振りで視線を落とし、律の手に下げられた青地の袋を見つめていた。中のCDケースが、ビニールに透けてカサッと揺れた。信号が変わる。
 律は道路を一時停車するバイクや車を確認して、ファミリーよりも先に白線を踏み込んだ。道の反対側には、この駅周辺で一番近いコンビニエンスストアが駐車場を広げて営業している。
 深夜帰宅の前に度々お世話になるスポットだが、今日は必要なかった。のどかな午後なのだ。自分のための休日に、家路を急ぐ必要もない。そうわかっていても、律は早く家に戻りたかった。
 コンビニエンスストアの宣伝旗に目をやると、自動ドアから黒ずくめの女の子が出てきた。一〇代くらいだろうか。身体の線が細く背が高い。底上げのブーツを履いているせいで、身長が高く見えるのだ。短パンの側面には、銀のチェーンが飾りの一部としてかけられている。タイツは黒地の柄物だ。肩から下げているバッグにオーヴの模様が施されている。律が昔一番好きだった、英国ブランドものだ。
 携帯電話を見ていた若い彼女は、色の変わりそうな信号機に慌てて横断歩道を渡っていく。律は足をゆるめ、つい振り返ってその姿を見た。女の子は上着も黒い長袖だ。おそらく、その中に重ねている衣服のはタンクトップや動きやすいシャツに違いない。この時間からの外出だと、音楽アーティストのイベントやライヴに行くのだろう。その場合のジャンルも、律はなんとなく検討をつけることができた。今時のスタイルなのに、郷愁を誘う。
 家に早く帰りたい気持ちが募って、彼女は前方を見やった。コンビニエンスストアを過ぎた後の二車線は、車の通りがなく真っ直ぐだ。一軒家と低層の建物が一帯を占めるせいで、圧迫感はない。この付近で、一番背の高い緑のボンネットのところが中学校だった。休日には少年サッカークラブの子たちが元気良く駆け回っている。
 まばらにある人の往来を彼女は抜ける。ふたつ目の十字路の曲がってから、一〇メートルもせずに白地のマンションエントランスが右手に現れた。律はその中へ入りながら、ジーンズのポケットから鍵を取り出す。階段を一段飛びして上がる。家のドア前に着いて、鍵を開けた。
 靴を脱いで、キッチンとバスルームを通り過ぎると、ベッドに荷物を投げ置いた。ひとまず、温かい紅茶をつくろうとキッチンまで引き返す。ポットに火をかけていると、携帯電話のメール着信が鳴った。律が部屋に戻ってちいさなバッグをあさる。液晶画面には、明日集合の場所と時間が記されていた。手早くオーケーの返事をして、携帯電話を畳む。その指で青地の袋から、CDを取り出した。古本屋の併設コーナーに、処分価格で売られていた。
 律は、それを両手で持ったまま立ち尽くしていた。
 じっと見つめても、それは単なるCDでしかない。しかし、かたちだけではないものが、律の中に詰まっていた。
 ポットのうなる音で、彼女は慌ててキッチンに戻った。
 数種ある紅茶の箱から、オレンジフレーバーのパックを選ぶ。五月晴れに似合う香りがほしかった。ティーポットに入れ、熱湯をそそぎ込む。すぐに、柑橘系のさわやかな香りが鼻腔をくすぐった。
 マグカップとともに、律は再度部屋へ足を向けた。脚の短いテーブルにそれらを置いて、もう一度CDケースを手にする。テレビの隣にあるCDデッキの埃を払い電源を点してから、CDのかたちを出す。デッキは最近使っていない代物だが、スピーカーは低音重視を求め値段はそれなりにした。ベースやドラムがしっかり聴こえるものでなければ嫌だったのだ。このデッキは、今から聴くサウンドにはとりわけ良く作用する。律は、確信をもってディスクを指ではずした。
 滑り込ませたCDが軽快に反応を見せる。彼女はボリュームをあげた。ドラムの音を皮切りに、ギターが重なる。ロックサウンドがはじまった。
 律は、その旋律に身体を止めた。
 目を閉じれば、あの頃が戻るようだった。
 歌う男性ボーカルとその歌詞に耳をすませる。照明がキラキラ輝いていたステージが真っ先に思い浮かぶ。あれが、最後のときだった。このバンドの最後のシーンだった。
 ちいさく口ずさめば、忘れていたはずの言葉は簡単によみがえった。彼の声にあわせれば、その歌詞が身に染みた。律より年上だった彼らの歌だ。このバンドがなくなって、長い時が過ぎた。そして律は大人になって、改めてその歌詞が身に染みた。
 高校、大学と、大好きだったバンドだった。最早、身を捧げていたといっていい。7年以上、律の人生はこのバンド中心に動いていたのだ。
 新譜が出ればショップの入荷日に買い、彼らの出ていたインタビュー雑誌は、写真撮りおろしといわれれば、とりあえず写真映りを確認して購入した。切り抜きファイルも細かくつくっていた。ライヴの物販グッズも当然のように買い集め、さながらコレクターのようだった。ツアーを重ねれば、グッズ収納場所にも苦慮した。
 そして、彼らのライヴがあれば、どの土地だろうと時間とお金さえ都合がつけば観に行った。ライヴは生モノなのだ。同じバンドでセットリストであっても、一度として同じ内容はない。生演奏のおもしろさにハマッてから、律はいろんなバンドを観るようになった。しかし、いつもこのバンドに還っていったのだ。
 律にとって、このバンドは青春時代の帰る場所だった。
「やっぱ、いい音してるなあ」
 独り言が曲の間奏で滑り落ちた。
 懐かしい、だけでは、言い表せられない気持ちがこみ上げていた。脳に刷り込まれたように、次の旋律が、音がわかる。ジャズベースにも似た低音と、シンプルで少し癖のあるドラムを本当に愛していたのだ。
 十三曲を内包するCDアルバムだ。律が一番好きだったアルバムだった。このCDが発売された年に、彼女は大学進学から上京した。東京に住むと決めたのは、好きなバンドの拠点が関東だったからだ。そうした本心は今だに誰も知らない。浅はかな考えからの上京だったが、今思えばキッカケはどうであれ、その判断は間違っていなかった、と、今も律は思っている。
 もう、とうにこのバンドはいない。時間が経ちすぎて、このメンバーがどうしているのかも律は知らない。解散後、彼らを追うことをしなかった。就職にあわせた引っ越しで、集めた大部分は処分して、捨てられなかったモノは実家の倉庫に眠っている。律の部屋に、このバンドとの思い出を語るような代物は、ひとつも遺されていなかった。
 年月の流れに背を押され、その存在すら忘れかけていた。だから地元の商店街の一角で、このCDが売られていたことに驚いたのだ。人々の目にも留められず、それは古本屋の片隅にあった。処分セールのワゴンのなかに埋もれていた。傷心が癒えていない頃に見つけていたら、ショックで数日が憂鬱なものになっていたのだろう。今は逆だ。愛しさが芽生えて、つい手を伸ばした。
 律は立ち尽くしていたことに気づく。音を聴きながら折り畳み式のミニテーブルへ回った。カラフルな座布団に座って、マグカップに紅茶を注ぐ。柑橘系の香りに口元を緩ませながら、リモコンでボリュームをあげた。
 曲順も律は覚えている。三曲目にはいっていた。ミディアムテンポで重ねたギターが、今もきれいにメロディを成した。最後のライヴのとき、この曲を耳にして律は号泣したのだ。長く観てきたバンドだ。メンバーたちのこともすごく好きだった。つかず離れずのファンとバンドの関係だったが、最後の数年は、どこかファミリーにも近い集合体になっていた。惰性の部分も生まれていた。
 解散の言葉が出てきたときは、大きな驚きも悲しみも生まれなかった。一生このままコンスタントに活動していくのだろうと思った一方で、ずっとこのままというわけにも行かないだろうとも思っていた。依存に近い情熱もあったが、間を読む冷静さも律は長い時間のなかで身につけていた。だからこそ、ひたむきに七年以上もひとつのバンドを見つめることができたのだ。彼女はそして、創作の泉にも限界があることも知っていた。作曲の限界は悲しいことだが、バンドの幕を降ろす一番の理由になる。
 解散ライヴの日が来ることを、律は恐れなかった。むしろ当日まで実感がなかった。心から好きなバンドが解散することなど、はじめてだったからだ。それほどショックは受けていないことは、律自身にとっても少し違和感があったくらいだ。
 解散ライヴ当日は、目一杯楽しむことにしていた。泣くつもりはなかった。しかし、今流れたこのアルバムの三曲目だけは泣いたのだ。律自身が驚くほど、涙が出た。その曲が収録されたアルバムの発売年は、受験前後から知っている人のほとんどいない街での大学生活と、生活環境が一変した時期と重なっていた。その日々のなかで、支えになった一曲だった。このアルバムで、一番繰り返し聴いた曲だ。
 今の律はもう、繰り返さずに聴いていた。追憶は越えていた。当時の依存にも似た激しい感情は、もう思い出せない。時間が経ちすぎてしまったのだ。このバンドにたいしての情熱は、ラストライヴのときから歩みを止めてしまった。
 この胸には、純粋に好きだった気持ちしか残っていない。ただどうしようもなく、この音が、リズムが、旋律が好きだった。ライヴ時に得る刹那的な解放感は、本来の自分を取り戻す大切な感覚だった。あの空間を愛していた。ファン特有のいがみ合いやその他もろもろ、良い思い出にできない部分もあったが、過去となればすべて儚く美しいものに変わる。律にとって、ある意味で一番輝いていた時期だった。
 五曲目が過ぎていた。今、律の心にあるのは感謝だけだ。このバンドを通じて、お金は湯水のごとくなくなっていったが、その分たくさんのものを得た。ロックだけでなく、音楽というもの自体に興味を持てたし、上京するキッカケもつくってくれた。旅行の楽しさも知ったし、ファッションやメイクにも気を配るようになった。ゴシックやロリータ服と呼ばれるファッションセンスは、今でも嫌いではない。偏見なく自分のファッションに応用して、友人たちに褒められることもある。
 なによりこのバンドを通じて、東京や地方都市の今まで接点がないのような人たちと友達になれたのだ。それらは今も残る財産だった。間接的だが、このバンドが与えてくれたかけがえのないものだ。
 大学時代の面影がない部屋で、アルバムのサウンドは折り返し地点を過ぎていく。このバンドのことを、覚えている人たちはどれだけいるのだろう。今聴いても良い歌ばかりだと律は思う。もっと世間に知られてほしかった。少しだけ悔しい思いもある。同時に、久しぶりに聴いても良いと思えるバンドを、最後まで愛せたことを誇りに思うのだ。
 長い時間、律は耳を澄ましていた。
 ラストの曲はバラードだ。元気なサウンドや激しい暴れ系の曲も得意なバンドだったが、バラードは秀逸だった。やさしい旋律だ。本当に、やさしい音だった。
 中古ショップで見つけたのは、ちいさな運命だった。きっと、また何年か経ってこのアルバムを聴いても、同じように感じるだろう。改めて律は思う。このバンドが好きだ。今はもうないだとか、音が古いだとかはどうでもいい。
 聴くたびに、何度もこの音に恋をするのだ。
 律はベッドに置いたままであった携帯電話を手繰り寄せた。その際のレースカーテンに、淡い光が差している。彼女は携帯電話のボタンを押して、登録された名前と番号を探す。流れるサウンドが終わる前に携帯電話を耳にあてた。
 無性に会いたいと思う友人たちがいた。もう一〇年以上になるつきあいだ。言葉にしなくてもいい。共有している記憶がある。それはつながっているかぎり、永遠の場所だ。
「もしもし、ユリちゃん。どっかライヴの遠征中? ……うん、東京にいるなら、今からでも夜でも空いてない? なんか会いたいなーって思って……え、マジ、やった! 行く行く、行くよそっち」
 満面の笑みをたたえて律が、うなずいて外を見た。晴れの景色がカーテン越しに揺れていた。



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